Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive09

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ウェブ上の有料記事は「出典」となるか?[編集]

ノート:上杉隆にて、ウェブ上の有料記事は、「信頼のおける出典」となるか? 議論が起こっています。 「出典」となると主張されている方は、『有料サイトに入会されて確認されるのが筋』と書かれているのですが、検証する側が入会を強制されなければならないのでしょうか? 議論して下されば幸いです。 --山本山815 2009年3月29日 (日) 11:58 (UTC)

端的に述べれば、出典となります。一部の大学図書館にしか置かれていない資料を閲覧したければ、一部の大学図書館へ出向かなければなりません。そこにすら置かれていない洋書を読みたければ、代金を支払って取り寄せなければなりません。それと同じことです。出典を示す責任は必ず執筆者が負いますが、出典の内容を吟味したければ批判者の負担で行うのが当然です。どの編集者も、他の執筆者が提示した文献のわずか数行を調べるためだけに、わざわざ書店や通販で購入したり、休暇を費やして遠くの図書館まで通ったりしているのです。どうしても自力で資料を確認するのが不可能であれば、Wikipedia:ウィキプロジェクト 検証で依頼すれば解決できます。いずれにせよ、検証可能性とは「有料の情報源を出典にしてはならない」という方針ではありません。--白文鳥 2009年3月29日 (日) 12:31 (UTC)
出典にはなっても「信頼できる」かどうかの判断は別でしょうね。有料メール配信の場合、バックナンバーへのアクセス可能性も考慮する必要があるかもしれません。有料かどうかは白文鳥さんのおっしゃるとおり、この際関係ないかと思います。--ネコバット 2009年3月29日 (日) 13:22 (UTC)
有料だから「信頼できる情報源」にならないということは絶対にない。しかし、関連分野の記事の編集に関わりたいと思う人がどうしてもお金を払いたくないと思うような情報源は、「信頼できる」ではない可能性が高い。--Dwy 2009年3月29日 (日) 16:04 (UTC)
「有料だと出典にならず、無料だと出典となる」というお考えなのでしょうか。それですと著書を買って調べることもできなくなります(国会図書館にしかない出版物を調べに行く費用等も有料と言えます)。執筆者は『検証の「可能性」』を提供すれば良く、出典物が有料だと「可能性」がなくなるでしょうか?当然、なくなりませんよね。--Dondokken 2009年3月29日 (日) 17:56 (UTC)
今回の『アクセスジャーナル』(旧『スレイ・ドック』)は、会員費が、個人向け料金プランで、6ヶ月購読(1名)5,000円、12ヶ月購読(1名)で9,000円です[1]。 当該記事の一つを検証するために、高額の会員になるのは当然だということでしょうか? 図書館への交通費とは余りにもかけ離れています。 
また、「自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。」と本文にあり、 例外として、「関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)が自主公表した場合でしょう。その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら、その人の自主公表物を情報源として認めてよいことあり得ます。しかし、注意してください。もしその専門研究者のブログに掲載された情報が本当に書く価値のあるものならば、他の誰かが既に執筆していたはずです。」(Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源)とあります。 この趣旨には反していないでしょうか? --山本山815 2009年3月29日 (日) 18:58 (UTC)
額は関係ないと思いますよ?調べたい人は費用をかけて調べれば良いので。海外に住む方が国会図書館にしかない書物を費用をかけて調べに来るのも自由でしょう。「私は海外に住んでいて金がかかるから、これは出典にならない!」などという馬鹿げた発言は見たことありませんしね。後段の主張はこちらで書くべきものと違うと思いますので、こちらでは答えないでおきます。上杉なりのノートでお願いします。--Dondokken 2009年3月29日 (日) 19:13 (UTC)
むしろこの場合は「会員にのみ公開されている」情報源は公的なソースとして取り扱えるかどうか、の観点のほうで検証可能性を議論したほうがすっきりするかもしれません。確かに額は関係ないのですが、会員WEBソースの特徴として、セキュリティ機能により非常に閉鎖的・排他的な情報提供が行われていることがあります。つまり「発行元から公開されている」と言えるのかどうか。極めて私的な出版である可能性はないか、という観点です。会員WEBメールから感じる多少の違和感が「公開された情報から適切に引用する」というWikipediaの一般的な引用ルールに適合しているのかどうか、微妙な感じは致しますが、このあたりはいかがでしょうか。--ネコバット 2009年3月29日 (日) 22:19 (UTC)同様の観点はたとえばブログとSNS(MIXIなど)との関係についても同じで、後者について招待されない非会員には「公開されている」とは言えなさそうな感触があります。--ネコバット 2009年3月29日 (日) 22:22 (UTC)Wikipedia:信頼できる情報源にほぼ詳細なルールが用意されていました。上の論点提起については無かったことに・・ι(^o^υ) --ネコバット 2009年3月29日 (日) 22:38 (UTC)

電凸について[編集]

電凸結果のノートへの貼付けについて明文で禁止する規定はありませんが、検証可能性の方針としての運用以降、電凸の類いは当然に独自研究として除去されるべきものとされてきたと思います。

利用者:Qoop会話 / 投稿記録 / 記録という方が、ノート:日本ユニセフ協会で電凸結果を「ノートには方針が適用されない」として貼付けておられますが、検証不能なものは議論の対象に出来ずノートへの貼付けも不可だと思います。方針文書は禁止事項を明文化して書き連ねる場でなく、またノートも記事及び記事の対象について議論する場であって、検証可能な事柄についてノートで議論することは許されても、このような目的外利用は方針を蔑ろにする行為であって認めるべきでないと思います。johncapistrano 2009年4月21日 (火) 05:05 (UTC)

  • ノートは適用対象外という事だったと思います。『検証不能なものは~ノートへの貼付けも不可』とのルールも違うと思います。ただし『検証不能なものは議論の対象に出来』ないのは確かなので、検証可能性のない独自研究を延々とノートで(自説の主張を)展開される方は適当に無視しておけば宜しいと思います。公衆の集まる場所には、かならずどうしようもなくおかしな人物もやってくるものです。一般論ですが。--大和屋敷 2009年4月21日 (火) 06:40 (UTC)
  • 「検証可能性がないので本文記事には記載できない」基準は比較的客観性がありますが、「記事に関係がない内容はノートからも削除すべき」というのはどうしても主観に流れてしまうのでルール化するのは難しいのじゃないですか?他言語版(英語版)にもそのようなルールは無いようですし。「膨大な量でジャマ」な場合は過去ログ化、ナンセンス文字列であきらかな荒らしだとか、ノートを使った広告宣伝行為、著作権や名誉・プライバシーにかかわる問題など削除対象となる記述の削除は削除依頼へ、それ以外は無視というルールでいいんじゃないんですかね?--大和屋敷 2009年4月21日 (火) 11:16 (UTC)
  • Qoopさん個人の行動結果をまとめたに過ぎないものを、関係があるからといえども記事のノートページに書くことは、ふさわしくない行為だと思います。少なくとも編集者間で共有するような類のものではないので、それがノートページにある意味がない。ただ、除去すべきかと訊かれると、これはQoopさん自身に納得していただいた上で、自主的に除去していただいた方が良いと思います。--Sacrada 2009年4月21日 (火) 09:27 (UTC)
  • ノートにも検証可能性をすべて要求すべし、という主張なら反対します。ケースバイケースであって、一律に禁止しては却って検証可能性方針を曲げることになりかねません。
    1. 「何々について記述すべきである」という主張の根拠として、検証可能性を満たさない独自研究や独自取材をノートに展開するのは、大抵無意味でしょう。今回 johncapistrano さんが困っているのは、このケースであろうと理解します。独自取材は(X理論のたとえにあるように)本文を執筆する根拠に使えませんので、ノートに書いても役に立たない場合が多いと思います。
    2. 逆に「それは貴方が思っているほど常識的ではないので、出典を示せないなら除去すべきだ」という主張にまで検証可能性を要求してはなりません。「常識的でないことの根拠として出典を示せ、出典を示せないことはノートにも書くな」という主張を許容することになり、検証可能性方針を曲げてしまうことになります。出典を示す責任は、本文から除去したくない側にあります。
    というわけで、結論としては大和屋敷さんに近い考えです。 fromm さんのご指摘と Sacrada さんのご意見にも、今のところ賛同しております。 --Kanjy 2009年4月21日 (火) 11:18 (UTC)

ウェブ魚拓やウェブアーカイブ等の検証可能性[編集]

芸能人の公式ウェブサイトで発表された事実について、当該サイトが現在では閲覧不能になっている場合、ウェブ魚拓ウェブアーカイブ等を出典とすることは可能でしょうか?ある記事での議論で、「偽造や著作権の問題があるおそれ」を理由に検証可能性を否定する意見が出ているのですが、私としては、次のように考えています。

  • 出典としての適性を一律に否定しなければいけないほどの「偽造の可能性」が本当にあるのか疑問。(技術的にはズブの素人です、ごめんなさい)
  • 仮に「魚拓」自体には著作権の問題があるとしても、魚拓によって確認された元のサイトの方を出典とすることは可能である。(「元のサイト(閲覧日:昔の日付)」を出典として表示。魚拓そのものはリンクしない・・・というのではダメでしょうか?)

皆様のご意見をお聞かせ下さい。--Dwy 2009年5月14日 (木) 09:17 (UTC)

  • 「偽造」に関しては、具体的な資料が提示されなければ無視してかまわないと思います。疑おうと思えばどんな資料でも疑うことができますから、その主張をする側が裏付けとなる資料を提示するのが筋ではないでしょうか。
  • 著作権法6条1項2号からすると、確かに魚拓やウェブアーカイブは問題なしとは言えません。それらを出典とするのは避けたほうがよさそうです。
  • 魚拓の取得時点に資料が存在していたとみなすやり方は、少々微妙な気がします。出典を検証できないため、誤りがあっても誰も訂正できません。これはデッドリンク出典全般に言えますが、投稿時点で出典が存在していた場合は誰かが訂正する可能性がありますが、投稿時点で出典が存在しない場合はその可能性もありません。魚拓等にリンクしない前提では、やらないほうがいい気がします。別の検証可能な出典を探した方がいいのではないでしょうか(それ以外に見つからない場合は……諦めるしかないかもしれません)。
こんな感じでいかがでしょうか。-- 2009年5月14日 (木) 12:39 (UTC)
魚拓とウェブアーカイブでは若干使い勝手が違うようですが、少なくともウェブアーカイブでは、元のURLが分かっていればアーカイブされたデータにたどり着くことができます。例えば、この編集で情報源としたファンクラブサイトのページ http://www.thegathering.jp/guidance/index.html は現在消滅してしまっていますが、URLさえ分かっていれば、ウェブアーカイブのホームページにそのURLを入力して("take me back"と書いてあるところ)アーカイブされた過去のデータを見ることができます(著作権上問題があるかもしれませんのでリンクはしません)。ウェブアーカイブの機能について少し案内・説明を追加してやる必要があるかもしれませんが、「出典を検証できないため、誤りがあっても誰も訂正できません」というわけではないと思います。--Dwy 2009年5月15日 (金) 12:23 (UTC)
別の言葉で言い換えると、アーカイブされたページそのものには著作権上の懸念があるとしても、「http://www.thegathering.jp/guidance/index.html 閲覧日2005年2月。ウェブアーカイブにて確認可能」というような書き方は可能ではないかということです。--Dwy 2009年5月15日 (金) 12:57 (UTC)]
・・・と、ここまで書いた時点で「著作権上の懸念があるかもしれないページをリンクしちゃダメじゃん」と気づきました。「でも、いまさら気づいても手遅れかもしれないし・・・どうしよう?そうだ!共犯者を探そう」ということでググってみたら[2]、それなりの数がヒットしてしまいます。「みんなで渡れば怖くない」と開き直るのはもちろん不適切でしょうが、「本当に赤信号なのだろうか?」という疑問は拭い去れません。--Dwy 2009年5月15日 (金) 13:09 (UTC)
著作権上の問題が、ウェブ魚拓やウェブアーカイブにはつきものですので、それを出典とはするべきではないと思います。個人的にはデットリンクやアーカイブ上にしかない情報にある特筆性とはどんなものなのかと思っています。もし重要な情報ならば何か別の出典が見つかるはずではないかと。--春日椿 2009年5月15日 (金) 16:13 (UTC)
Internet Archiveで、アーカイブ保存された情報そのものを出典とすることは著作権法113条1項2号に照らしアウトでしょうね(さんがおっしゃっているのもそのことかと思います)。ですからWikipedia上で記述をする時にはあくまでも原典を出典として明示する必要があります。これはデッドリンクであっても足りると私は認識しています。
Internet Archiveに含まれる情報の証拠能力に関しては、世界的に見て公的機関も認める方向にあると理解しています。例えば特許協力条約の国際調査及び予備審査ガイドラインでは、ウェブサイトの掲載情報の公開日を知る手段として、Internet Archive (Wayback Machine)の利用を認めています。[3]ちなみにこのガイドラインを根拠の一つとして、アーカイブされた情報の証拠能力を認めた国内判例もあります(東京地裁・平成16年(ワ)第10431号 意匠権侵害差止請求権不存在確認請求事件)。
アメリカでもTVポロニア対エコースターの裁判で証拠能力を認めた事例がよく知られています。[4]
こうした状況を考えますと、Internet Archiveにしか情報が残っていない場合、アーカイブされた情報からたどれる元の資料を出典として利用することがまずいとは言いがたいと思います。もちろん現存する資料で確認ができるならそれにこしたことはないわけですが。
なお英語版ではInternet Archiveの利用方法についての解説ページもあるようですね。Spinningcat 2009年5月16日 (土) 18:16 (UTC)

