松平定長
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永17年6月17日(1640年8月4日) |
死没 | 延宝2年2月12日(1674年3月19日) |
戒名 | 天鏡院殿前四品寂翁月照大居士 |
官位 | 従四位下・隠岐守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 伊予松山藩主 |
氏族 | 久松松平家定勝流 |
父母 | 父:松平定頼、母:養仙院(京極高広娘) |
兄弟 | 真修院、酒井忠直正室、定盛、正寿院、定長、仙寿院、定重 |
妻 |
正室:姫松(小笠原忠真養女) 継室:春光院(京極高勝娘) |
子 | 養子:定安、定直 |
松平 定長(まつだいら さだなが)は、江戸時代前期の大名。伊予国松山藩の第3代藩主。定勝系久松松平家宗家4代。官位は従四位下・隠岐守、侍従。
生涯
[編集]寛永17年(1640年)6月17日、2代藩主・松平定頼の次男として誕生した。寛文2年(1662年)、長兄・定盛の廃嫡と前後して父の定頼も急死し、遺領松山藩15万石を継承する。翌3年、三津浜に魚市場を開くなど民政に尽くす。この年、従五位下から従四位下に昇る。その他、道後湯月宮(現・伊佐爾波神社)や味酒明神(現・阿沼美神社)などを再興するなど祭祀施設の興隆にも尽くす。定長は太平の御世らしく連歌にも長じ、多くの名作を残した。また、弓術の名手でもあり、寛文4年(1664年)には4代将軍・徳川家綱の前で弓射を披露している。
同4年(1664年)、石見守を改め隠岐守に転ずる。延宝2年(1674年)正月21日、江戸において大病に陥り、今治藩主・松平定時の嫡男の鍋之助(のちの定直)を養嗣に迎える。同年2月12日、江戸松山藩邸三田中屋敷にて卒去した。享年35。松山入りは父・定頼と同じくわずか3回であった。
戒名は天鏡院殿前四品寂翁月照大居士。遺髪は身延山久遠寺に納められる。遺骸は父定頼と同じく三田の済海寺で荼毘に付され、遺骨は松山の大林寺に葬られる。
系譜
[編集]- 正室:姫松 - 小笠原忠真養女、小笠原長安娘
- 継室:春光院 - 京極高勝娘、墓所は愛媛県松山市の法華寺の京極家墓所
- 長女:貞(1669年 - 1678年)
- 次女:元(1670年 - 1679年)
- 養子
脚注
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