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吉良貞義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉良 貞義
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 興国4年/康永2年(1343年[1]
別名 弥太郎、上総禅門
戒名 実相寺殿敏蒙観省大禅定門
官位 従五位下上総式部丞左京亮
幕府 鎌倉幕府室町幕府
主君 惟康親王久明親王守邦親王足利尊氏
氏族 三河吉良氏
父母 父:吉良満氏、養父:吉良長氏
兄弟 貞氏貞義荒川貞弘北条時国正室
満義助時
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吉良 貞義/足利 貞義(きら さだよし/あしかが さだよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将三河国西条城主。

生涯

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鎌倉幕府御家人として9代執権北条貞時から偏諱を受けて貞義と名乗ったようである。弘安4年(1281年)の弘安の役の際、大将として石見国に下向したと伝わる[2]。その頃の石見地頭は「三河吉良右衛門」で、その末裔が羽隅氏を名乗り石見に土着したという。

弘安8年(1285年)の霜月騒動で父・吉良満氏を亡くし、吉良荘の領地が祖父・長氏に一旦返還されたため、長氏の養子となり所領を相続した。元亨3年(1323年北条貞時の十三回忌供養では、一族の足利貞氏斯波高経らと共に参加[3]。砂金100両、太刀一腰を進上した。吉良氏が史料に表れるのは、霜月騒動以来この時が初めてであり、幕府への再出仕がようやく許されたと思われる。

元弘3年(1333年)3月、足利高氏は幕命により楠木正成らの討伐軍大将として鎌倉を出立、三河国八橋[4]で軍議を開くが、既に幕府離反を決意していた高氏は、上杉憲房を貞義[5]の許へ使いに出し、決意を述べ貞義の意見を求めたが、貞義は「決意は誠に目出度い、むしろ決断が遅過ぎると思ったほど」と答え、高氏の考えを支持、これに自信を得た高氏は倒幕行動を開始する[6]

建武2年(1335年)、中先代の乱が始まると、尊氏(高氏)・直義兄弟とともに行動し、建武政権から離脱する[7]。同3年(1336年)正月、今川範国天野経顕など遠江国の軍勢を率いて、近江国勢多を攻撃した[7]。京都で後醍醐天皇方に敗れ、同年2月、足利氏とともに九州に落ちのびる[8]。その後、足利氏に従い、同年6月、入京する[8]。この時、石清水八幡宮加賀国能美庄を寄進した[8]。同4年(1337年)3月、代官を伊予国忽那島に派遣し、細川皇海と連携して忽那義範と戦わせた[9]

興国4年/康永2年(1343年)に没する[10]

関連作品

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テレビドラマ

脚注

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  1. ^ 「海蔵紀年実相寺伝記」による。
  2. ^ 養寿寺本吉良系図の注による。
  3. ^ 谷口 2022, p. 44.
  4. ^ 現在の愛知県知立市
  5. ^ 既に入道し上総禅門と称す。
  6. ^ 難太平記』による。
  7. ^ a b 谷口 2022, p. 100.
  8. ^ a b c 谷口 2022, p. 101.
  9. ^ 谷口 2022, p. 102.
  10. ^ 谷口 2022, p. 57.

出典

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  • 「吉良町史 原始・古代・中世前期」
  • 「吉良町史 中世後期・近世」
  • 柳史朗「吉良氏十五代記」(1977年)

参考文献

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  • 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6