源貞恒
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 天安元年(857年) |
死没 | 延喜8年8月1日(908年8月30日) |
改名 | 貞恒王→源貞恒 |
別名 | 貞経 |
官位 | 正三位、大納言 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 光孝源氏 |
父母 | 父:光孝天皇 |
兄弟 |
元長、兼善、名実、篤行、最善、近善、音恒、是恒、旧鑑、遅子、麗子、竒子、忠子内親王、貞恒、成蔭、是忠親王、是貞親王、国紀、宇多天皇、香泉、友貞、簡子内親王、崇子、連子、綏子内親王、礼子、最子、偕子、黙子、是子、並子、深子、為子内親王、周子、密子、繁子内親王、穆子内親王、緩子、和子、謙子、袟子、快子、善子など多数 養兄弟:是茂 |
子 | 仲宣(仲信) |
源 貞恒(みなもと の さだつね)は、平安時代前期の賜姓皇族・公卿。光孝天皇の第十皇子。官位は正三位・大納言。
経歴
[編集]貞観12年(870年)同じ時康親王の子息である兄の元長王・兼善王らと共に合わせて14名が源朝臣姓を与えられて臣籍降下する。貞恒は仁明天皇の孫であったが、二世王としての蔭位は受けられず陽成朝末の元慶7年(877年)従五位下に叙爵する。しかし、翌元慶8年(884年)2月に父・時康親王が即位(光孝天皇)したことに伴い、同年5月に天皇の子女である源近善・源是忠・源忠子と共に一世王として昇叙を受け、貞恒は五階昇進して従四位上に叙せられた。翌元慶9年(885年)美濃守に任官する。
宇多朝に入ると、寛平2年(890年)右近衛中将、寛平3年(891年)左兵衛督と武官を歴任し、寛平5年(893年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として、左兵衛督・大蔵卿・右衛門督・検非違使別当等を兼帯する。
醍醐朝において、昌泰3年(900年)従三位、延喜2年(902年)中納言、延喜6年(906年)正三位と順調に昇進し、延喜8年(908年)正月には大納言に至るが、同年8月1日薨去。享年52。最終官位は大納言正三位兼行民部卿。
官歴
[編集]元慶年間までは『日本三代実録』、寛平年間以降は『公卿補任』による。
- 貞観12年(870年) 2月14日:臣籍降下(源朝臣)
- 元慶7年(883年) 正月7日:従五位下(直叙)
- 元慶8年(884年) 5月29日:従四位上(越階。光孝天皇皇子)
- 元慶9年(885年) 正月16日:美濃守
- 寛平2年(890年) 正月28日:右近衛中将
- 寛平3年(891年) 正月30日:兼備前権守。4月11日:兼左兵衛督
- 寛平5年(893年) 2月16日:参議、備前権守如元
- 寛平6年(894年) 12月15日:兼大蔵卿
- 寛平8年(896年) 正月7日:正四位下。正月26日:兼播磨権守
- 寛平9年(897年) 正月11日:兼侍従。5月25日:兼右衛門督検非違使別当、去大蔵卿
- 寛平10年(898年) 正月29日:兼伊予権守
- 昌泰3年(900年) 正月16日:従三位
- 延喜2年(902年) 正月26日:中納言、右衛門督検非違使別当如元
- 延喜6年(906年) 11月7日:正三位(法皇御賀院別当賞)
- 延喜8年(908年) 正月16日:大納言。2月21日:兼民部卿。8月1日:薨去(大納言正三位兼行民部卿)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:光孝天皇
- 母:不詳
- 生母不明の子女
- 男子:源仲宣