三宅宗源
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 |
中華民国 台湾嘉義市 |
生年月日 | 1958年12月1日(65歳) |
身長 体重 |
185 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1980年 |
初出場 | 1981年7月16日 |
最終出場 | 1983年7月3日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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三宅 宗源(みやけ そうげん、1958年12月1日 - )は、台湾(中華民国)嘉義市出身の元プロ野球選手。左投げ左打ち。帰化以前の名は「李 宗源」。
経歴・人物
[編集]ロッテオリオンズのスカウトだった三宅宅三によって、台湾球界きっての左の速球投手として見出され、1980年にロッテの練習生となった。
当時のチームではレロン・リーとレオン・リー(リー兄弟)が実力をいかんなく発揮していたので、外国人枠の関係で1981年7月7日に三宅と養子縁組をする形で日本に帰化し、正式にオリオンズの選手となった。
スリークォーターの柔らかいフォームから投げ込むストレートが武器で、変化球としては、横に流れるカーブ、シュートを持っていた。しかし、球威と反比例してコントロールはあまりよくなく、このこともあって目立った成績を残すことはできなかった。
1984年、山本功児とのトレードで読売ジャイアンツに移籍。しかし、こちらでは公式戦登板の機会がないまま1985年オフに引退した。
引退後は肝油ドロップで知られる河合製薬の営業職となり、台湾においてドロップの販売拡大に貢献している。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1981 | ロッテ | 17 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | .500 | 146 | 32.2 | 23 | 2 | 34 | 0 | 0 | 21 | 1 | 1 | 17 | 16 | 4.36 | 1.74 |
1982 | 23 | 15 | 3 | 0 | 0 | 4 | 11 | 0 | -- | .267 | 481 | 101.1 | 90 | 8 | 88 | 2 | 9 | 79 | 3 | 0 | 69 | 59 | 5.26 | 1.76 | |
1983 | 14 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 167 | 32.0 | 38 | 4 | 36 | 0 | 2 | 27 | 2 | 0 | 33 | 32 | 9.00 | 2.31 | |
通算:3年 | 54 | 23 | 3 | 0 | 0 | 5 | 16 | 1 | -- | .238 | 794 | 166.0 | 151 | 14 | 158 | 2 | 11 | 127 | 6 | 1 | 119 | 107 | 5.80 | 1.86 |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
[編集]- 初登板:1981年7月16日、対西武ライオンズ後期2回戦(平和台球場)、6回表から2番手で救援登板、2回3失点
- 初先発登板:1981年8月16日、対阪急ブレーブス後期8回戦(札幌市円山球場)、4回2/3を4失点(自責点3)で敗戦投手
- 初セーブ:1981年8月25日、対南海ホークス後期8回戦(大阪球場)、10回裏無死から3番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初勝利:1981年9月26日、対日本ハムファイターズ後期13回戦(川崎球場)、8回表1死から2番手で救援登板・完了、1回2/3無失点
- 初先発勝利:1982年4月18日、対阪急ブレーブス前期3回戦(川崎球場)、7回2失点
- 初完投:1982年4月25日、対近鉄バファローズ前期6回戦(宮城球場)、9回2失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1982年8月14日、対南海ホークス後期7回戦(大阪球場)、9回2失点
背番号
[編集]- 27 (1980年 - 1983年)
- 10 (1984年 - 1985年)