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*彼の監督就任と期を合わせて、阪神はホーム用ユニフォームのデザインを伝統のスタイルにしたものに改めた(1984年に背番号の書体を変更した以外のマイナーチェンジはなく、1987年まで使用。詳しくは阪神球団の公式ホームページを参照)。その1982年の開幕当初は低迷し、ユニフォームのせいだとまでいわれた。安藤監督は[[山本和行]]を再びリリーフ専任にするなどの手を打ったところ、6月から7月にかけて11連勝を達成する。このとき大阪や神戸ではちょっとした騒ぎになり、[[1985年|3年後]]の優勝フィーバーを先取りしていた。その後8連敗(厳密には●○●○のあと8連敗)を喫して、[[月亭八方]]などの落語家や大阪のお笑い芸人にネタにされたが、最終的にAクラスを確保することができた。
*彼の監督就任と期を合わせて、阪神はホーム用ユニフォームのデザインを伝統のスタイルにしたものに改めた(1984年に背番号の書体を変更した以外のマイナーチェンジはなく、1987年まで使用。詳しくは阪神球団の公式ホームページを参照)。その1982年の開幕当初は低迷し、ユニフォームのせいだとまでいわれた。安藤監督は[[山本和行]]を再びリリーフ専任にするなどの手を打ったところ、6月から7月にかけて11連勝を達成する。このとき大阪や神戸ではちょっとした騒ぎになり、[[1985年|3年後]]の優勝フィーバーを先取りしていた。その後8連敗(厳密には●○●○のあと8連敗)を喫して、[[月亭八方]]などの落語家や大阪のお笑い芸人にネタにされたが、最終的にAクラスを確保することができた。
*翌1983年は、前年の成績が優勝した[[中日ドラゴンズ|中日]]より1勝多く、最多勝の巨人とは1勝少ないだけだったため、ファンの間で19年ぶりの優勝の期待が盛り上がった。[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]で19年ぶりの優勝が続いた([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]・[[埼玉西武ライオンズ|西武]]、いずれも前身球団から)こともあり、次は阪神という気運となったがシーズンが始まると早々に巨人の独走を許し、優勝は安藤の退任後(その後を継いだのはチームの大先輩である[[吉田義男]])に持ち越されることになった。
*翌1983年は、前年の成績が優勝した[[中日ドラゴンズ|中日]]より1勝多く、最多勝の巨人とは1勝少ないだけだったため、ファンの間で19年ぶりの優勝の期待が盛り上がった。[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]で19年ぶりの優勝が続いた([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]・[[埼玉西武ライオンズ|西武]]、いずれも前身球団から)こともあり、次は阪神という気運となったがシーズンが始まると早々に巨人の独走を許し、優勝は安藤の退任後(その後を継いだのはチームの大先輩である[[吉田義男]])に持ち越されることになった。
*1984年には、[[福間納]]が中継ぎで登板を重ね、[[稲尾和久]]の持っていたシーズン登板記録(78試合)に迫るところに来ていた。このとき、プロ野球記録の調査研究で知られた[[宇佐美徹也]]は安藤監督に手紙を書いて、「形だけの記録の更新」を思いとどまるよう懇請したという。この手紙の故であったかは定かでないが、結局福間の登板数は稲尾より1試合少ない77試合となった。また、このシーズンの終盤には[[掛布雅之]]と中日の[[宇野勝]]がホームラン王のタイトルを争い、両者同数で両チームの直接対決が最終カードとなって、お互いが敬遠合戦を演じたためプロ野球ファンから多くの批判の声があがった。このように、最後のシーズンは記録やタイトルをめぐる騒動に巻き込まれて終わる形になった。
*1984年には、[[福間納]]が中継ぎで登板を重ね、[[稲尾和久]]の持っていたシーズン登板記録(78試合)に迫るところに来ていた。このとき、プロ野球記録の調査研究で知られた[[宇佐美徹也]]は安藤監督に手紙を書いて、「形だけの記録の更新」を思いとどまるよう懇請したという。この手紙の故であったかは定かでないが、結局福間の登板数は稲尾より1試合少ない77試合となった。また、このシーズンの終盤には[[掛布雅之]]と中日の[[宇野勝]]がホームラン王のタイトルを争い、両者同数で両チームの直接対決が最終カードとなって、お互いが敬遠合戦を演じたためプロ野球ファンから多くの批判の声があがった。このように、最後のシーズンは記録やタイトルをめぐる騒動に巻き込まれて終わる形になった。こうしたなか、シーズンオフにはスポーツ各紙が競って来期の監督人選について一面を飾り、半ば既成事実化されたような雰囲気の中、不本意にも安藤の解任が決定してしまう。解任決定時に安藤は、マスコミ関係者に「よくも俺を辞めさせたな!」と怒鳴って怒りをぶつけた。
*1984年のシーズン中自宅に差出人不明の封書が届きそれを開けた夫人の頭が一瞬にして真っ白(髪の毛が白髪になってしまった、ただし[[ベルサイユのばら#その他|実際にはそんな現象は起こりえない]])になってしまった。というのも[[ゴキブリ]]の死骸が入っていたためで送った主は氏名不詳の人物。これに限らずこの年安藤は氏名不詳の人物によるいやがらせを受けていてこれがシーズン終了後の辞任の端緒となっている
*1984年のシーズン中自宅に差出人不明の封書が届きそれを開けた夫人の頭が一瞬にして真っ白(髪の毛が白髪になってしまった、ただし[[ベルサイユのばら#その他|実際にはそんな現象は起こりえない]])になってしまった。というのも[[ゴキブリ]]の死骸が入っていたためで送った主は氏名不詳の人物。これに限らずこの年安藤は氏名不詳の人物によるいやがらせを受けてい
*なお、上記の件によるトラウマから安藤は辞任後再び指導者として阪神のユニフォームに袖を通すのをためらっている{{要出典}}。加えて夫人の体調の悪化により、優秀な指導者でありながら50歳の若さで現場を退いてしまったことが惜しまれる。
*なお、上記の件によるトラウマから安藤は辞任後再び指導者として阪神のユニフォームに袖を通すのをためらっている{{要出典}}。加えて夫人の体調の悪化により、優秀な指導者でありながら50歳の若さで現場を退いてしまったことが惜しまれる。
*[[2001年]]に夫人の脱税発覚で退陣した[[野村克也]]に代わり、阪神の監督後任候補として上げられたが、夫人の介護に専念するために断っていた。
*[[2001年]]に夫人の脱税発覚で退陣した[[野村克也]]に代わり、阪神の監督後任候補として上げられたが、夫人の介護に専念するために断っていた。