(インデント戻し)こちらでは初めまして。実は私自身、記事の基本資料がリンク切れになったため、Internet Archiveから探した経験があります。最たる例は、チリの女子テニス選手であるアニタ・リザナの記事でした。彼女の生没年月日(1915年11月19日-1994年8月21日)は、私が所有している本には記載されておらず「チリ・テニスポータル」で提供されたスペイン語の伝記記事が唯一の確実な情報源でした。ところが記事の履歴 によると、2008年夏にこの基本資料がリンク切れにされたことを知りました。彼女の生涯に関する唯一無二の情報源であり、「もし重要な情報ならば何か別の出典が見つかるはずではないか」(春日椿さんによる 2009年5月15日 (金) 16:13 (UTC) のご意見)が該当しないケースなのに、どうにかならないものか?? そこでInternet Archiveの存在を知り、http://www.tenischile.com/biografias/biografia_anita_lizana.htm を検索したら、やっと出てきました!! [5] これでついに基本出典を復元できました。こういうケースもあるので、一概には言えないと思います。-Hhst 2009年5月20日 (水) 14:47 (UTC)

検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」な参考文献[編集]

手元に20年以上前のニュートンの21世紀はこうなる的な増刊(バブル時に書かれたものなので、イケイケな感じで書かれていて読み返して相当ブルーになる)があるんですが、こういう文献の扱いはどうなるんでしょうか?

『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』の項を見る分だと使用してもいい的な感じがありますが、この雑誌に限らず、いわゆる未来論系の文献の扱いを知りたいです。もちろん僕は使う気はありませんが。--119.150.6.93 2009年6月2日 (火) 14:28 (UTC)

当然、そこに書かれていることをそのまま受容して執筆すれば、1980年代POVになるわけです。中立的観点に手落ちが生じます。時代変遷への目配せは必須ではないでしょうか? なんにせよ、百科事典の執筆なのですから、何事につけても複合的な視点が要求されるでしょう。--アイザール 2009年6月2日 (火) 14:38 (UTC)
コメント 一言でいうと、Wikipedia:検証可能性必要条件ではあるけれど十分条件ではない、ということでしょう。検証可能性だけを満たせば何でも記述できる、ということにはなりません。--Penn Station 2009年6月2日 (火) 15:31 (UTC)
POVですか。意見系はPOVになるでしょうが、政府発表なり法人系の発表が基になってるデータ部分はどうなんでしょうか。20xx年系の記事がありますが、立ち位置が違うだけでどうもやってることは同じ気が。--119.150.6.93 2009年6月2日 (火) 15:52 (UTC)

昔は「信頼できる情報源」だと信じられていたけれど、今では誰もが「間違っている事が明白」だと思っている情報源のことでしょうか?そういうのは、(少なくとも現在は)「信頼できる情報源」ではありませんから、「検証可能性」を満たす参考文献とは言えません。--Dwy 2009年6月5日 (金) 11:24 (UTC)

例えば「1980年代にはこのような予想をする見方もあった」という記述に対してなら、そのように書かれたという事実がある以上は検証可能ということになるかと思います。その予想が今と乖離していて、そういう見方がされたことをかく必要があれば、という前提ではありますが。Cassiopeia-Sweet 2009年6月5日 (金) 15:58 (UTC)
ある資料が「信頼できる情報源」かどうかは、何を書こうとしているかによって判断が変わってきます。1980年代の資料は、「21世紀はこうなる」を書こうとするときにはもはや「信頼できる情報源」とはいえませんが、「1980年代にはこう考えていた」を書く場合には「信頼できる情報源」になり得ます。但し、この場合は一次資料になりますから、その資料を使って記事を書く際には、執筆者の分析や解釈を入れないように注意する必要があります。例外はありますが、多くの場合「執筆者の分析や解釈を入れない」は非常に困難ですから、そのような資料の使用は避け、二次資料に基づく執筆を考えるべきでしょう。--Dwy 2009年6月5日 (金) 18:21 (UTC)

コメント80年代に啓蒙科学雑誌がどのような未来を描いていたか、ということなら、資料のひとつとなるでしょう。これは一次資料で、理想的には「80年代科学雑誌にみる未来予想」とかいう本なり論文なりを用いる。この場合は、予測しているということも含めれば、「間違い」ではないですね。政府発表なり法人系の発表が基になってるデータ部分に予測が含まれるなら、80年代に発表された予測としてどこかの記事に孫引きという分信頼性が落ちるとはいえ使える記事もあるかもしれません。20xx年系の記事は、そもそも百科事典的記事ど真ん中ではないので、そのうち削除されるかもしれないようなものとして、書く分には止めませんが、薦めはしません。『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』の項だけみてはいけない。--Ks aka 98 2009年6月6日 (土) 18:47 (UTC)

(インデント戻します)これを書くのは何回目になるのか分かりませんが、、、「信頼できる情報源」と「検証可能性」をごっちゃにするのは止めていただけませんでしょうか。「検証可能性」が言う「検証」というのはまず「その資料が第三者によって確かに存在することが検証」できるかどうかです。その上で、その資料が信頼できるものなのかどうかが問われるわけでその基準が「信頼できる情報源」で示されている訳です。当然、信頼できないけれども確かに存在自体は確認できる情報源というのはいくらでもあります。そういう見方からすれば「「信頼できない情報源」だから「検証可能性」を満たせない」という書き方は、読む人によってはとても粗雑な文章に見えてしまい、書き手の意図に疑問を抱かせるに十分ということはご理解いただきたい。Dwyさんが絡む議論は往々にして無闇に長引く傾向がありますが、そういう概念が未整理なままに展開される言葉使いにも原因がある(そして、そのことを理解しない)ということはこの際だから指摘しておきます。--おーた 2009年6月6日 (土) 02:10 (UTC)

ウィキペディアでは、「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」という方針を「検証可能性」と読んでいます。つまり、
「信頼できる情報源」+「(一般的な意味での・狭義の)検証可能性」=「(ウィキペディアの方針としての)検証可能性」
ということです。この点は、Wikipedia:検証可能性のページの冒頭にある以下の記述からも明らかです。
つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性と呼んでいます。
ウィキペディアにおいて「検証可能性」という場合は(特に、当該方針のページにリンクされていたり、括弧でくくってある場合は)、「(ウィキペディアの方針としての)検証可能性」の意味で解釈するのが普通だと思います。 私からすると「概念が未整理」なのはおーたさんの方のように見えますが、第三者の方からコメントいただけるとありがたいです。--Dwy 2009年6月6日 (土) 04:27 (UTC)
僕は上のDwyさんの図式のような形で理解していました。左辺の第二項にある狭義の検証可能性について述べるときは、「第三者が(その資料で)確認可能という意味での検証可能性」というように枕言葉をつけておいたほうが誤解が少ない気がします。--貿易風 2009年6月6日 (土) 06:50 (UTC)
んー。ウィキペディアの「検証可能性」というのは、「語義に近い検証可能性」と「情報源の信頼性の確保」の二つの意味がある、ということで考えてることは共有されてるんだからそれでいいんじゃないでしょうか。
信頼できるかどうかは、刊行時期や主題にもよるから簡単に線引きできるもんではないですし、分野によって確保できる情報源の質は異なる。「語義に近い検証可能性」と「情報源の信頼性の確保」の二つの意味がある、満たす/満たさないとかの議論の場では、それを踏まえた表現を心がける必要がある、ということで。--Ks aka 98 2009年6月6日 (土) 18:47 (UTC)
自分が書いた文章について「とても粗雑な文章」とか「概念が未整理なままに展開される言葉使い」と評価され、挙句の果てには「Dwyさんが絡む議論は往々にして無闇に長引く」などというご批判までいただいてしまったDwyとしては、「考えてることは共有されてるんだからそれでいい」とは言いがたいものがあります。
私の常識では、ウィキペディアで「検証可能性」と言う場合、通常はWikipedia:検証可能性の方針全体を意味するのですが、これは間違いでしょうか?また、もし「その資料が第三者によって確かに存在することが検証」できるかどうかを問題にしたいなら、貿易風さんのような言葉使いをするか、(英語版で"reliable, published source"というときの)"published"(出版・公表された)かどうかの問題として議論する方がずっと分かりやすいと思うのですが、こういう感覚はおかしいですか?
こういうところにこだわるから「議論がむやみに長引く」と言われてしまうのかもしれませんが、Dwyが間違っているなら、ご指摘をいただきたいと思います。--Dwy 2009年6月7日 (日) 05:23 (UTC)
私もこの議論で指す「検証可能性」は、字面通りの意味のみではなくDwy氏の前提であるWikipedia:検証可能性全体を指している(当然記載されている「信頼できる情報源」も意味に含まれる)と読めますし、そこを分離して考えてしまっては本項である[[Wikipedia:検証可能性]を検証する役に立たないのではと思いますが。--ちぇす 2009年6月7日 (日) 06:03 (UTC)
了解しました。そこまで押さえた上であのように書かれているということですね。それならば、その上でのお願いですが、そのように一般的意味から乖離した意味を含む用語を使うにあたっては、もう少しコミュニケーション上の問題に気を使っていただけませんか。「Wikipedia:検証可能性で定める意味において」とか言いようはいくらでもあると思うのです。特殊化した用語を得意気に振り回しながら「こんなの知らないほうが悪い」とも言いたげな文面を読ませていただく度に、暗い気持ちになりますもので。編集に参加される方々のルールの理解度は様々です。その中で円滑なコミュニケーションを図る場合は、なるべく特殊化した用語は避けるほうがよいし、使う場合もそれなりの配慮はした方が良いと私は考えます。そういった用語を盾にしてコミュニケーションを拒むような印象を人に与えたとき、いわゆる「教条主義」というような言われ方をされる場合もあることはご注意ください。果てしない議論を呼んできた「Wikipediaで言うところの検証可能性」だからこそ気を遣っていただきたく思います。--おーた 2009年6月10日 (水) 13:17 (UTC)
  • 「検証可能性」をWikipedia:検証可能性の方針の意味で使うのは、少なくともウィキペディアにおいては、ごく一般的なことだと思います。このスレッドの皆さんのご意見を見ても、「特殊化した用語」だと思っているのはおーたさんだけのようです。
  • 「言いたげな文面」程度のことで(そういう風には決して言っていないと自分では思っています)それほど「暗い気持ち」になるのなら、「とても粗雑」とか「得意げに振り回し」とかはっきりと言われてしまった人がどんな気持ちになるのか、すこしは想像してみていただきたいと思います。--Dwy 2009年6月10日 (水) 16:30 (UTC)
Dwyさんがおっしゃっているように、Wikipediaにおいては「検証可能性」という用語を「Wikipedia:検証可能性で定める意味において」使うのが自然であり、「特殊化した用語」ということではないと思います。ましてここはWikipedia:検証可能性という方針文書のノートですので、方針文書で定められている定義とは異なるより狭い意味でこの用語を使うときこそ、なんらかの前置きをしておくのが好ましいというのが僕の考えです。
おーたさんいわく「編集に参加される方々のルールの理解度は様々」とのことですが、どちらかといえば「検証可能性」というウィキペディア用語を(断りも無く)方針文書に書かれている意味と異なる用法で使うほうが、方針への理解が十分でない初心者の方を混乱させるおそれがあるのではないかと思います。--貿易風 2009年6月11日 (木) 10:18 (UTC)
皆様ご無沙汰しております。Dwyさんを支持します。--FXECG 2009年6月12日 (金) 09:56 (UTC)

信頼できる情報源だが、他の編集者が満足に検証することができない参考文献[編集]

何故か手元に70年以上前に朝鮮総督府が編纂した『朝鮮事情』(近所の古本屋で100円で買った、もちろん日本)という本があるんですが、奥付によると発行部数4500部で、確実に大半が現存していないと思うのですが、こういう文献の扱いはどうなるんでしょうか?

