河越貞重
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時代 | 鎌倉時代末期 |
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生誕 | 文永9年(1272年) |
死没 | 元弘3年5月9日(1333年6月21日) |
改名 | 貞重(諱)→乗誓(法名) |
別名 | 三河前司、川越参河入道 |
官位 | 従五位下、三河守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 将軍:守邦親王 |
氏族 | 河越氏 |
父母 | 父:河越経重? または 宗重? |
兄弟 | 宗重?、貞重 |
子 | 高重 |
河越 貞重(かわごえ さだしげ)は鎌倉時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。鎌倉幕府御家人。武蔵河越氏の当主。
河越宗重の嫡男とされるが、『常楽記』によると、宗重は文永8年生まれで貞重と一歳しか違わないため、両者は親子ではなく兄弟と考えられる。その場合、貞重の父は河越経重となる。
生涯
[編集]北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を受けて貞重と名乗る[注釈 1]。
史料上の初見は元亨3年(1323年)、北条貞時十三年忌供養で金沢流北条氏や得宗被官に混じって「砂金五十両〈二文匆〉、銀剣一」という進物をしている記録である。
元弘元年(1331年)5月、日野俊基らの元弘の乱が起こると、鎌倉幕府から在京すべき20名の有力御家人に選ばれて上洛する。9月、河内国下赤坂城で挙兵した楠木正成を討つための大和軍に加わる。
元弘3年(1333年)4月、丹波国篠村庄で後醍醐天皇側に寝返った足利高氏・赤松則村(円心)らの六波羅攻撃を防いでいたが、六波羅探題は陥落。北条時益・北条仲時と共に、光厳天皇を奉じて鎌倉へ退却するが、近江国で比叡山の僧兵の闇討ちにあった時益は戦死。残った仲時とそのまま東へ向うが、5月9日、番場宿において佐々木導誉が差し向けたとも言われる野伏[注釈 2]に行く手を阻まれ、蓮華寺で自害した。享年62。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった秩父氏[1]の嫡流である河越氏もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており[2][3](→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰重が北条泰時、経重が北条経時、宗重が北条時宗、貞重が北条貞時、高重が北条高時から一字を拝領したと考えられる[4]。
- ^ 『太平記』含め、佐々木導誉がこれに直接関与したとする同時代史料はないが、足利尊氏と導誉との間に密約があり、また近江国番場が導誉の所領だったと記す後世の佐々木氏関連史料から、導誉の関与を想定する森茂暁の意見がある[5]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。
- 森茂暁『佐々木導誉』吉川弘文館〈人物叢書〉、1994年。
- 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1620-8。