2008年6月22日 (日) 03:08時点における版

安藤 統男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県土浦市
生年月日 (1939-04-08) 1939年4月8日(85歳)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1962年
初出場 1962年
最終出場 1973年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

安藤 統男あんどう もとお1939年4月8日 - )は兵庫県芦屋市生まれ、茨城県土浦市出身のプロ野球選手プロ野球監督野球解説者。現役時代の名前は「統夫(もとお)」。血液型はB型。

来歴・人物

土浦一高にて木内幸男に1、2年次に指導を受ける。高校3年次に甲子園出場。慶應義塾大学では早慶六連戦に出場した(サヨナラのチャンスに三塁走者として本塁タッチアウト。現在でも「あのプレーはセーフだった」と言っている)ほか4年時には主将を務め、遊撃手としてベストナインを2回獲得するなど活躍した。リーグ通算103試合に出場し382打数107安打、1本塁打、30打点、打率.280。1962年に阪神タイガース入団。現役時代は1962年1973年の12年間、内野・外野どこでも守れるユーティリティプレーヤーとして活躍した。1970年には打撃ベストテン2位となり、オールスターゲームにも出場した。

引退後1974年1975年1軍守備コーチ、1976年2軍守備コーチ、1977年2軍監督、1978年1980年1軍守備走塁コーチ、1981年2軍監督。早くから将来の指導者として期待されていた通り、1982年より阪神監督に就任。1年目の1982年は3位、2年目の1983年と3年目の1984年は4位で、同年の最終戦では挨拶の最中に野次が飛ばされるなど散々な目に遭い辞任したが、1985年のリーグ優勝・日本一の基礎を築いたとして評価は高い。ランディ・バースが来日したのも彼が監督在任中のことである。

その後は毎日放送解説者を経て1987年1989年関根潤三監督の招きでヤクルトスワローズのヘッドコーチを務め、ここでも1年目4位、2年目5位、3年目4位とチーム成績は振るわなかったが、1990年代の強いヤクルトの基礎を築いた。「選手に無理をさせない」が監督・コーチとしての信条である。現在は毎日放送・スポーツ報知野球解説者、阪神OB会会長を務めている。

エピソード

  • プロ入団に際しては、巨人からも誘いの声があったが断った。巨人の川上哲治監督に会いに行き、「私は強い巨人に入るより、戦う側に回りたい」と断りを入れた。川上監督から怒られるのではと内心ビクビクしていたらしいが、意外にも感心され、激励されたという。川上は阪神入団後も何かと気にかけてくれ、その後、阪神の監督時代にファンから中傷を受けた際(後述)にも、「絶対に途中で投げだすんじゃないぞ」とアドバイスをもらったという。本人がラジオ番組で語っていたエピソードである。
  • 彼の監督就任と期を合わせて、阪神はホーム用ユニフォームのデザインを伝統のスタイルにしたものに改めた(1984年に背番号の書体を変更した以外のマイナーチェンジはなく、1987年まで使用。詳しくは阪神球団の公式ホームページを参照)。その1982年の開幕当初は低迷し、ユニフォームのせいだとまでいわれた。安藤監督は山本和行を再びリリーフ専任にするなどの手を打ったところ、6月から7月にかけて11連勝を達成する。このとき大阪や神戸ではちょっとした騒ぎになり、3年後の優勝フィーバーを先取りしていた。その後8連敗(厳密には●○●○のあと8連敗)を喫して、月亭八方などの落語家や大阪のお笑い芸人にネタにされたが、最終的にAクラスを確保することができた。
