斯波宗氏
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時代 | 鎌倉時代中期 - 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正和元年(1312年)12月?[1] |
改名 |
又三郎、尾張守(通称)、足利家貞(初名?)[注釈 1] 足利宗氏 |
別名 | 斯波宗氏、斯波家貞 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 足利氏→斯波氏 |
父母 | 父:足利宗家、母:苅田時継の娘 |
妻 | 正室:長井時秀の娘[3] |
子 | 高経、家兼ほか |
斯波 宗氏(しば むねうじ)は、鎌倉時代中期ごろから後期にかけての武将。斯波氏(足利尾張家)第3代当主。
概要
[編集]斯波宗家(足利宗家)の嫡男で、母は北条時継の女。又三郎、尾張守と称す。初めは家貞(いえさだ)を名乗っていたとされる[注釈 1]。妻は大江時秀(長井時秀)の娘[3]。南北朝時代の有力武将である斯波高経、斯波家兼兄弟の父。
宗氏の生涯は不明な点が多いが、延慶2年(1309年)3月29日には幕府尋問に応じて証文を提出[4]しているため、この頃までには足利尾張家の当主となっていたと思われる。同時代には歌人として名を知られていたらしく、「続後拾遺和歌集」や「新千載和歌集」等の勅撰和歌集にその歌が撰録されている。「尊卑分脉」などの諸系図では「早世」とあり、また平成30年(2018年)に高野山金剛三昧院にて発見された宗氏の五輪塔の銘文には「正和元年十二月」と刻まれていることから、これを宗氏の没年とする説もある。少なくとも嫡子・高経が元亨3年(1323年)12月の北条貞時十三回忌供養において、足利貞氏、吉良貞義らと共にこれに参加していることから、この頃までに死去した可能性がある。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『高野山大学密教文化研究所紀要』第33号「源氏一門墓所としての高野山金剛三昧院-新発見の足利宗氏五輪塔を中心として-」木下浩良(2020年)
- ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、再興中世前期勉強会、2004年、21頁。
- ^ a b c 伊藤一美 著「斯波高経」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、268頁。
- ^ 随相尋之足利又三郎宗氏(宗家息)、延慶二年三月廿九日請文者、岡成名父祖領知事、承久兵乱比、地頭・名主大略帰遠江守朝時之刻、安貞年中各以所領令寄附、即可補代官職之旨、就望申安堵訖、所務之次第為治息代〃賜宛文、済年貢畢、宛身依不領掌、不帯証状云々 (『朽木家文書』「正慶元年九月二十三日付北条茂時・赤橋守時連署関東裁許状案」)