坊城俊政
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坊城俊政 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政9年8月21日(1826年9月22日) |
死没 | 明治14年(1881年)9月16日[1] |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 坊城家 |
父母 |
父:坊城俊明、母:家女房 養父:坊城俊克 |
兄弟 | 坊城俊迪、勧修寺顕彰、中御門経之、俊政、芝小路豊訓、芝山敬豊、波多野広善、穂穙俊弘、南坊城梓 |
妻 | 婉御 |
子 |
今園国映、俊延、芝山祐豊、録子、直、美津、式子、梓子、本田あふひ 養子:俊章 |
坊城 俊政(ぼうじょう としただ)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。
経歴
[編集]山城国京都で坊城俊明の六男として生まれ、父の弟坊城俊克の養子となる[2][3]。天保8年3月28日(1837年5月2日)に元服し昇殿を許される[2]。安政4年5月15日(1857年6月6日)侍従となる[2]。以後、右少弁、蔵人、御祈奉行、左少弁、賀茂下上社奉行、氏院別当、兼右衛門権佐、右中弁などを歴任[2]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年3月29日(1868年4月21日)参議、右大弁、参与に就任[4]。以後、弁官事、兼内弁事、給禄取調御用掛、大弁、制度分局御用、大嘗会御用掛、式部長などを務め、明治4年8月10日(1871年9月24日)式部頭に就任[4]。以後、宮中の祭祀、典礼を司った[1]。
系譜
[編集]- 父:坊城俊明(1782-1860)
- 母:家女房
- 養父:坊城俊克
- 妻:婉御(やさこ) - 小出英発の娘
- 養嗣子:坊城俊章(貴族院伯爵議員、坊城俊克長男)[3]
- 男子
- 女子
- 妹・益子 ‐ 信光寺(四日市市)住職・高木閑斉の妻。孫(養子の子)に資生堂役員の高木契圓、日本画家の高木長葉(量)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
公職 | ||
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先代 (新設) |
式部頭 1871年 - 1881年 式部長 1871年 |
次代 (欠員→)鍋島直大 |