吉弘鎮信

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吉弘 鎮信
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文13年(1544年
死没 天正6年(1578年
改名 鎮生、鎮信、鎮宣、宗仞、宗鳳
別名 太郎、新介、嘉兵衛
官位 左近大夫
主君 大友義鎮(宗麟)
氏族 吉弘氏
父母 吉弘鑑理大友義鑑娘貞善院義誉静音[1]
兄弟 鎮信鎮理(高橋紹運)戸次宗傑室、
尊寿院桜井正続
臼杵鑑速娘玉流院妙泉
林ジュリア
統幸田北鎮生(統員)[2]統貞
林クインタ[3]大友親家[4]
戸次統常室、橋津伊兵衛室
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吉弘 鎮信(よしひろ しげのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友氏の家臣。吉弘鑑理の嫡男。

生涯[編集]

豊後国戦国大名大友氏の家臣・吉弘鑑理の嫡男として誕生。弟に高橋紹運がいる。主君・大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜り、鎮信と名乗る。

父と同様に大友氏に仕え、永禄4年(1561年)には、主君・義鎮の命で15000を率いて、毛利氏から豊前門司城を奪回するために大将として進軍した[5][6]。しかし、毛利方の村上水軍らの援軍に加え、毛利方の乃美宗勝一騎討ちにて大友方の伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)を討ち取ったことで敵味方の士気が逆転したため、門司城奪還は不可能と引き際を判断した鎮信は、同年11月には速やかに退却した。

永禄5年(1562年)、毛利元就の調略に乗った肥前国龍造寺隆信が大友方の城を圧迫。同じくして、大友氏家臣の高橋鑑種立花鑑載と謀って挙兵し、毛利氏の援軍4万も立花山城を目指した。これに対し大友氏は、永禄12年(1569年)4月、多布施口の戦いに勝利し龍造寺氏と和睦を急ぎ、出雲国では尼子残党決起を促す。周防国では、大内氏一門の大内輝弘を帰国させて挙兵させた上、5月にほぼ全軍を博多にて集結させた。10月15日、鎮信率いる隊は2~3000人。立花表布陣の毛利軍の背後に回り毛利の兵站線を叩き、毛利軍の死者は3500ほどにのぼったとされる。鎮信直属部隊の活躍は特に凄まじく、直属部隊のみで毛利兵百数十人を討ち取り、宗麟の賞賛を受けている[7]。また、毛利軍の殿を守ったのは毛利軍きっての猛将・吉川元春であった事からも、その凄まじさがうかがえる[8][9]

元亀2年(1571年)、父・鑑理の死去により家督を継ぎ、筑前国立花城督として、博多の商人との交渉などで活躍した(ただし、あくまでも吉弘氏の本城は豊後本国にある屋山城筧城であり、立花山に拠っていたのは大友家の城督としてである)。その後、大友宗麟が数々の苦言により邪魔になった立花道雪を立花城督に任命して遠ざけ、代わりに鎮信を帰国させ側近とした。以後は宗麟の側近を務め、奉行として活躍した。また、武勇に優れ、多々良浜の戦いや九州における毛利氏との戦いで数々の功績をあげた。

天正6年(1578年)、薩摩国島津氏との耳川の戦いに従軍。大友宗麟が任命した総大将・田原紹忍は、実戦経験が乏しく諸将を統率する力量に欠けたため、方針がまとまらないばかりか強行派と慎重派が対立するなど足並みが揃わなかった。『戸次軍談(戸次軍記)』によれば、耳川の戦いの前哨戦ともいえる高城攻撃が開始されて[10]、両軍の主力が小丸川、切原川挟み備えた時、斉藤鎮実と吉弘鎮信は務志賀の宗麟に旗本らと共に前線への出陣を促したが、宗麟は「田原紹忍の思意に従うべし」として動こうとはしなかった。この返事に鎮信らは怒り、「本陣の後楯なくば集結した国衆共は一時ともたず敗走すべし。粉骨砕いて我々は先を駆くるも後ろ守る勢なくして雑兵の気撓を万事如何にすべきか」と悔やんでいる。