もちろん僕は使う気がありませんが。爆薬の貯蔵庫に足を突っ込む勇気はありません。--119.150.6.93 2009年6月2日 (火) 14:28 (UTC)

国会図書館に所蔵があります。たしか、データベース化もされていたはずです。普通に、日本の植民地政策研究における基本文献だと思います。常識的に考えて、刊行されて年代が経っているので『朝鮮事情』に関連する最新の研究書を併読して用いる必要があると思います。人文学系の研究においては、資料の掘り起しは基礎的事項であり、そして、どの視点をもって解釈を行うか、ということが重視されます。--アイザール 2009年6月2日 (火) 14:34 (UTC)
あ、国会図書館に入ってるんすね。これはこう捉えるべき的な政治的な論争が起きている部分なら、最近の関連書の併読が必要(ま、僕はそれなりに読んでますけどね)でしょうが、そういう部分ではなく、基礎的な部分に関して。こういう事業をやってたとか、こういう団体がいたとか、○○数の推移的な部分です。--119.150.6.93 2009年6月2日 (火) 15:54 (UTC)

過去ログ化と冒頭部の修正案[編集]

議論がとまっているものを過去ログ化しました。

今回非表示化したWikipedia‐ノート:検証可能性/「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認で出ていたY tambeさんの提案は、合意していたと言えそうでしたので、1週間ほど待って異論がなければ編集しようかと思います。議論全体はWikipedia‐ノート:検証可能性/出典無き記述の除去、初出はWikipedia‐ノート:検証可能性/Archive01#実現可能性の高い対策を参照(でいいかな)。

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表している内容だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。でなければ、その部分は誰かに除去されるかもしれません。
  3. 出典を示す責任を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

よろしくご検討ください。--Ks aka 98 2009年6月2日 (火) 18:26 (UTC)

私としては一応反対していたつもりなので、一応その点を確認しておきたいと思います。私の反対票を勘定に入れた上で、他の方々の賛成多数により合意が成立していたという認定であれば、仕方がありませんが・・・--Dwy 2009年6月2日 (火) 20:07 (UTC)
Y tambeさんの文面の修正提案への反対、ではないように読みました。その背景にある個々の解釈については、意見が分かれていたと思いますが、それはこの変更後も、継続する意見の分かれではないかと思います。ぼくも「かもしれません。」は、方針としては弱いかなと思うところもあります。ただ、議論が停滞したとはいえ、ノートに記載されなくなるということで、そのまま過去ログはできないと思うだけのラフなコンセンサス(「賛成多数」)はあったのではないかと。再度、詰めていく必要がある、ということであれば、再開していただければいいです。ログ化した立場としては、異論があったとして1週間後の編集はせずに、いちおう記載が残る形を保ちたいということです。--Ks aka 98 2009年6月2日 (火) 20:23 (UTC)

信頼性に乏しい情報源の数[編集]

Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源に、

ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。 Wikipedia:検証可能性 2009-05-12T07:19:55 版(強調は引用者)

とあります。ここで「ひとつ」というのが気になっており、信頼性に乏しい情報源でもふたつ以上集めれば掲載可能である、とも読めてしまいます。いくつ集めようと信頼性が高まるわけでもないので疑問を覚えたのですが、翻訳時の英語版をあたると

Sometimes a statement can only be found in a publication of dubious reliability, such as a tabloid newspaper. If the statement is relatively unimportant, remove it. Wikipedia:Verifiability 2006-04-12T09:31:03 版(強調は引用者)

となっており、この "a" を「ひとつの」と訳すのが果たして正しいのか、私の英語力では判断できませんでした。ご意見ください。--cpro 2009年8月9日 (日) 15:32 (UTC)

結論から言うと、上記訳文中の「ひとつ」は誤訳です。もし本当に「ひとつ」という意味で用いるのであれば、不定冠詞a/anよりも数詞oneを使うほうが通例です。逆に言えば、不定冠詞a/anはわざわざ「ひとつの」と訳さないことのほうが多いといっても過言ではありません。
最も簡単な修正法としては、「ひとつ」をバッサリと削ってしまうということになるでしょうか。ついでに言うなら、such asのあとにくるものは例示なので、「のような」よりは「など」のほうが良いでしょう。従って、修正後の訳文として叩き台を示すならば
ある情報が、例えばタブロイド紙(夕刊紙やスポーツ紙のなど娯楽中心の大衆紙)など信頼性に乏しい出版物の上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。
くらいになるでしょうか。Yassie 2009年8月10日 (月) 00:22 (UTC)
相当重要な議題なので慎重に進めて欲しいのですが、それではなぜ「publications」と複数形にしなかったのでしょうか?--山本山815 2009年8月11日 (火) 07:53 (UTC) --章分け山本山815 2009年8月14日 (金) 15:29 (UTC)

スポーツ紙は「信頼性に乏しい出版物」か?[編集]

ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。 Wikipedia:検証可能性 2009-05-12T07:19:55 版

Sometimes a statement can only be found in a publication of dubious reliability, such as a tabloid newspaper. If the statement is relatively unimportant, remove it. Wikipedia:Verifiability 2006-04-12T09:31:03 版

上の章で、今回初めて原文を知ったのですが、原文には「(夕刊紙やスポーツ紙のなど娯楽中心の大衆紙)」という注釈はありません。「タブロイド紙」とは、通常、一般紙の1/2の大きさの新聞のことを指します。訳文通りとするなら、この「()」の注釈も除去すべきではないでしょうか?
ところで、最新の英語版からは、タブロイド紙についての記述がそっくり無くなっています。この章の取り扱いも合わせて議論して下されば幸いです。
(追記)「as」の意味は「同様に、同じくらい」です。辞書にも「such as」は「…のような」とあり、限定するニュアンスを伴います。「例示」(沢山あるなかの一つ)というのは根本的に意味が違うと思うのですが…。--山本山815 2009年8月11日 (火) 07:53 (UTC) --追記山本山815 2009年8月11日 (火) 09:08 (UTC) --修正山本山815 2009年8月14日 (金) 15:29 (UTC)
tabloid newspaperは a publication of dubious reliability の例示(such as=for example / of a kind that :OALDでの検索結果参照)で、その後具体例として英サン紙が用いられているのですから、単なるサイズとしてではなく、信頼性にかける(enwpOALD:Tabloidの2)という含意があると読むべきでしょう。英語圏であれば文脈から読み取れると思いますが、日本では a tabloid newspaperだけでは、質を伴ったタブロイド版サイズの新聞と受け取る人もいるかもしれないということで、(夕刊紙やスポーツ紙のなど娯楽中心の大衆紙)と補われたのでしょう。--Ks aka 98 2009年8月11日 (火) 13:31 (UTC)
レキップ紙ガゼッタ・デロ・スポルト紙などのスポーツ紙をタブロイド紙と言うのは、無理があると思います。例示にスポーツ紙が入っているのは、やはり間違いなのではないでしょうか?--山本山815 2009年8月13日 (木) 13:44 (UTC)
んーと、ここで山本山815さんが東スポやニッカンではなくて、レキップ紙やガゼッタ・デロ・スポルト紙を挙げないといけないのはなぜでしょう? 日本語版の多くの読者にとって、スポーツ紙とは、レキップではなくて、日本の(タブロイドサイズではない)スポーツ新聞だと考えるのが自然だと思います。

要は「信頼性に乏しい出版物」は、原則として、じゅうぶん信頼できる情報源だとは思うべきではない、ということが言えればよくて、それを広く執筆者に伝えるには、どういう表現がいいのか、というところで、英語版では例としてタブロイド新聞というのが使われた。日本語版では、翻訳時にタブロイド新聞では馴染みが薄いと思ったであろう人が「夕刊紙やスポーツ新聞のような娯楽中心の大衆紙」と言葉を補った、と。スポーツに関する事柄は、スポーツ新聞は信頼できる情報源の一つだと思いますよ。あらゆるスポーツ新聞の、あらゆる記事を信頼するな、ということではない。そのように受け取られるということであれば、表現を改める必要があるということになるでしょう。--Ks aka 98 2009年8月14日 (金) 10:45 (UTC)

元々の原文が英語版であり、例示されたのが英サン紙であった為、レキップ紙(フランス)やガゼッタ・デロ・スポルト紙(イタリア)といったヨーロッパでのスポーツ紙を例にあげただけで他意はありません。ヨーロッパのスポーツ紙がタブロイド紙に当たらず、日本のスポーツ紙がタブロイド紙に当たるというコンセンサスはないように感じています。
少し誤解があるかもしれませんが、私はcpro氏やKs aka 98氏の意見に全面的に反対というわけではありません。ただ、日本のスポーツ紙がタブロイド紙と定義され、それが「信頼性に乏しい出版物」と定義され、「ひとつ」という情報源の数の制限も外された場合、(例えばスポーツ紙の芸能/政治の記事を「出典」とした)多くの本文除去の根拠とされてしまう懸念を持っているだけなのです。
私は、例えばWikipedia:存命人物の伝記での特筆に当たらない記述の除去に多大な貢献をもたらすとも思いながらも、複数のスポーツ紙面に指摘されている、芸能や政治の分野での多くの本文除去の、根拠にされるのではと心配しています。議論は慎重に進めて欲しいと思い上の文章を書いているのであって、本筋でない細かい議論が進行することはもちろん望んでいません。--山本山815 2009年8月14日 (金) 11:47 (UTC)

ヨーロッパのスポーツ紙がタブロイド紙に当たらず、日本のスポーツ紙がタブロイド紙に当たるかどうかではありません。英語圏では「信頼性に乏しい出版物」を端的にあらわす例としてタブロイド紙が使われた。日本語圏で「信頼性に乏しい出版物」を端的にあらわすものは何か、と考えたときに、夕刊紙やスポーツ紙が用いられた、ということです。

原文には「(夕刊紙やスポーツ紙のなど娯楽中心の大衆紙)」という注釈はありません。「タブロイド紙」とは、通常、一般紙の1/2の大きさの新聞のことを指します。訳文通りとするなら、この「()」の注釈も除去すべきではないでしょうか?

