斯波義郷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
斯波義郷
時代 室町時代中期
生誕 応永17年(1410年
死没 永享8年9月30日1436年11月8日
改名 瑞鳳(法名)→斯波義郷(還俗後)
別名 勘解由小路殿
戒名 宝泉院殿道慶祥岩
官位 従四位下左衛門佐治部大輔
幕府 室町幕府越前尾張遠江守護
氏族 斯波氏
父母 父:斯波義重(義教)、母:甲斐教光の娘
兄弟 義淳義郷持有
義健[1]
テンプレートを表示

斯波 義郷(しば よしさと)は室町時代中期の守護大名。斯波氏(武衛家)8代当主。斯波義教(初め斯波義重)の次男。母は甲斐教光の娘で甲斐常治は従兄弟にあたる。7代当主の斯波義淳は異母兄。同母弟に斯波持有がいる。子に義健。官位履歴は従五位下から従四位下治部大輔そして左衛門佐

概要[編集]

初め僧籍にあり、瑞鳳と名乗り相国寺の鄂隠和尚の弟子であった。永享5年(1433年)11月、兄義淳が重病となると、6代将軍足利義教の命により還俗し、斯波氏の家督を継ぎ、また義教より偏諱(「義」の字)を賜って斯波義郷と名乗る[2]。永享6年(1434年)2月に室町幕府に出仕。越前尾張遠江守護職を継承する。義教は義郷を気に入ったらしく、家督を継いだ直後の永享6年2月4日には義郷邸を訪問(『満済准后日記』)し、同年12月26日に義郷が正式に元服した際には加冠役を務めている(『看聞日記』)。

家督を継いで3年後の永享8年(1436年)9月29日、正親町三条実雅正親町三条公治の父、義教正室・尹子の兄)宅訪問の帰路、陸橋から馬もろとも転落し、翌30日に死去した。享年27。法名は宝泉院殿道慶祥岩。家督は子の千代徳丸(斯波義健)が2歳で継いだ。

偏諱を受けた人物[編集]

義郷時代(斯波氏当主時代)

脚注[編集]

  1. ^ 『満済准后日記』永享6年2月9日条には、義郷に若公が誕生したとする記事があるが、年代的に義健の兄にあたると推定される。もっとも、その後にこの男子の記録が見られないため、生後程なく没したとみられる(「室町期の斯波氏について」)。
  2. ^ 弟の持有は既に元服しており、義教の兄で4代将軍の足利義持から「持」の字を賜っている。逆転現象が生じているのはこのためであり矛盾ではない。尚、この際に提示された実名は3種で、義郷の他には義勝・義昌が候補であった(『満済准后日記』)。

参考文献[編集]

  • 今谷明; 藤枝文忠 編『室町幕府守護職家事典』 下、新人物往来社、1988年。 
  • 小泉義博「室町期の斯波氏について」『北陸史学』42号、1993年。 /所収:木下聡 編『管領斯波氏』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第一巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-146-2