コンテンツにスキップ

松平定長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平定長
時代 江戸時代前期
生誕 寛永17年6月17日1640年8月4日
死没 延宝2年2月12日1674年3月19日
戒名 天鏡院殿前四品寂翁月照大居士
官位 従四位下隠岐守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
伊予松山藩
氏族 久松松平家定勝
父母 父:松平定頼、母:養仙院(京極高広娘)
兄弟 真修院、酒井忠直正室、定盛、正寿院、定長、仙寿院、定重
正室:姫松小笠原忠真養女)
継室:春光院京極高勝娘)
養子:定安定直
テンプレートを表示

松平 定長(まつだいら さだなが)は、江戸時代前期の大名伊予国松山藩の第3代藩主。定勝系久松松平家宗家4代。官位従四位下隠岐守侍従

生涯

[編集]

寛永17年(1640年)6月17日、2代藩主・松平定頼の次男として誕生した。寛文2年(1662年)、長兄・定盛の廃嫡と前後して父の定頼も急死し、遺領松山藩15万石を継承する。翌3年、三津浜に魚市場を開くなど民政に尽くす。この年、従五位下から従四位下に昇る。その他、道後湯月宮(現・伊佐爾波神社)や味酒明神(現・阿沼美神社)などを再興するなど祭祀施設の興隆にも尽くす。定長は太平の御世らしく連歌にも長じ、多くの名作を残した。また、弓術の名手でもあり、寛文4年(1664年)には4代将軍徳川家綱の前で弓射を披露している。

同4年(1664年)、石見守を改め隠岐守に転ずる。延宝2年(1674年正月21日江戸において大病に陥り、今治藩主・松平定時の嫡男の鍋之助(のちの定直)を養嗣に迎える。同年2月12日、江戸松山藩邸三田中屋敷にて卒去した。享年35。松山入りは父・定頼と同じくわずか3回であった。

戒名は天鏡院殿前四品寂翁月照大居士。遺髪は身延山久遠寺に納められる。遺骸は父定頼と同じく三田済海寺荼毘に付され、遺骨は松山の大林寺に葬られる。

系譜

[編集]

脚注

[編集]