という問いを投げていたので、なぜ、原文にない注釈があるのか、という説明をしたまでです。

日本のスポーツ新聞は、英語圏におけるタブロイド紙と比較して、ここで例示するにふさわしくないだけの百科事典の情報源としての信頼性を得ている、ということであれば、そのように提案していただければと思います。「たとえば~など」を丸ごと削除するということは、検討してもいいと思います。

スポーツ紙の政治・芸能欄に取り上げられるものは、そのほとんどが存命人物でしょうし、重要で残す値打ちがあるのであれば、情報源を明示して残すことができます。「ひとつ(あるいは少数)のタブロイド紙の記事のみしか情報源が得られず、あまり重要でないもの」は除去されるというのが原文の示すところです。では、「ひとつ(あるいは少数)のスポーツ紙の政治・芸能の記事のみしか情報源が得られず、あまり重要でないもの」は、除去されるべきではない、というのは、それほど自明ではないんじゃないかな。こういう事例が削除されてしまうから、ここでスポーツ新聞を例示するのはやめておこう、というのを出してもらえると、話は早いと思います。

確かに、スポーツ新聞に書かれている情報はすべて使えないという受け取り方をする人は出てきそうなので、懸念されているところもわかるのですけれど。--Ks aka 98 2009年8月14日 (金) 13:59 (UTC)

事例で言えば、2009年8月14日のスポーツ各紙に、「中川翔子が「しんかい6500」で"芸能界最深"5200メートルの深海を探る」という記事が載ったのですが(スポーツ報知ディリースポーツサンケイスポーツ日刊スポーツ)、私の見た限り一般紙には掲載されていません。(見落としはあるかも知れません。)まだこの記事は中川翔子の本文に書かれてないようですが、個人的には充分これらのスポーツ紙の記事を「出典」として本文に書くことが出来ると思われます。
重要かどうかは主観に左右されてしまう部分も大きく、やはり日本のスポーツ紙が「信頼性に乏しい出版物」と例示するのは相当の議論を経なければならないように思われます。
私の懸念は、Ks aka 98氏が上に書いた最後の2行に尽きています。もちろんコンセンサスがあれば日本のスポーツ紙を「信頼性に乏しい出版物」に定義しても良いわけですが、個人的には大きな躊躇を感じています。--山本山815 2009年8月14日 (金) 15:01 (UTC)

週刊誌の情報がすべて間違っているわけではありませんが、他の新聞などのメディアに比べれば信用度が低いのは事実なわけです。かといって、正しい記事もあるので、Wikipediaへ週刊誌を出典として書くのはOKだと思います。

ただし、その後に記事が虚偽だとなった場合にはそれを載せた人の情報の見極めるがいけなかったということになるので,そういう場合にどうするのかというのは課題だと思います --E23320002002 2009年8月16日 (日) 10:18 (UTC)

大衆紙を信頼の乏しい情報源としていますが、つまりスポーツ紙はWikipedia:信頼できる情報源ではないとするのでしょうか?Wikipedia:信頼できる情報源にはスポーツ紙、週刊誌は何も禁止されておらず、それどころかWikipedia:信頼できる情報源#大衆文化やフィクションでは、Wikipedia:検証可能性およびWikipedia:信頼できる情報源は、芸能ゴシップ等、大衆文化に関して要求される情報の信頼性について特別な規定を置いていないとしています。しかしこちらではゴシップや大衆文化に関して要求される情報(スポーツ紙・週刊誌)を規定してるようにかかれており、矛盾が生じています。スポーツ紙・週刊誌は出典としてダメなのか良いのか、良いならどういう場面・書き方なら良いのか等はっきりさせるべきと考えます。けっこうアチコチで、自身も含めてこれをもとに編集合戦や埒の開かない議論がおこっている状態です。--218.217.154.122 2009年9月11日 (金) 22:24 (UTC)

「過去に会員にのみ公開され、現在入手困難な」オンライン情報源はソースとなりうるか[編集]

「過去に会員にのみ公開された」オンライン情報源は、ソースして使用してもよいのでしょうか?似たような事例に対しウェブ上の有料記事は「出典」となるか?においてネコバットさんが論点提起し直後に撤回していますが、Wikipedia:信頼できる情報源を参照しても判断が付かなかったためご意見をお願いします。

具体例は「配信はされたが非公開のメールマガジンのバックナンバーが検証可能性を満たすかどうか」です。配信時点で誰でも会員であればその情報を手に入れることができましたが、現時点でバックナンバーが非公開ならばその情報を手に入れる手段はほとんどありません(配信されたメール所持者からの譲渡程度)。また、オンライン情報源であるため第三者である公的施設で保存もされていません。

「しかし、注意してください。もしその~」(Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源)に関しては承知していますが、それ以外の情報源が見つけられない場合にはどのように扱えばよいでしょうか?--Cake0124 2009年11月15日 (日) 08:36 (UTC)

節タイトルだけ読むと、入手可能な人が限られている情報の事のように見えますが、内容を読むとそれだけでなく時間的に入手可能性が変化しているケースを扱っている用に見えます。この点をあいまいにしたまま話を進めると混乱しそうなので、まずはそこをはっきりさせたほうがよいのでしょうか。yhr 2009年11月15日 (日) 14:18 (UTC)
こんにちは。通常の書籍とは異なりインターネットの情報源についてですので技術的に複雑・個別的な議論になりそうな予感がしますが、基本姿勢として「他の編集者・読者が現実的な手立てとして検証可能性があるかどうか」に立脚していれば、さほど方向性として誤らないと考えます。ある投稿記事について、投稿時点では情報源にアクセス可能であったとして(有償・無償は関係ない)、数年・数十年後にはアクセス可能性が不明となり、なおかつ元の投稿者とも連絡が付かず、未来時点での編集者・読者にとって一切検証が不可能になってしまうような事例などがあれば、これは非常に慎重に「ノートに移動」させざるを得ないことになるのが原則じゃないかと考えます。--大和屋敷 2009年11月15日 (日) 15:44 (UTC)
メールマガジンとは少し違うケースかもしれませんが、インターネット上の情報源が時間的経過によって入手可能性が変化したという場合を想定した文書としては「Wikipedia:ウィキプロジェクト 外部リンク/リンク切れ」(あるいはそこで使用されている「Template:リンク切れ」)というものがあります。そこでは「なんとかして代わりの検証可能な情報を探しましょう。見つかるまでは、リンク切れであることを明示しつつ、元のリンクは置いておきましょう。」となっています。「ノートに移動させる」や「コメントアウトする」ではなく「過去にはその方法で検証可能であったが(ということを、場合によってはCite webのようにいつの時点では閲覧可能であったか、ということを示しつつ)、今はその方法では検証可能ではない」ということを示す、という選択肢を取っている様子です。--NISYAN 2009年11月15日 (日) 23:40 (UTC)

いきさつを説明しておきます。発端となった議論はノート:眠らない大陸クロノスで、問題となったメールマガジンは「クロノス通信」の18号(2003年11月25日配信)です。クロノス通信はバックナンバーが公開されているのですが(18号はこれ)、「実際に配信されたものとバックナンバーとして公開されたものは内容の一部が異なっている」とのことで、「実際に配信されたものには掲載されているが、バックナンバーとして公開されているものには記載されていない事項」が検証可能性を満たしているかどうかで意見がわれたため、Wikipedia:検証可能性のノートに話の場を移そうということになりました。そういうわけで、「会員にのみ公開されたオンライン情報源」という節タイトルとはちょっと話がずれており、NISYANさんが言及されている「時間経過によってリンク切れとなった出典の取り扱い」ともちょっと話が違う感じです。コメントをくださる方はよろしくお願いします。--貿易風 2009年11月16日 (月) 10:43 (UTC)(脱字修正)--貿易風 2009年11月16日 (月) 10:57 (UTC)

節タイトルを少し変更しました。貿易風さんご説明ありがとうございます。入手可能性について、yhrさんの指摘された通り、今回の論点は

  • 時間的に入手可能性が変化する(配信時点で入手できなければそれ以降の入手が困難)

を主軸として、さらにオンライン情報源の中でも特に

  • メールマガジンという入手できる人が限られた媒体(会員でなければ入手不可能)

という2つの事例が重なっているケースだと私は判断しています。大和屋敷さんの指摘された「他の編集者・読者が現実的な手立てとして検証可能性があるかどうか」を考慮すると、対応としては「ノート移動」や「コメントアウト」が妥当かと思えます。しかし、情報源の検証可能性もまた同時に損なわれてしまっているのでしょうか?--Cake0124 2009年11月16日 (月) 15:20 (UTC)

コメントオンライン情報源といっても多様ですから、一概には言えないと思いますが、いちおう一般論として書いてみます。

まず、そのメールマガジンおよびその記述自体が媒体として信頼できるかということがあります。企業などのオフィシャルな情報、発行者、発行人が明らかで、執筆者が多少なりとも知られた人によって構成されているかどうか。

次いで、会員のみにしか公開されていない情報を、その運営者ではない立場の人が公開していいのか、という問題があります。そのメールマガジンや情報の性質にもよりますが、ある程度の時間が経過した後、なお、他のメディアで公開されていないのであれば、検証可能性ではなく、そのメールマガジンとその会員だった人との関係の上で、基本的には情報源として用いるのは避けておくほうがよいと思います。「ノート:眠らない大陸クロノス」の議論は十分には追っていませんが、貿易風さんの 2009年10月24日 (土) 03:47 (UTC)の意見に賛同します。

そのメールマガジンが誰でも登録できて事後的にバックナンバーも閲覧できる、あるいはバックナンバーは公開されていたのだけれど、活動を停止し、今はまるごと閲覧できないというような場合もあると思います。この場合は、上のような問題は生じないでしょうから、ウェブページに類した扱いができると思います。信頼できる情報源であれば、執筆当時に閲覧可能、または、執筆者が情報を保存している場合なら、情報源として用いてもよいのではないでしょうか。

さて、ノートをざっくり読んだところでは、クロノス通信は、公式のもののようですし、一次情報源としてみることもできますから、最初の条件は満たします。「PCコンテンツを取り扱う企業としての倫理観を欠いた行いである」として浴びせられた「非難」について、その非難の存在と問題の大きさを示す上で十分な情報源が得られる場合には、Cake0124さんが投稿者として、ご自身の責任においてメールマガジンの当該号を、「メールマガジン上で特定のソフトメーカーを批判していたこと」の情報源として記述することもできるかもしれません。そこで、その項目の他の執筆者が、不安定な情報源を元に百科事典の記事として記述するだけの価値があるとは思えないならば、除去されることもあるでしょう。その項目にまつわる事柄についての知識はほとんど持ちませんが、個人的には、貿易風さんの 2009年10月24日 (土) 03:47 (UTC)の意見に賛同します。--Ks aka 98 2009年11月16日 (月) 18:53 (UTC)

「記載内容が百科事典の記事に値するかどうか」に関してはノート:眠らない大陸クロノスへお願いします。今回論点となっているメールマガジンのバックナンバーの検証可能性については、貿易風さんの 2009年10月24日 (土) 03:47 (UTC)の意見は「入手不可能であるため検証可能性を満たさない」ですが、これに賛同しているということでよろしいでしょうか?また、そのメールマガジンとその会員だった人との関係の上で、基本的には情報源として用いるのは避けておくほうがよいと思います。とはどのような意味でしょうか?さらに、そのメールマガジンが誰でも登録できて事後的にバックナンバーも閲覧できるとは「公開されているバックナンバーの閲覧に会員である必要がある場合」を指し、「配信されたバックナンバーを執筆者が保存している場合」とは異なるのでしょうか?読解力が足りず、質問ばかりで申し訳ありません。よろしくお願いします。--Cake0124 2009年11月18日 (水) 06:31 (UTC)

「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」の表記について[編集]

こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」との文言に関してに分割しました。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 14:38 (UTC)

「議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」?[編集]

こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/「利用者同士の合意によって覆されるものではない」との文言に関してに分割しました。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 14:38 (UTC)

自主公表された情報源の注意系テンプレート[編集]

自主公表された情報源に対する注意を喚起するテンプレートとして、英語版ではen:Template:Self-publishedというのがあります。これを日本語版に例えばTemplate:自主公表された情報源として導入したいと思うのですが、勝手に訳してテンプレートを新規作成してもよいものでしょうか。ご教示いただきたく。--fromm 2010年2月2日 (火) 14:53 (UTC)

碑文や案内板などの検証可能性[編集]

Wikipedia:出典を明記するとも多少関連すると思いますが、景勝地、遺跡、歴史的建造物などでは、その施設の運営管理者や地元の教育委員会が設けたと思われる、説明の立て看板が立っています。もちろん信頼できる情報源かつ、独自研究でないことが前提ですが、その中の内容は検証可能性を満たすのでしょうか。