  • 翌1983年は、前年の成績が優勝した中日より1勝多く、最多勝の巨人とは1勝少ないだけだったため、ファンの間で19年ぶりの優勝の期待が盛り上がった。パ・リーグで19年ぶりの優勝が続いた(日本ハム西武、いずれも前身球団から)こともあり、次は阪神という気運となったがシーズンが始まると早々に巨人の独走を許し、優勝は安藤の退任後(その後を継いだのはチームの大先輩である吉田義男)に持ち越されることになった。
  • 1984年には、福間納が中継ぎで登板を重ね、稲尾和久の持っていたシーズン登板記録(78試合)に迫るところに来ていた。このとき、プロ野球記録の調査研究で知られた宇佐美徹也は安藤監督に手紙を書いて、「形だけの記録の更新」を思いとどまるよう懇請したという。この手紙の故であったかは定かでないが、結局福間の登板数は稲尾より1試合少ない77試合となった。また、このシーズンの終盤には掛布雅之と中日の宇野勝がホームラン王のタイトルを争い、両者同数で両チームの直接対決が最終カードとなって、お互いが敬遠合戦を演じたためプロ野球ファンから多くの批判の声があがった。このように、最後のシーズンは記録やタイトルをめぐる騒動に巻き込まれて終わる形になった。こうしたなか、シーズンオフにはスポーツ各紙が競って来期の監督人選について一面を飾り、半ば既成事実化されたような雰囲気の中、不本意にも安藤の解任が決定してしまう。解任決定時に安藤は、マスコミ関係者に「よくも俺を辞めさせたな!」と怒鳴って怒りをぶつけた。
  • 1984年のシーズン中自宅に差出人不明の封書が届きそれを開けた夫人の頭が一瞬にして真っ白(髪の毛が白髪になってしまった、ただし実際にはそんな現象は起こりえない)になってしまった。というのもゴキブリの死骸が入っていたためで送った主は氏名不詳の人物。これに限らずこの年安藤は氏名不詳の人物によるいやがらせを受けていた。
  • なお、上記の件によるトラウマから安藤は辞任後再び指導者として阪神のユニフォームに袖を通すのをためらっている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。加えて夫人の体調の悪化により、優秀な指導者でありながら50歳の若さで現場を退いてしまったことが惜しまれる。
  • 2001年に夫人の脱税発覚で退陣した野村克也に代わり、阪神の監督後任候補として上げられたが、夫人の介護に専念するために断っていた。
  • 趣味はクルマで、実家帰省時には飛行機や新幹線ではなくアルファ・ロメオで東名を飛ばしたほど。
  • 現役引退直後の1973年秋、人づてに頼まれて無名だった掛布雅之に入団テストを受けさせるよう、当時の金田正泰監督に取り次いだ。
  • 1988年、掛布が引退を発表した際、安藤はこの年(掛布は引退当時33歳)で球界を去るのは惜しい、引退は体力・気力の限界だけでなく人間関係が原因なのではないかと考えた。当時、ヤクルトのヘッドコーチを務めていた安藤は「ヤクルトに来い」と掛布に電話をかけた。掛布の背中を見せて池山隆寛広澤克実に本物の4番とはどういうものか教えたい、最後は阪神に帰ればいいと説得したという。しかし掛布は丁重に断った。この話は2003年、ラジオで安藤と掛布が出演した際明かされた。
  • 大の甘党で、本人によるとスワローズのコーチ時代、関根潤三監督と作戦会議をあんみつ屋で開いていたそうである。

