富小路公脩
表示
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 永仁2年(1294年) |
死没 | 建武4年/延元2年2月17日(1337年3月19日) |
官位 | 正二位、権中納言、弾正尹 |
主君 | 伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇 |
氏族 | 小倉家 |
父母 | 父:小倉実教 |
兄弟 | 季孝、小倉季雄、公脩、公煕、教子、洞院公賢室、園基成室、女子、忠房親王妃 |
子 | 小倉実名[1]、実敦、證季 |
富小路 公脩(とみのこうじ きんなが)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言・小倉実教の二男。母は小倉季雄に同じか[2]。官位は正二位・権中納言、弾正尹。小倉家は公脩の子孫が継いでいくことになった。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 永仁6年(1298年)1月5日、叙爵[3]。
- 永仁7年(1299年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 正安2年(1300年)4月7日、正五位下に昇叙。同年12月30日、侍従に任ぜられる。
- 正安3年(1301年)12月6日、従四位下に昇叙。同月11日、侍従は元の如し。
- 嘉元4年(1306年)3月30日、武蔵権介を兼ねる。同年12月22日、右少将に任ぜられる。
- 徳治2年(1307年)4月3日、従四位上に昇叙。
- 延慶2年(1309年)6月12日、正四位下に昇叙。
- 延慶3年(1310年)4月7日、右中将に転任。同年12月28日、左中将に転任。
- 正和3年(1314年)10月21日、従三位に叙せられる。
- 正和4年(1315年)6月27日、右兵衛督に任ぜられる。
- 正和5年(1316年)8月12日、左兵衛督に転任。9月12日、参議に任ぜられる。参議に任ぜられると同時に左中将を兼ねる。
- 文保元年(1317年)3月27日、備中権守を兼ねる。同年4月16日、権中納言に転任。
- 文保2年(1318年)1月5日、正三位に昇叙。
- 元応元年(1319年)3月9日、権中納言を止められる。同年閏7月5日、従二位に昇叙。
- 元亨2年(1322年)、本座を許される。
- 嘉暦3年(1328年)1月5日、正二位に昇叙。
- 元徳3年/元弘元年(1331年)11月5日、弾正尹に任ぜられる。
- 正慶2年/元弘3年(1333年)5月17日、弾正尹を止められる[4]。
- 建武4年/延元2年(1337年)2月17日、薨去。享年44。
歌人として
[編集]『増鏡』[5]によれば、十五夜の歌合に父実教、兄季雄と共に召されて詠出している。
系譜
[編集]- 父:小倉実教(1264-1349)
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:小倉実名 - 参議、中将
- 男子:実敦
- 男子:證季