遺跡の発掘調査などでは報告書など同等の内容が書かれた文献があると思われますし、有ればそちらの方が出典および検証可能性としては良いのは言うまでもないのですが、その場所でないと確認できないものについて疑問を持ちましたので。--Mkb 2010年2月14日 (日) 12:15 (UTC)

喜連川騒動の記事・ノートが参考になるかもしれません。好意的にWikipediaに「紹介する」というスタンスでの投稿でしたら他のWikipedia編集者に好意的に解釈されるかもしれませんが、ある特定の立場を推進するための資料として提示するばあいは悪意に解釈されるかもしれません。案内板や石碑はどうしても信頼できる情報源として二次的になりますので(何かの研究を元にして設置されているはずなので)。広開土王碑文のようなそれ自体に資料的価値のあるものでしたら写真撮影をUPするのは非常に推奨されるでしょうが、Wikipedianがそれを書写してきて投稿するのは・・・写し間違えなどの点からやはり問題を指摘する方が出てくる可能性ありますね。うむー--大和屋敷 2010年2月14日 (日) 13:00 (UTC)
実を言うと関門国道トンネルの人道を訪れた際、建設の推移や工事費用が書かれた碑が有って、これを出典にして良いものかと思いまして、ここで質問してみました。関門国道トンネルの場合、信頼できる情報源で有ることは疑いようもなく、その点では問題ないと思いましたが、書き間違え、写し間違えなどは問題が有りそうですね(もちろん写真は撮ってきました)。--Mkb 2010年2月14日 (日) 13:41 (UTC)
そういう種類は喜ばれそうな気はしますけれども。--大和屋敷 2010年2月14日 (日) 14:01 (UTC)
どうも回答ありがとうございました。この類は問題なさそうなので、近いうちに出典付きで加筆を考えています。--Mkb 2010年2月14日 (日) 14:29 (UTC)

自主公表された情報源,自主公表された情報源:公式サイト[編集]

ノート:古屋博敏の議論を考える途上で見つけたのですが、「自主公表された情報源」,「自主公表された情報源:公式サイト」に対応するen:Wikipedia:Verifiabilityの内容はずいぶん具体的になってきているようです。とりあえず利用者:Fromm/自主公表された情報源で和訳を作ってみました。将来的には、公式側の信憑性が疑わしい場合には排除する旨を明記しておいた方がよいように思います(現状の「ストームフロント」のくだりは何がなんだかわからない。)。--fromm 2010年3月2日 (火) 08:43 (UTC)

検証する必要のないほど当たり前の事象について[編集]

たとえば、火は触れると熱い、地球での1日は約24時間である、人間は男性ではなく女性から生まれるなどの、 現在のところ常識化しているありふれた事実の場合、わざわざ出典を上げる必要はないと思います。 しかし、もうすこし複雑な事象、たとえば「電車や飛行機を利用すると徒歩で移動する距離が縮まるので運動不足になる」、という感じのものはどうでしょう。 運動不足というのが言い過ぎだとすれば、運動時間が減少する、でもいいですが、これなどは(おそらく)誰が聞いても納得できる話だと思います。 通常「要出典」タグがつけられるのは、大勢の人が真実かどうかを判断しにくいことだと認知していますが、このように、ほとんどの人がうなづける話の場合、検証可能性を満たすべく出典を探すべきなのでしょうか。 答え、ではなく、皆さんのご意見を聞きたいです。--グラン 2010年3月3日 (水) 04:05 (UTC)

「要出典」タグがつけられるのは、大勢の人が真実かどうかを判断しにくいことではなく、検証可能性を満たさない記述に対して、です。情報源を探すためには労力も時間もかかりますから、事実かどうかに疑義のあることや、中立的ではない記述に付けられることが多いですし、やみくもにタグ付けすることは避けるべきですが。
「火は触れると熱い、地球での1日は約24時間である、人間は男性ではなく女性から生まれる」と言うことをわざわざ百科事典の項目として書くような場面では、わざわざ出典を示すことが望まれると思います。
たとえば「地球での1日は約24時間である」というのは、「日」や「時間」の定義が必要ですし、地球についてどのように「1日は約24時間である」ことがわかり、それが一般に認められていったのかということも(どこかで)書かれるべきでしょう。そうしたことも含めて「当たり前」ということならば、ぼくはそれだけの知識を持ち合わせていないので、是非それらの情報源を示して欲しいと思います。百科事典の記事を書く上では、「ほとんどの人がうなづける話」だと執筆者が思っていることに対して、踏み込んでいくことが望まれます。ただし、それはそれで難しいことも多々あるでしょうから、そのような場合は能力や労力との兼ね合いで書かないことを責めることもないと思いますけれど。
それほど踏み込まなくてもいい場面で「地球での1日は約24時間である」を書くなら、たとえば『理科年表』を挙げればいいのです。ありふれた事実の情報源は、比較的容易に見つけることができますし、ありふれた事実を確認しようとする閲覧者に信頼出来て入手しやすい情報源を案内することはウィキペディアという百科事典の重要な役割の一つだと思います。
「電車や飛行機を利用すると徒歩で移動する距離が縮まるので運動不足になる」というのは、飛行機であれば独自研究についての方針のアップルパイの事例に相当すると思うけれど、そのことを百科事典の記事に書く必要はないと思います。電車については、近距離の利用であれば、必ずしも距離が縮まるわけではなく、階段の使用などもあります。記事として「運動不足になる」と書くべきなほどの有意な違いが生じるということを示す必要はあるでしょう。--Ks aka 98 2010年3月3日 (水) 06:00 (UTC)

申し訳ありません。私の質問が少しまわりくどくやりすぎていました。 この質問の真意というのは、実は「読めば確かにうなづけるけど、出典が明記されていないから編集者の独自研究の可能性がある」という事象についてのことだったのです。 これは、wikipediaでは特に珍しくもない「メリットとデメリット」を上げる節において、出典が書かれていないものが多いにもかかわらず、読めば事実だと(普通の人は)納得出来るので出典を明記するかどうか微妙・・という事案への対処の仕方を考えてほしいという意味でした。 丁寧な回答をもらったのに申し訳ありません。--グラン 2010年3月3日 (水) 07:10 (UTC)

「読めば確かにうなづけるけど、出典が明記されていない」なら「編集者の独自研究の可能性がある」です。個別の事実に検証可能な出典が付いていて、バカでも分かる程度に論理的ならば独自研究ではないでしょう。個別の事実付けられている出典を確認した上で、合理的であり中立的であると思うなら、そのままにしておけばよいと思います。
特に珍しくもない「メリットとデメリット」を上げる節において、出典が書かれていないものが多いのは、記事が発展途中だからです。「メリットとデメリット」の記述は、一方には宣伝的な要素があり、他方では批判的な要素を持ちますし、利用者の感覚的なところも大きいですから、信頼できる情報源が必要です。宣伝性、批判性が露骨ではなく、その論旨が妥当ならば、その記述を除去しないという選択や要出典タグを貼らないという選択、自分では情報源を探さないという選択があってもいいと思いますが、情報源を探し、示さなくてもいいということにはなりません。明記できる出典を知っているならば、是非示してください。--Ks aka 98 2010年3月3日 (水) 07:39 (UTC)
Ks aka 98さん、ご丁寧にありがとうございます。やはり事実であると一見すれば分かるような事柄でも、出典を探したほうがいいのでしょうね。参考になりました。--グラン 2010年3月3日 (水) 16:05 (UTC)
すみません、それは「1+1=2」にも出典が必要ということですか?どうやって出典を出せばいいんでしょうか。そこまで調べる気にはなりません。--220.100.117.87 2011年1月21日 (金) 09:08 (UTC)
Ks aka 98 氏の「わざわざ百科事典の項目として書くような場面では、わざわざ出典を示すことが望まれると思います。」という部分は読んでいますか。これを踏まえてもっと具体的に質問して下さい。- NEON 2011年1月21日 (金) 10:05 (UTC)

「事実確認の機能」という文言の解釈について[編集]

Wikipedia:検証可能性の「信頼性に乏しい情報源」というサブセクションに含まれる「事実確認の機能」という文言の解釈についてなのですが、ノートでの議論において

  • (解釈A)「事実確認の機能」とは、「情報源へのアクセスの可能性」という意味である。よって、「くだんの情報源によるものと明示」が行われていれば、「情報源へのアクセスの可能性」が閉ざされている場合でも、Wikipediaに掲載することができる。
  • (解釈B)「事実確認の機能」とは、その情報源が公表されるにあたって情報源の発行元がその情報の正当性のチェックを十分に行っているかどうかという意味である。「情報源へのアクセスの可能性」とは関係がないため、「くだんの情報源によるものと明示」していても、確認する手段の存在しない情報源を根拠とした記述をWikipediaに掲載できるわけではない。

というように意見がわかれました。その結果、方針文書のノートで意見を募ってみようということになったので、どのように解釈すべきかご意見をお願いします。発端となった議論はノート:茂木健一郎の「セロニアス・モンクの節にて」の節です。

なお、現在の方針文書中の「TVで観た等」という例示は、「2007年5月22日 (火) 03:09」の編集(差分)で特に議論なく追加されそのままになっているようなのですが、これを残しておくほうがいいかどうかについてももしご意見があればお願いします。僕の意見としては、上記の解釈Bに立った上で、そのテレビ番組の事実確認の機能が十分かどうかというのは番組ごとに個別に判断されるべきものであるため、全てのテレビ番組が信頼に値しないかのような例示は除去したほうがいいかもしれないと考えています。また、もし「TVで観た等」という例示が、具体的な番組名などを挙げることなく本当に「TVで観たから」という理由だけで行われている加筆を想定しているのであれば、それはそもそも出典を提示していることにならないので、「信頼性に乏しい情報源」というサブセクション内で扱う必要はないと考えています。--貿易風 2010年4月10日 (土) 08:39 (UTC)

  • こんにちは。解釈Aと解釈Bは意図的に分類されているので、どちらにも賛意を表明しかねます。「信頼性に乏しい情報源」とは【その情報源が公表されるにあたって情報源の発行元がその情報の正当性のチェックを十分に行っているかどうかという意味】(B)からの観点と常識的におもわれますが、『もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。例えば、「イギリスのタブロイド紙『サン』によれば…」としてください。』(信頼性に乏しい情報源)とありますので、Bの後半部分の主張は無理押しでしょう。「茂木健一郎は○○番組で△△と述べた」とWikipediaに記載することは可能です。またその記述により百科事典の読者が何らかの調査の足がかりを得ることが可能なら有意義な記述である可能性があります。但しあくまで内容の詳細はわかりませんので『その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。』--大和屋敷 2010年4月10日 (土) 09:07 (UTC)ヴィクトル・ヤヌコーヴィチの記事で、彼がかつてギャングで強姦犯だったなる噂を紹介した週刊新潮の記事をどうするかという議論がありました(参考ノート:ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ)。週刊誌の、しかも匿名記者による匿名者への取材情報をもとにした匿名記事などというどうしようもなく信頼性の乏しいものだったわけですが、結果的には『ウクラインスカヤ・プラウダ』や『キエフ・ポスト』などにティモシェンコ支持者が古い噂を根拠に非難していた云々という情報提供があり、「強姦犯だったかどうか」は検証されなくとも「噂」があったということは裏付けられたため、それなりの記述におさまったという事例があります。もっとも、氏は政治家(公人)であるという判断があったためで、一般の著名人程度ならこういう名誉関係の根拠のあやしい記述なら削除が妥当だと思います。--大和屋敷 2010年4月10日 (土) 09:16 (UTC)
    • ご意見ありがとうございます。事情が正しく伝わっていなかったかもしれないので、ちょっと補足しておきます。例えば「週刊新潮の記事」については、(それが匿名記者による比較的信頼性の低い情報であったとしても)号数が判明していれば図書館などでバックナンバーを確認することができるのに対し、今回議論がおこったノートでのテレビ番組は、(少なくとも現時点では)ビデオ・DVD化されていたり放送ライブラリーなどに保存されていたりしないようで、番組内容を確認する手段が存在しない、という事情になっています(番組自体の信頼性について疑いがもたれているわけではありません)。そこで、「そもそもその番組内容を確認する手段が存在しないので検証可能といえない」という主張に対して、WP:Vの「信頼性に乏しい情報源」を根拠にして「くだんの情報源によるものと明示してあるから問題ない」という形で反論できるか、という点で意見が対立していることになるのですが、いかがでしょうか?上の大和屋敷さんの発言のうち、「『茂木健一郎は○○番組で△△と述べた』とWikipediaに記載することは可能です。」という部分は(つまりくだんの情報源によるものと明示するということは)、仮に番組内容の信頼性が低かったとしてそれをカバーする理由になったとしても、「そもそも番組内容を確認する手段が存在しない」という問題点の指摘に対する解決にはなっていないと思うのですが…。--貿易風 2010年4月11日 (日) 05:09 (UTC)
    • ツチノコのページでも似たようなことが起きていますが[6]、情報源がTV番組ならTV番組で、出典を求められたなら、それを収録したDVDやアーカイブ配信などを提示する必要があると思います。読者は、あなたが誰なのかを知りません。世界中の閲覧者があなたに連絡して確認を取れるように、あなたの連絡先を載せるというわけにはゆきません。たとえあなたに連絡がとれるようになっていたとしても、閲覧者があなたを信じる理由がどこにあるでしょうなワケで、少々意地の悪い言い方になる気もしますが、「『茂木健一郎は○○番組で△△と述べた』と私はそう記憶している」を読者が信用してあげる理由は無いワケで。--ひゃくじゅうご 2010年4月11日 (日) 06:29 (UTC)

