北小路功光

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北小路 功光(きたこうじ いさみつ[1]1901年明治34年〉4月23日[1] - 1989年平成元年〉2月27日[1])は、昭和時代華族子爵)、歌人。母は歌人として知られる柳原白蓮(柳原燁子)。昭和天皇とは又従兄弟にあたり、自身の誕生から6日後に誕生している。

生涯[編集]

1901年(明治34年)、北小路資武の長男として東京で生まれる。一家は困窮のため、北小路家縁の京都鞍馬口へ転居する。功光が5歳のときに両親が離婚したため、祖母・久子によって育てられた。

同志社中学から学習院を経て[2]東京帝国大学文学部中退。1942年昭和17年)2月28日に父子爵の資武が亡くなると[1]7月15日に子爵を襲爵した[3]

オーストラリアシドニー大学講師などを歴任する。小説なども手がけたが成功しなかった。1964年、「ミクロコスモス」が文藝賞の佳作に入選する。

歌集に『説庵歌帖』(私家版)他があり、母柳原白蓮への愛憎がテーマとなっている。著書に『香道への招待』(宝文館出版、1978年1月)がある。

母との関係[編集]

北小路家は柳原家と元々縁戚であり、伯父にあたる柳原義光夫妻の世話を受け、中学は東京の柳原邸から学習院へ通った。母・燁子が伊藤伝右衛門と再婚し、歌人として『踏絵』を出版した頃、義光夫妻の計らいで功光と燁子が旅館の島屋で対面したが、親子の情愛はなかったという。燁子と婚姻中の傳右衛門からは毎月相当額の功光の学費が送られていた。燁子が傳右衛門と離婚した後、再々婚した宮崎家に、功光は下宿して東京大学へ通っている。燁子が紹介した相手を含めて、4度の結婚と離婚を繰り返した。

功光が記憶している北小路家時代の燁子の姿は「着物を着替えているときの、目のさめるような長襦袢姿」のみである。81歳の時に受けた永畑道子の取材で、功光は燁子を「あの女」と呼び、母への愛憎を窺わせている[要出典]。燁子は功光に対する想いは何も語っていない。父の資武は1933年(昭和8年)に詐欺・恐喝事件を起こして検挙されている。

著作[編集]

単著[編集]

  • 『童子照麿』聚芳閣、1924年。 
  • 『乳』聚芳閣、1926年。 
  • 『香道への招待』宝文館出版、1969年。 
  • 『説庵歌集』宝文館出版、1970年。 
  • 修学院桂離宮後水尾天皇の生涯』平凡社〈歴史と文学の旅〉、1973年。 
  • 『花の行方:後水尾天皇の時代』駸々堂出版、1973年。 
  • 『説庵歌帖』樹木社、1975年。 
  • 『説庵歌冊』私家版、1978年12月。 
  • 『説庵歌抄』私家版、1982年8月。 

共著[編集]

  • 北小路成子共著) 『香道への招待』淡交社、2004年8月。 

栄典[編集]

系譜[編集]

出典が無い限り霞会館編 1996a, p. 491–492を参照した。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 霞会館編 1996a, p. 491.
  2. ^ 『官報』第2898号 1922, p. 36, 「彙報(学事):卒業証書授与」.
  3. ^ 『官報』第4654号 1942, p. 25, 「叙任及辞令」.
  4. ^ 『官報』第2623号 1921, p. 5, 「叙任及辞令」.
  5. ^ 『官報』第1333号 1931, p. 5, 「叙任及辞令」.
  6. ^ 『官報』第4802号 1943, p. 10, 「叙任及辞令」.

参考文献[編集]

編纂[編集]

著作[編集]

官報[編集]

  • 『官報』第2623号、1921年5月2日。 
  • 『官報』第2898号、1922年4月4日。 
  • 『官報』第1333号、1931年6月11日。 
  • 『官報』第4654号、1942年7月16日。 
  • 『官報』第4802号、1943年1月18日。 
日本の爵位
先代
北小路資武
子爵
日野流北小路家第3代
1942年 - 1947年
次代
華族制度廃止