坊城俊完

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坊城俊完
時代 江戸時代
生誕 慶長14年11月27日1609年12月23日
死没 寛文2年1月2日1662年2月20日
改名 葉室頼豊→俊完→常空
官位 正二位権大納言
主君 後水尾天皇明正天皇後光明天皇
氏族 坊城家葉室家→坊城家
父母 父:坊城俊昌、母:松倉重政の娘
兄弟 経広俊完小堀正春
正室:岩倉具堯の娘
継室:織田尚長の娘
俊広俊章中将院
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坊城 俊完(ぼうじょう としまた)は、江戸時代公家公卿)。

堂上家(家格は、名家藤原北家高藤流勧修寺庶流)である、坊城家の11代当主。

経歴[編集]

参議坊城俊昌の次男。母は豊後守松倉重政の娘。正室は木工頭岩倉具尭岩倉家の祖)の娘。継室は、大和守織田尚長柳本藩主)の娘。実子に権大納言坊城俊広など。

はじめ、権中納言葉室頼宣の養子となって葉室家を相続し、葉室頼豊と称する。

元和2年(1616年)、坊城家10代当主の坊城俊直(後の権大納言勧修寺経広)が、右兵衛佐勧修寺教豊の養子となり勧修寺家を相続したため、頼豊が帰家し、坊城俊完と称した。

寛永9年(1632年)5月2日、参議。極位極官は、正二位権大納言

明暦3年(1657年)8月20日、出家し常空と号す。

系譜[編集]

末子 中将院[編集]

中将院は、坊城俊完の末子で、修験法を会得していた。 貞享2年(1685年)3月罪科不明のまま八丈島に流罪となった。当時、八丈島の樫立村では毎夜鬼が出没して、通りかかりの女、子供に悪ふざけをしていたが、中将院がこれを退治して諏訪に庁に鎮め祀ってから、その気配がなくなった。樫立村ではそれ以来、彼を神として尊崇してきたという。中将院の石室と呼ばれる墓が残されている。

関連項目[編集]