ご意見ありがとうございました。発端となったノート:茂木健一郎で議論していたIPユーザーの方はあまり頻繁にはWikipediaに来られないようなので、もうしばらく様子をみたいと思います。--貿易風 2010年5月16日 (日) 01:39 (UTC)

「TVで観た」という出典に関して[編集]

今日は、Shigeru23と申します。直前の節での内容にも関係しているのですが、改めて皆様のご理解を確認させて下さい。Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源において『事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)』と書かれている点について確認したいのですが、Wikipedia:検証可能性におけるこの記述の意味する事は、たとえ放送番組名や放送日、チャンネルといった情報が示されても『TVで観た』というだけでは、また、たとえTV放送が行われ後日にDVDやそれに類する手段が与えられることで確認可能となるまでの一定期間だけに限っても、信頼性が乏しいのでそのような記述は歓迎されず『出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)』という文言の対象に含まれるのでしょうか? 現在草案段階であるWikipedia:最新情報の反映では、放映中のアニメ・ドラマなどを対象に『一次資料に基づき記述する場合は、ストーリーに区切りがついた時点までを記述する事が推奨』されるとしており、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源の「TVで観た」という排除条項と対立するのではないかと危惧しております。--Shigeru23 2010年9月19日 (日) 10:28 (UTC)

まず、ガイドラインにまで裾野を広げると互いに反する記述が入り得る可能性は充分にあります。草案ならさらに広くなるのでそういうこともありますね。そういう場合は「ウィキペディア日本語版は何を目指すのか」ということを踏まえて個別に検討すればいいと思います。
次に検証可能性について。「テレビで見た」ということだけでは第三者からの検証が不可能なので「検証可能性」の観点からは不適切であるということに異論がある人はいないでしょう。それがどこかにアーカイブされ、後日検証することができる状態になってはじめて「検証可能性を満たす」と言えるのです。
一方、各種方針、ガイドラインなどを無視して記述されてしまうことへの対処として「Wikipedia:最新情報の反映」にてそれを抑制する方向性は悪くないと思います。ご指摘の箇所については確かに「検証可能性」を満たさない場合が多いかもしれません。しかしながら、毎回毎回ストーリー展開をその度に記述し、まとまりのない記述になってしまうことを考えると余程マシといえるのではないかと思います。できるのであれば、現状の問題を解決し、なおかつ基本方針などと競合しないように「Wikipedia:最新情報の反映」を改善する提案をやってみていただけると幸いです。たぶんそれは私のように「そんな検証可能性を満たさない記述なんていらないだろ」と思っている人間はそういうことにはあまり向いてなくて、「掲載はした方がいいけど、どうやれば現状より良くなるのか」という考えを持っている方の方が適任だとは思います。まあ、Shigeru23さんがどういう考えを持っている方なのかはわかりませんけれども。--iwaim 2010年9月19日 (日) 10:53 (UTC)
お答えいただきありがとうございます。はい、Wikipedia:最新情報の反映によって「方針等が無視されたまままとまりのない記述」が抑制されることは、Wikipediaにとって良い事だと私も感じております。本来、私は「そんな検証可能性を満たさない記述なんていらないだろ」と思っている側なのですが、いまだ草案である「最新情報の反映」と基本方針である「検証可能性」との整合性を図る必要がありますので、上手い摺り合わせが出来ないかと個人的に思案しているわけです。なかなか容易な落としどころが見つからず、現状のままではせいぜいWikipedia:検証可能性側に「(サブカル系のような)一部のカテゴリに属する記事は即時の検証可能性を留保することでWikipedia:最新情報の反映を可能にしてはどうかという提案がなされているが、コミュニティー全体の合意には至っていない」といった意味の文言を書き加える(提案をする)ことで、合意形成中のような形態を採る方法ぐらいしか思い浮かびません。検証可能性はWikipedia全体を貫く大原則ですので、上記のような記述すらもこちらで合意が得られるか心もとない状況であり、1人で主導してすぐにどうこう出来そうにありませんので、気長に関われたらと思っています。Wikipedia:最新情報の反映を読まれた他の方がこちらで意見を述べていただければ幸いです。ではありがとうございました。--Shigeru23 2010年9月20日 (月) 15:59 (UTC)
コメント 「TVで見た」という情報源が事実確認の機能を欠くというのはつまり、その情報源を元にした疑わしい記述があっても、その番組を見返す手段がないからであると理解します。例えばニュース番組などを逐一録画して保存している人は少ないでしょうから、そうした内容は後日になって誰も検証できないばかりか、加筆者もうろ覚えや聞き間違いを元に書いている可能性があり、出典としては問題があるでしょう。
一方で、ドラマやアニメの録画率は比較的高いとも言われています[7]。「後日にDVDやそれに類する手段」によって検証可能性が確保される見込みがあるような作品は、同時に映像自体の商品価値が(少なくとも商業的な収益を得られる見込みがあるという程度には)高いという意味でもあるので、そうした番組を録画している人も多いことは想像に難くはありません。こうした作品記事の執筆者は、少なからずそうした作品を録画している人が参加しますので、疑わしい情報や誤った解釈を書き込む人がいても、執筆者の誰かが事実を確認することが可能です。ウィキペディアにおいてこうした内容が慣習上、検証可能な内容と見なされているのは、そのような理由もあるのだと理解しています。もちろん月日が経過するに従い、録画内容を消してしまったり紛失してしまったりする人も多くなるでしょうが、その頃には検証可能な「DVDやそれに類する手段」が発売されますので、検証可能性としては問題ないと考えます。
「創作物を元とした逐次的な編集」や「Wikipedia:性急な編集をしない」の対象となっている事物は、こうしたドラマやアニメが対象なのですから、上記のような「多くの記事執筆者が録画している見込みが高く、後日にDVDやそれに類する手段で検証可能となる予定の番組」が検証可能性を満たしていると考えれば、方針の精神とは矛盾しないと考えます。--Kanohara 2010年9月23日 (木) 10:54 (UTC)
TVで見たでOKなら、ラジオのニュースでもOKだな。そうなると地球は少なくとも一回、火星人の襲撃を受けたことがあるということになってしまいますね・・・60.36.29.143 2010年9月23日 (木) 19:29 (UTC)
そのツッコミは益があるとは思えないです。--iwaim 2010年9月23日 (木) 21:29 (UTC)
コメント ラジオドラマ版の『宇宙戦争』は、CD化されたものが発売されていますし(ASIN 4896893891)、多くの文献で言及されている著名な題材なので、検証可能と言えるのではないでしょうか。実際に「宇宙戦争 (ラジオ)」として記事化もされています。ただしこの資料を出典とする場合は、「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」に従い、フィクションと現実を区別する必要があると考えます。--Kanohara 2010年9月24日 (金) 02:21 (UTC)
《ウィキペディアにおいてこうした内容が慣習上、検証可能な内容と見なされているのは、そのような理由もあるのだと理解しています》ですが、本当に検証可能性を満たしていると判断する慣習はあるのでしょうか?検証可能性とは違う判断基準で、慣習的に認められているというだけじゃないんでしょうか?また、《「後日にDVDやそれに類する手段」によって検証可能性が確保される見込みがあるような作品は、同時に映像自体の商品価値が(少なくとも商業的な収益を得られる見込みがあるという程度には)高いという意味でもあるので、そうした番組を録画している人も多いことは想像に難くはありません》と仰っていますけども、ならば後日にそういうものがでてきてから、ウィキペディア日本語版の記事に反映させればいいんじゃなかろうか、と私は思います。
さて、ここは「検証可能性」のノートなので、その観点を中心として話を続けます。ドラマやアニメなどの内容を、そのドラマやアニメ自体を情報源として記載しようとする場合、その情報源は草案「Wikipedia:信頼できる情報源」でいうところの一次資料に相当すると判断できます。で、「信頼できる情報源」では『信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません』と強調されていることは忘れるべきではないでしょう。
ドラマやアニメの記事がどのような姿であるべきなのかということは、ドラマやアニメの記事を書きたい方々で検討していただければいいと思っているんですが、「検証可能性を満たしているんだ」と強弁されるのはいただけないなあ、と思います。--iwaim 2010年9月23日 (木) 21:45 (UTC)
コメント 「慣習的に認められている」というのは、以下のような先行する議論を大雑把に目を通した上での個人的な印象です。過去に「Wikipedia:保護の方針/仮運用」の運用が失敗し、正式運用が見送られた経緯などを考慮すると、「Wikipedia:最新情報の反映」を用いて「各種方針、ガイドラインなどを無視して記述されてしまうことへの対処」を行うことは、コミュニティの合意を得られないだろうという印象も抱いています。
ドラマやアニメなどの内容において何が一次情報で何が二次情報であるのかという点については、「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」にまとめられており、ドラマやアニメの作品そのものは一次情報であると定義されています。しかし「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません」という記述の直後には「Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:検証可能性をご覧ください」という誘導があり、その先には「入手できる状態になっていない一次資料」がどのようなもので、なぜ「使ってはいけない」のかという定義が書かれています。いわく一次資料を直接ウィキペディアで公表すること、たとえば投稿者自身の体験の記述や、投稿者が行ったアンケートやインタビューなどを掲載する事は独自研究にあたり許されませんとのことで、なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」ですとのことです。翻ってテレビドラマやアニメの例に戻ると、この場合「その情報が入手できる状態になっていない一次資料」という文章に当てはまるのは、例えばまだ制作中であるなどして未放送の番組、作者の頭の中にしかない構想段階の漫画のプロットに基づいて、制作者や原作者、およびその関係者が作品の内容をウィキペディアで直接発表するような状況を想定している文言のように思われます。既に日本全国で放送されて、十分に録画率が高い番組は、「信頼できる出版元(この場合は放送局)によって、その情報が入手できる状態になっている(いた)一次資料」と言えるのではないでしょうか。--Kanohara 2010年9月24日 (金) 02:51 (UTC)
こんにちは。Kanoharaさんの補足として。日本語版にはまだ輸入されていはいなのですが英語版には、「en:Wikipedia:Manual of Style (television)」のようなものもあります。この「Plot section」にある「Plot summaries do not normally require citations; the television show itself is the source, as the accuracy of the plot description can be verified by watching the episode in question. An exception to this rule may be shows containing plot details that are unclear or open to interpretation, in which case the different interpretations should be sourced to reliable sources.」辺りが「ドラマやアニメの作品」記事を作成するうえで参考になるのではないかと思います。--Giftlists 2010年9月24日 (金) 03:17 (UTC)
ドラマ・アニメに関しては、ビデオ・DVD版が発売される際に作画やシーンの削除・修正をしたり差し替える場合があります。それに関してはいかがお考えでしょうか。--Himetv 2010年9月24日 (金) 00:58 (UTC)
コメント 放送されたものより修正されたものの方が、より著作者の意図に基づいた表現に近づいているはずですから、それを情報源として記述する場合はビデオ・DVD・BDなどの内容に準拠した方がよいのではないかと(個人的には)思います。修正による違いが物語の核心に関わるような違いであったり、放送版の作画崩壊が話題になるほど悲惨なものであったりした場合、それが百科事典に載せる価値があるほど顕著なものであるならどこかの二次資料で言及があるでしょうし、逆にどこにも言及がない場合は、百科事典として特記するほどではないファンサイト的な記述であるように思います。--Kanohara 2010年9月24日 (金) 02:51 (UTC)
コメントWikipediaの原則は検証可能性ですから個人が『TVで観た』ことだけを根拠にストーリーを記載すべきではないと思います。そしてこれはいくら多数が録画していても他の編集者が確認できる状態とは言えないので、この原則は変わらないと考えます。ただし放送と同時進行で公開されるテレビガイド誌や公式ウェブサイトを根拠に記載することは可能だと思います。したがって2つのガイドラインは対立しにくいと思います。これはShigeru23 2010年9月19日 (日) 10:28 (UTC)へのコメントです--みや1229 2010年9月24日 (金) 09:25 (UTC)
(Giftlistsさん、みや1229さんに対する コメント)Giftlistsさんが示したガイドラインは、「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#一次情報」に書かれている「そして、もちろんプロット自体も該当します」の部分に対応する内容のように感じられます。英語版では、これをテレビ番組にも適用できることを明記していると解釈すれば宜しいのでしょうか。
個人的には、後日ビデオ・DVD・BDが発売される見込みがある番組については、将来的には誰にでも検証が可能という意味で検証の「可能性」がある、とも受け取っています。初版のみ発売されてその後回収騒ぎになった書籍や、絶版になっており国会図書館にも蔵書がない雑誌などよりは、出典を入手できる可能性が十分に高く、また予定された事象などと異なり、前述のように録画で検証できる可能性も高いので、正確な内容を期待できると考えています。最近はインターネットによるドラマ・アニメの配信なども行われているので、これはある程度配信期間が限られるとしても、パッケージ販売までのつなぎとしては十分でしょう。--Kanohara 2010年9月26日 (日) 18:01 (UTC)
コメントこんばんは。Kanoharaさんからコメントをいただいていたのを見落としていました。ご質問いただいた件は、私と同じ解釈のようです。--Giftlists 2010年10月9日 (土) 15:06 (UTC)