軍議では角隈石宗と共に、様子を見ながら進退を決めるという立場を取り、一旦はそれでまとまったが、この決定に不満のあった強行派の田北鎮周が軍令を無視し、勝手に耳川を渡河し島津勢への攻撃を開始した。これを見た佐伯宗天は松山之陣より東へ迂回谷へ下り切原川へ至り渡河、島津の先陣を襲った。そのため吉弘隊もこれに巻き込まれる形で戦闘に加わらざるを得ない状況となった。

当初は、斉藤隊、吉弘隊、角隈隊、臼杵隊らを擁する大友軍が有利に戦いを進めたが、全体としての意思統一がなく統制が取れていなかったため、島津陣へ深追いするものがあとを立たなかった。そこへ島津軍の野伏せ兵が横腹から一斉に鉄砲を浴びせたため、大友軍の大半は大混乱に陥った。総大将の紹忍は退却を命ずるが、すでに連絡網を断たれ各隊がバラバラとなっていた大友勢は総崩れとなった。吉弘隊や角隈隊は個別に奮戦するが、戦局はくつがえせず鎮信は戦死した。

家督は子の統幸が継いだ[11]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『大友・松野・吉弘氏関係略系図』
  2. ^ 田北鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った田北鎮生(しげなり、のち統員に改名)が継承した(実子の鎮述(しげのぶ、日差城主)は早世していたものと思われる)。鎮周の戦死後の天正8年(1580年)、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。その後、主君の大友吉統が改易されると、統員は浪人して清成作平と改名し、寛永9年(1632年)には肥後国に移住して細川忠利に仕えたとされ、名を吉弘紹傳に改めた。統員の子・統生(むねなり)の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』P.116 には茂吉、掃部助、法名紹傳だけで記述されている。『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.426 吉弘氏系図 によると、始は田北平介と称す、子に吉弘治右衛門、池部彦允(彦左衛門、治右衛門。池部彦左衛門の養子)、吉弘傳左衛門、女子一名。
  3. ^ 『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の側室)と吉弘鎮信の娘・林クインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)。
  4. ^ 大友吉弘氏系図によると、吉弘鎮信と側室・林ジュリア(宗麟の室・奈多夫人の女中頭、のち宗麟の継室となった)の女・利根河道孝室。『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』吉弘系図 P.116。隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考
  5. ^ その際、ポルトガル船に大筒での砲撃も依頼している。
  6. ^ 『史料綜覧』第9編之910 535頁
  7. ^ 『吉弘文書』には、「辛十月十五日吉弘鎮信筑前立花陣に於て吉川、小早川の軍を討ちて功あり。十月二十七日大友宗麟吉弘家中の者初の分捕高名の着到状を披見して之を賞し激励するところあり」と記されている。
  8. ^ 吉永正春氏『筑前戦国史』61頁、『西国盛衰記』による。
  9. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 二 大友宗麟感状 去十五吉川・小早川敗北之砌、父子同前被付送、家中之者分捕高名之着到、銘々加披見候、別而忠儀之次第感悦候、弥可被勵御馳走事、可為祝着候、猶重々可申候、恐々謹言 十月廿七日 吉弘新介入道(鎮信)殿 P.398
  10. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 八 大友三非斎(宗麟)書状 去廿日至高城諸軍取懸、小屋以下悉打崩、勝利之次第預注進候、手始之覚、尤珍重候、各与力被官、或被疵分捕、或戦死之様躰、令承知候、殊其方家中へも或被疵衆候歟、追而以着到承、軍忠状可調進之候、雖無申迄候、弥可被勵馳走候、右城急度落去之調儀可為祝着候、猶厳重々吉左右、待存候、恐々謹言 十月廿二日 吉弘加兵衛入道(鎮信)殿 P.400
  11. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)128 吉弘(重代)家文書 四 大友圓斎(宗麟)書状写 於今度日州高城表、親父加兵衛入道宗仞(鎮信)戦死之次第、忠儀寔無比類候、雖然連々別而無隔心申談候之条、愚老朦氣可有推察候、雖無申迄候、親類与力家中於相残仁者、縦此度無届候共、国家大篇砌侯之間、能々有撫育奉公連続之御覚悟肝要候、可被得其意候、恐々謹言 十二月五日 (後欠) P.409。

出典[編集]

  • 『新裁軍記』
  • 『正親町天皇紀』
  • 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』吉弘系図 P.110~120

関連作品[編集]