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=== 少女時代 ===
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百合子は東京女子師範学校属高等女学校(現在の[[お茶の水女子大学附属高等学校]])在学中から小説を書き始める。[[1916年]]、[[日本女子大学]]英文科予科に入学早々、中条百合子の名で[[白樺派]]風の人道主義的な中編『貧しき人々の群』を『[[中央公論]]』9月号に発表し、天才少女として注目を集めた。なお日本女子大学予科はほどなく中退した。
百合子は[[東京女子師範学校]]附属高等女学校(現在の[[お茶の水女子大学附属高等学校]])在学中から小説を書き始める。[[1916年]]、[[日本女子大学]]英文科予科に入学早々、中条百合子の名で[[白樺派]]風の人道主義的な中編『貧しき人々の群』を『[[中央公論]]』9月号に発表し、天才少女として注目を集めた。なお日本女子大学予科はほどなく中退した。


=== 結婚と離婚 ===
=== 結婚と離婚 ===

2009年7月19日 (日) 04:49時点における版

宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年2月13日 - 1951年1月21日)は昭和期の小説家評論家。旧姓中條(ちゅうじょう)。本名ユリ。日本女子大学英文科中退。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集め、その後もプロレタリア文学の作家、民主主義文学のリーダーとして活躍した。日本共産党元委員長宮本顕治の元妻で、宮本と共に投獄、執筆禁止などを繰り返しながら活動を展開した。

経歴

生い立ち

東京市小石川区(現・文京区)に大正期の著名な建築家中條精一郎と葭江の長女として生まれる(本籍福島県郡山市南町)。父・精一郎は山形県米沢に生まれ、福島市で小学校を卒業して上京、東京帝国大学工科大学建築科を卒業後文部省の技師を経て札幌農学校土木工学科講師嘱託となった。母・葭江は明治初期に思想家として活躍した西村茂樹の長女であった。祖父・中條政恒は米沢藩士であり福島県典事を勤め、安積疎水の開鑿に尽力した。

少女時代

百合子は東京女子師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)在学中から小説を書き始める。1916年日本女子大学英文科予科に入学早々、中条百合子の名で白樺派風の人道主義的な中編『貧しき人々の群』を『中央公論』9月号に発表し、天才少女として注目を集めた。なお日本女子大学予科はほどなく中退した。

結婚と離婚

1918年、父と共にアメリカに遊学、翌年コロンビア大学聴講生となり、そこで知り合った15歳年上の古代東洋語研究者荒木茂と結婚。12月に帰国。しかし、夫婦の間には生活の面での食い違いが生じて、1924年に離婚。野上弥生子を介して知り合ったロシア文学者湯浅芳子と共同生活をおくりながら、破綻した不幸な結婚生活を長編『伸子』にまとめ、近代日本文学の第一級作品とされた。この時期の湯浅との往復書簡の全貌が、2008年に翰林書房より刊行(ISBN 978-4-87737-261-3)された。

プロレタリア作家として

1927年12月から湯浅と共にソ連へ外遊。映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインらと親交をもった。この時期にソ連やヨーロッパを訪れていた映画監督の衣笠貞之助や帰国後前進座を旗揚げする河原崎長十郎らとも親交をもつ。西欧旅行などを経て1930年11月帰国。翌月日本プロレタリア作家同盟に加入、プロレタリア文学運動に参加し、1931年日本共産党に入党。翌年、文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治と結婚したが、まもなくプロレタリア文化運動に加えられた弾圧のために顕治は非合法活動に従事することとなり、夫婦での生活期間は短かった。1933年、顕治が検挙され、日本共産党査問リンチ事件の主犯であるとして裁判にかかることになった。百合子は翌年正式に顕治と入籍して、中条から宮本へ改姓。1937年、筆名も宮本百合子に改める。

戦時中の苦難

百合子は獄中の顕治を獄外から支えたが、自らもたびたび検挙され、1936年には懲役2年・執行猶予4年の判決を受けた。その後も検挙や執筆禁止などを繰り返し経験し、体調を害する事もあったが、粘り強く文学活動を続けた。顕治は1944年に無期懲役の判決を受け、網走刑務所で服役することになったが、日本の敗戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が国内全政治犯の即時釈放を指令した事で、1945年10月に顕治も12年ぶりに出獄した。夫とかわした約900通の書簡はのちに二人の選択をへて、百合子の没後『十二年の手紙』として刊行された。

戦後の活躍

戦後に共産党の活動が再開されると、百合子は社会運動や執筆活動を精力的に取り組んだ。戦時中の執筆禁止からも解放され『風知草』、『播州平野』、『道標』など多くの作品を残した。波乱に満ちた生涯のうちの大部分が小説として自身の手で描き出されている。また、共産党員としては新日本文学会中央委員や婦人民主クラブ幹事を務め、共産党の指導による文芸運動や婦人運動の推進に努めた。

死去と没後

1950年、占領下の政治活動方針を巡る党内の混乱とレッドパージにより共産党の活動が大きく制限され、共産党中央委員であった顕治も公職追放対象者となり、国際派のリーダーとして党の分裂に直面した。百合子は新たな苦境の中でも執筆活動と党の宣伝活動を続け、同年には『道標』の全三部を完結させた。しかし、翌1951年1月に電撃性髄膜炎菌敗血症により急逝。享年51であった。

没後

百合子の死後、顕治は混乱を収拾して勢力を回復した共産党の書記長となり、百合子はその妻として、またプロレタリア文学の第一人者として、さらに高い評価を与えられるようになった。没後50年の2001年からは新日本出版社から宮本百合子全集の刊行が始まり、2004年に全33巻として完結された。この全集への推薦のことばには加藤周一に加え刊行当時の共産党議長の不破哲三や、かつて共産党員だった辻井喬(堤清二)も名を連ねている。

 主な作品 

  • 貧しき人々の群(1916年)
  • 伸子(1924年)
  • 一九三二年の春(1932年)
  • 乳房(1935年)
  • 杉垣(1939年)
  • 三月の第四日曜(1940年)
  • 播州平野(1946年)
  • 風知草(1946年)
  • 二つの庭(1947年)
  • 道標(1950年)

外部リンク