コメント皆様に質問なのですが、たとえばNHKの番組で放送された情報を出典するとして、[[NHKオンデマンド]]でアーカイブスされている場合、私は、検証可能性を満たしているので信頼できる情報源だと思ったのですが、この場合もTV番組で見たと同様の判断なのでしょうか。--Mr.Max 2011年6月3日 (金) 14:04 (UTC)

検証可能性の周知および徹底のための編集フィルター[編集]

編集フィルターの作成提案にて、主として「検証可能性の周知および徹底」を目的とした「参考文献(出典)に関する節がない記事の作成」に対する編集フィルターが提案されていますので、お知らせいたします。--青子守歌会話/履歴 2010年9月27日 (月) 20:24 (UTC)

検証可能な出典の定義について[編集]

時折出典を要求される方には「この出典は検証可能性を満たさない」と指摘し、では何が検証可能性を満たす出典なのかでもめるケースが散見されます。

簡単な定義として

  • 金・手間をかければ誰でも検証可能であり、検証可能性を満たす例
僻地にある記念碑=そこに行きさえすれば誰でも実物を確認できる
高額な文献=金さえ出せば誰でも入手できる
  • 誰でもは検証できないため、検証可能性を満たさない例
立入に特定身分が必要な場所=その身分でなければ検証できない

等の形で明示しておくことで、論争の一部は回避できると考えますが如何でしょうか?--U8WC078ef5ch 2010年9月28日 (火) 19:06 (UTC)

それらは「大金や交通手段が無ければ検証できない」「誰でも入会資格・受験資格・被選挙権を持っており、身分を得さえすれば確認できる」とも書けます。どちらの例も程度問題であり、簡単な定義とは言えません。より本質的でない議論で紛糾するだけだと思います。- NEON 2010年9月29日 (水) 03:30 (UTC)
算数による計算の結果」は検証可能ではないんですか?例として現年齢に基づく人の出生年の算出。最近、西平良将で争いがあったばかりなんですけどね。(このタイムスタンプから1週間以内にレスポンスがなかった場合には、この節はもう誰も見ていないものとみなします)--220.100.117.87 2011年1月21日 (金) 09:04 (UTC)

信頼性に乏しい情報源[編集]

Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源の節の記述は、コミュニティの支持をどの程度受けているのでしょうか?この節では要するに「情報が重要で残す値打ちがあるものならば、信頼性に乏しい情報源でも出典として使ってよい」と言っているようですが、これは「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」という基本方針と矛盾しているように思います。この部分は2006年4月に英語版のルールが翻訳・導入されたときの記述がほとんどそのままの形で残っているわけですが[8]、英語版の当該部分の記述は何年も前に消えてなくなっているようです。日本語版でも、信頼性に乏しい情報源を出典として使ってよいと考えている人はそれほど多くないのではないかと思うのですが、いかがでしょう?私としては、この節を削除して「信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」をはっきりさせる方が良いと思うのですが?--Dwy 2010年11月15日 (月) 15:29 (UTC)

反対 寄りコメント)言うまでもなく、明らかに誤った情報を恣意的に用いて出典とするようなことは、編集者の良心に賭けて行うべきではないことは大前提です。ですが現状、「Wikipedia:信頼できる情報源」は正式なガイドラインとはなっておらず、何が「信頼できる情報源」であるのかという定義は人によってまちまちであるようにも感じています。少々極端な例になりますが、私が専ら執筆している報道、フィクション、ゲームの記事では、以下のような議論と遭遇することがあります。
  • 日本のマスコミは信頼できない。
    • 朝日新聞は左翼偏向なので信頼できない情報源である。
    • 読売新聞、産経新聞は右翼偏向なので信頼できない情報源である。
    • 毎日新聞は毎日デイリーニューズWaiWai問題を起こした報道機関であり報道内容は一切信頼できない。
    • ニュースサイトはしばしば2ちゃんねる掲示板やブログの炎上記事を取り上げる。2ちゃんねる掲示板やブログは信頼できない情報源なので、そうした記事を多く扱っているニュースサイトもまた信頼できない情報である。
    • スポーツ新聞は現行のガイドラインでも信頼できない情報源として定義されている。週刊誌も同様である。
    • もちろんテレビ・ラジオの情報には事実確認の機能がなく検証可能性を満たさない。
  • フィクションに関する情報は一切信頼できない。
    • ライターが書いた雑誌やオフィシャルファンブックなどの記事にはライターのバイアスがかかっており、原作者の意図を正しく伝えているとは限らない。信頼できる情報ではない。
    • 原作者が主観に基づいて書いた内容は自己宣伝であるし、実際の作品が作者の意図した通りに表現できているとは限らない。信頼できる情報ではない。
    • 紹介・解説作品そのものを出典とすることは、ウィキペディアの記事執筆者自身の解釈や分析を挟むことになるので、独自研究になる。
  • ゲームは芸術か?
    • チェスが単なるゲームではなく一種の芸術でありスポーツであることは、その分野の専門家である世界中のチェス・プレイヤーが口を揃えて言っている確かな事実であり、多くの専門書にも載っている。国語辞典に乗っている「西洋将棋」なる定義や、数学者の言う「二人零和有限確定完全情報ゲーム」なる定義は、チェスの門外漢が書いた内容であり信頼すべき情報ではない。ウィキペディアの記事には専門家が書いた信頼できる情報のみを乗せるべきであるので、チェスは芸術でありスポーツであるという定義を第一義として定義すべきである(「ノート:チェス#冒頭文および「概要」について」を参照)。
    • CLANNADは人生」というフレーズは、確かにファンの間では浸透した表現でありニュースサイトでも取り上げられることもあるが、公式に用いられているフレーズではなく記事で触れるべきではない(ノート:CLANNAD (ゲーム)#「CLANNADは人生」の記述についてを参照)。
こうした議論には的を射ているものもあれば、正直うんざりしてしまうような杓子定規な運用もあると感じています。実際のところ何が信頼できる情報であるのかはケースバイケースだと思いますが、「信頼できる情報源とは何か」という定義についての合意がないと、それは「私が嫌いな情報源」の同意語へと歪められてしまうのではないでしょうか。個人的には、独自研究を避けつつ中立性を確保するには、少数意見も必要で、そのためには時折間違った報道や発表を行うこともある報道機関を頼りにすることも是であると考えています。--Kanohara 2010年11月16日 (火) 13:11 (UTC)
  • Wikipedia:信頼できる情報源が正式なガイドラインになっていないとしても、「信頼できる情報源とは何か」については、大枠である程度のコンセンサスが存在すると認識しています。(判断基準のコンセンサスが全くないのなら、論争が起こったときに収拾がつかないはずですから、もっとめちゃくちゃな状態になっているはずです)
  • 人間である限りミスはつきものですから、「信頼できる情報源=絶対間違わない」という意味ではありません。大手の新聞の不正確な報道について批判があるのは、ある意味、それだけ正確性が期待されている(=信頼されている)ということの証でもあります。これがマイナーな芸能週刊誌あたりだと、多少の誤報があっても誰も気にも留めません。
  • 何を信頼すべきで何を信頼すべきでないかは、ほとんどの人が直感的に判断できます。すべての場合に適用できる一般的な基準を合意するのは難しいかもしれませんが、ある程度の人数で話し合えば、個々のケースについてのコンセンサスを得るのは、多くの場合それほど難しいことではないと思います。
  • 「偏向」した「少数意見」の取り扱いについては、「検証可能性」ではなく、Wikipedia:中立的な観点で対処すべき問題でしょう。つまり、有力な少数意見は少数意見であることを示した上で記述し、マイナーな少数意見は記述しないと言うことになります。
  • 現行の「情報が重要で残す値打ちがあるものならば、信頼性に乏しい情報源でも出典として使ってよい」を支持されるのであれば、情報の重要性をどのような基準で判断するのかについても、お考えを聞かせていただきたいと思います。私としては、「ある情報が重要かどうか」は「信頼できる情報源かどうか」などよりずっと合意が難しいような気がしています。--Dwy 2010年11月16日 (火) 16:03 (UTC)
コメント 「常識的に考えて真偽が疑わしいゴシップ記事を出典に使ってはいけない」という内容であれば、個人的には頷けます。ですが「信頼性に乏しい情報源とは何か」という定義を曖昧にしたまま、現状の文面から「信頼性に乏しい情報源でも条件付きで出典として使ってよい」という記述を削ることには問題があると考えます。実際にトラブルになっている例を幾つも見ている身には「ある程度の人数で話し合えば、個々のケースについてのコンセンサスを得るのは、多くの場合それほど難しいことではない」という予想については悲観的です。
学術的な記事についてはそれで問題ないとしても、ウィキペディア日本語版において比較的多勢を占める大衆文化の記事では、信頼できる情報源が期待できませんもちろん百科事典に大衆文化の記事は一切不要であるという意見もあるとは思いますが、その是非についてはこのノートで話し合う内容ではないと考えます。文面の改定には、「ウィキペディアで使用してもよい情報源とは何か」という定義の明確化がセットでなければならないと考えます。少なくともガイドラインの意図を離れて「2ちゃんねらーの間では評判が宜しくない朝日新聞は出典としては使用できない」「スポーツ新聞や週刊芸能誌はいかなる場合も出典としては使用できず、仮に一次情報源を参照可能な情報やしっかりしたインタビュー記事、複数の芸能誌が取り上げている内容であっても例外ではない」とも解釈できるような文面は、望ましくないと考えます。--Kanohara 2010年11月17日 (水) 00:24 (UTC)
「信頼できる情報源」の定義については、Wikipedia:信頼できる情報源がかなり詳細な説明をしており、正式なガイドラインにはなっていないものの、その記述に特に異議が出ることもなく相当の年月が過ぎているわけですから、それなりにコミュニティの支持を得ていると言ってよいと思います。なお、Wikipedia:信頼できる情報源#大衆文化やフィクションでは、「査読済みの学術的な研究が期待できない分野では、信頼できる情報源の範囲を緩やかに考えましょう」と言っているのであって、「信頼できる情報源が期待できません」と言っているわけではありません。--Dwy 2010年11月18日 (木) 16:12 (UTC)
確かに信頼できる情報源の定義は「Wikipedia:信頼できる情報源」で説明されています。そして信頼できない情報源(無名の個人がブログや掲示板に投稿した内容など)が使用できないのは言うまでもありません。ですが「信頼性に乏しい情報源」の定義は今のところ本ガイドラインにしかなく、それを額面通りに受け止めれば「事実確認について評判がよくない情報源、例えばタブロイド新聞、夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙のこと」ということになり、広義には「信頼できる情報に見えるが一抹の疑問も感じるような内容」も含むものと考えます。今回争点になっているのはその辺りの内容であると考えますが、「Wikipedia:信頼できる情報源#大衆文化やフィクション」と照らし合わせた時、相当量の情報源のうち最良のものが大衆紙だった場合に、結局のところ大衆紙を情報源として扱って良いのかどうかが不明瞭に感じます。
「査読済みの研究を期待するのは現実的でない」分野における例外的な処置として、直感的には正しいと思える最良の情報源が娯楽中心の大衆紙に掲載されている内容であるとき、「それをくだんの情報源によるものと明示」することで出典として用いることができるといった例外は、個人的にはあってもよいと考えています。--Kanohara 2010年11月18日 (木) 17:47 (UTC)
本当にそういう例がどのくらいあるのか非常に疑問ではありますが、「直感的には正しいと思える最良の情報源が娯楽中心の大衆紙に掲載されている内容である」とみんなが合意できるなら、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源の記述がなくても、Wikipedia:信頼できる情報源#大衆文化やフィクションの解釈として、その情報源を「信頼できる情報源」だと認めることは十分に可能だと思います。
一方、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源の記述では、「情報が重要で残す値打ちがあるものならば」という条件がついていて、これが相当厄介です。「俺は重要だと思う」と主観的な主張をすることは簡単ですが、それでは反対者を納得させるのは難しく、論争に決着がつきません。客観的な判断が必要になるわけですが、常識的には、重要な情報なら当然ちゃんとしたメディアで取り上げられているはずであり、娯楽中心の大衆紙でしか見つけられない情報を「重要な情報」と言い張るのは難しいと言えるのではないでしょうか。つまり、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源の記述は、重要だ」「重要ではない」という不毛な論争の種になるだけで、実際にはあまり役に立たない規定のような気がします。「情報の重要性」のような主観的で判断が難しい基準を入れずに、情報源が信頼できるかどうかだけに議論を集中させるという意味で、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源(特に第2パラグラフ)の除去を提案しているのです。--Dwy 2010年11月19日 (金) 15:38 (UTC)
(インデント戻します)とりあえず「重要か重要ではないか」で記述を残す残さないを決めるのは不毛だからやめよう、というDwyさんの意見は分かりました。個人的にも現在の文面が「信頼できない情報源とはつまり、2chなどで評判がよろしくない朝日新聞などである」のように受け取れてしまうのは問題だと感じているので、ニュアンスの再確認や改定の必要があるように感じています。
一方、「信頼性に乏しい情報源」の定義とその扱いに関する方針は他のガイドラインでは定義されていません。「Wikipedia:信頼できる情報源」は情報の信頼性を評価する指標は与えていても、どの程度の確からしさであれば信頼できる情報と見なしてよいのかという内容は含まれていないと感じます。この内容を節ごと除去してしまうと、個人的な判断では概ね正しいと確信しているものの一抹の不安が残るような内容や、複数の編集者の意見が分かれるようなものについて、どう扱えばよいのかという方針がなくなってしまいますし、第2パラグラフのみを「信頼性に乏しい情報源は、信頼できない情報源と同意語であり使ってはいけません」という内容に置き換えてしまうと、そういった情報は使用できないことになってしまうのではないかと危惧します。
個人的には、現在のガイドラインは下記のような解釈で受け取っています。ひとつの私案として示します。