現役時代の年度別成績

年度 チーム

試合 打数 得点 安打 二塁
三塁
本塁
塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死
三振 打率(順位)
1962年 阪神 9 56 82 13 15 0 1 0 17 1 3 4 0 9 16 .183
1963年 96 206 22 42 2 1 0 46 13 18 9 2 19 24 .204
1964年 59 114 14 27 4 1 1 36 6 4 8 0 4 18 .237
1965年 107 223 29 51 5 0 3 65 17 16 13 0 16 17 .229
1966年 111 284 17 55 8 0 3 72 16 5 6 0 15 29 .194
1967年 63 77 5 17 2 1 1 24 5 1 2 0 5 14 .221
1968年 39 93 12 19 5 0 2 30 6 1 3 0 8 12 .204
1969年 86 234 36 57 6 2 9 94 21 2 8 0 20 31 .244
1970年 121 378 45 111 15 1 10 158 30 3 29 1 32 45 .294(2)
1971年 63 114 7 14 2 0 1 19 5 1 7 1 13 24 .123
1972年 85 209 23 43 5 1 3 59 15 2 9 1 15 37 .206
1973年 36 50 0 6 0 0 0 6 3 0 0 0 4 18 .120
通算成績 922 2064 223 457 54 8 33 626 138 56 98 5 160 285 .221

タイトル・表彰

監督としてのチーム成績

年度年度順位試合数勝利敗戦引分勝率ゲーム差チーム本塁打チーム打率チーム防御率年齢球団
1982年昭和57年3位13065578.5334.5118.2623.4443歳阪神
1983年昭和58年4位13062635.49611.5169.2744.2244歳
1984年昭和59年4位13053698.43423165.2644.4645歳
※1982年から1996年までは130試合制

監督通算成績

  • 388試合 178勝189敗21分 勝率.485
  • Aクラス1回、Bクラス2回

背番号

現在の出演番組

関連項目

先代
中西太
1980年途中~1981年
阪神タイガース
監督
1982年1984年
次代
吉田義男
1985年1987年
※カッコ内は監督在任期間。