ある情報が信頼できる情報源であるか否かを吟味する上で、それが信頼できるとも信頼性に乏しいとも判断できず迷ったり、内容の正しさについて編集者の間で意見が分かれたり、どうしても信頼性に乏しい情報に言及する必要が生じるなどした場合もあるかも知れません。その場合は、それをくだんの情報源によるものと本文中で明示した上で記載してください。もっとも、十分に信頼できる複数の情報源が確保できないのなら、もしかするとその情報はあまり重要でないのかも知れません。ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。それが本当に記事に必要な内容であるのか、一度自問してみてください。

さて、ふと英語版ではこのガイドラインがどうなっているのかと思い、en:Wikipedia:Verifiability#Questionable sourcesを訳してみました。私は英語がたいへんに苦手なので、あまりよい訳ではないと思いますが、現在の日本語版のガイドラインなどと照らし合わせた結果、概ねこのような意味だと受け取っています。

信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、または編集上の監督を欠く情報源のことです。例えばウェブサイトや刊行物のうち、過激派として知られている立場の主張に基づいたもの、宣伝目的のもの、あるいは内容の大半が裏付けのない噂や根拠のない自説で占められているようなものが、こういったものに該当します。

信頼性に乏しい情報源は、あくまで公表者自身に関する記事の中で公表者自身についての情報源として用いるべきです(「自主公表された情報源:公式サイト」も参照)。一般的に、第三者に関するもので論争の余地がある主張について、こうした情報源を用いることは適切ではありません。

en:Wikipedia:Verifiability#Questionable sources 20:19, 25 November 2010 (UTC) から翻訳

なお、私は「rely heavily on rumor and personal opinion」を「内容の大半が裏付けのない噂や根拠のない自説で占められているようなもの」と訳し、ごく限定的な意味で受け取りましたが、以前に参加した議論では「大衆の話題や意見に関する記事を好んで取り上げるもの」といったニュアンスで訳す意見もあり、後者の解釈ではWeb上のニュースサイトや芸能週刊誌などは情報源として一切扱えないことになります。これについては「Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#Web上の事物を扱うニュースサイトは信頼できない情報源なのか」や、それに先立つ「ノート:アグネス・チャン#j-castニュース」もご覧ください。いざ英語版を導入する場合、この辺りのニュアンスについては議論の余地があるかと思います。--Kanohara 2010年11月29日 (月) 23:56 (UTC)
>「信頼性に乏しい情報源」の定義とその扱いに関する方針は他のガイドラインでは定義されていません
「信頼性に乏しい情報源」というのは、信頼できる情報源の裏返しですから、「定義されていない」とは言えません。「その取り扱いに関する方針」については、Wikipedia:検証可能性が「あらかじめ信頼できる情報源から公表、出版されている事実、視点、理論及び議論だけを収録してください」と明確に述べています。
>どうしても信頼性に乏しい情報に言及する必要が生じるなどした場合もあるかも知れません。
私としては「信頼性に乏しい情報」の使用を認める提案には反対なのですが、それ以前の問題として、仮にKanoharaさんのご提案が通ったとしても、実際に「信頼性に乏しい情報」が使えるようにはならないと思います。「信頼性に乏しい情報に言及する必要が生じる」場合がありえるとは私には思えませんし、そのような考え方がWikipediaのコミュニティの中で特異な少数派だとは思えないからです。
>あくまで公表者自身に関する記事の中で公表者自身についての情報源として用いるべきです
英語版の導入で合意できるのであれば、私はそれで結構です。ただ、上に引用した部分は本来「公表者自身に関する記事等の中で公表者自身についての情報源としてだけ用いるべきです(それ以外の目的には使用できません)」の意味なので、その点がはっきり分かる表現にするべきでしょう。
>「大衆の話題や意見に関する記事を好んで取り上げるもの」
Wikipedia:検証可能性が「大衆の話題や意見に関する記事を好んで取り上げるもの」を排除しているわけではありませんから、Kanoharaさんの翻訳で全く問題ないと思います。
ただ、事実を正確に伝えることより、興味本位に面白おかしくつたえることに重点が置かれているメディアは、「信頼できる」とは言えませんし、問題になるのは「検証可能性」だけに限られるわけでもありません。例えばインタビュー記事などは基本的に「一次資料」ですからWikipedia:独自研究は載せないの点から使用が制限されますし、記事の主題によっては「大衆の話題や意見」を扱うことがWikipedia:ウィキペディアは何ではないかに照らしてどうなのかも考えなければいけないでしょう。--Dwy 2010年12月4日 (土) 09:30 (UTC)
> 「信頼性に乏しい情報源」というのは、信頼できる情報源の裏返しですから、「定義されていない」とは言えません。
Dwyさんが「信頼性に乏しい情報源」を「信頼できる情報源の裏返しのことである」と解釈している、つまりグレーゾーンではなくて真っ黒なものだけを指しているつもりであることはよく分かったのですが、実のところ現在の文面にはそのように明記されていないので、曖昧な解釈を生む余地になっていると認識しています。この定義の解釈に苦しめられた経験が幾度かある者としては複雑ですが、そのように定義するのであれば、文面の冒頭に「信頼性に乏しい情報源とは、信頼できる情報源の定義には当てはまらないもの、つまり……」といった一文を付け加えた方がよいと考えます。
> 「信頼性に乏しい情報に言及する必要が生じる」場合がありえるとは私には思えませんし、そのような考え方がWikipediaのコミュニティの中で特異な少数派だとは思えないからです。
これについては、例えば誤報や信頼性の疑わしいスキャンダル報道自体が、大手新聞社で取り上げられるなど特記すべき話題になっているような時に、記事を一次情報源として場合、つまり公表者自身が関係している記述の中で、公表者自身についての情報源として用いるようなケースを想定しています。仮にこれを組み入れる場合は、その辺りの明確化が必要かも知れませんね。
> 上に引用した部分は本来「公表者自身に関する記事等の中で公表者自身についての情報源としてだけ用いるべきです(それ以外の目的には使用できません)」の意味なので、その点がはっきり分かる表現にするべきでしょう。
前回の発言で紹介した以前の議論(Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#Web上の事物を扱うニュースサイトは信頼できない情報源なのか)では、「Wikipedia:信頼できる情報源」の英語版該当節(en:Wikipedia:Identifying reliable sources#Questionable sources)には、“very limited.”という一文があり、まったく認めない訳ではなく「限られている」のではないかというAfazさんからの指摘がありました。この辺りは訳者によって意見が分かれるかも知れません。
> Kanoharaさんの翻訳で全く問題ないと思います。
ありがとうございます。ただ、英語版を導入して「信頼性に乏しい情報源」の内容と置き換える場合、現在のガイドラインが担っている機能を肩代わりするものとして「#Newspaper and magazine blogs」と「#Access to sources」を併せて導入する必要があるように感じます。英語力にはあまり自信がないのですが、前者はニュースサイトが信頼性に乏しい情報源か否かという議論に関連して、後者は「TVで観た」という出典にも関連する方針かと思います。
> 例えばインタビュー記事などは基本的に「一次資料」ですからWikipedia:独自研究は載せないの点から使用が制限されますし、
出版社から発売された芸能誌に掲載されているインタビュー記事は、「既に発表されている一次資料」に該当するため、「独自研究は載せない」の方針の上では特に問題はないと考えています。「Wikipedia:信頼できる情報源#情報源」にあるように、注意して扱う必要はあります。
> Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかに照らしてどうなのかも考えなければいけないでしょう。
この点についてはその通りだと思います。--Kanohara 2010年12月9日 (木) 21:04 (UTC)