Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive08

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「自主公表された情報源:公式サイト」の記述について[編集]

現在、ノート:糸杉柾宏におきまして、同人誌などの出典としての是非をめぐって、表題の項目の「第三者によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない限り」という一文の解釈について議論が起きています。概ね以下のように解釈が分かれています(ちなみに私自身は1の解釈です)。

  1. 他に「第三者によって公表された信頼できる情報源」が存在して、尚且つその記述と矛盾している場合に限り「自主公表物やその他の信頼性に乏しい情報源」はウィキペディアでは(情報源自身に関する記事において)出典として認められない
  2. 比較すべき「第三者によって公表された信頼できる情報源」が存在しない限り「自主公表物やその他の信頼性に乏しい情報源」はウィキペディアでは(情報源自身に関する記事において)出典として認められない

果たしてどちらの解釈が正しいのか、御意見を募りたいと思います。また結論が出た時点で、本文の記述を以下のどちらかに修正する事を提案致します。

  1. 他に第三者によって公表された信頼できる情報源が存在した場合、その記述と矛盾していない限り
  2. 他に第三者によって公表された信頼できる情報源が存在し、尚且つその記述と矛盾していない限り

それでは、御意見お待ちしています。--ユキポン 2008年12月29日 (月) 01:45 (UTC)

どちらかと言えば前者だと思います。つまり、ウィキペディアでは「基本的に自主公表された情報源」は使えないというのはご存知だと思いますが、「第三者によって公表された(=自主公表でない)情報源」がなくても公式サイトなら使ってもいいケースがありますよ、というのがその条項の言いたいことです。もし自主公表でない情報源があるなら、わざわざ公式サイトの情報を無理に使う必要もないのですし。ただ、但し書きにあるように、これはあくまで「検証可能性」つまり「その情報が信頼できるかどうか」の話であって、「その(自主公表された情報源による出典付きの)情報を載せてよいかどうか」は別問題です。個人的には「第三者によってかかれたことすらない情報に載せる価値があることはまずない」と思っていますが、ひとまず「検証可能性」の観点から言えば、既に存在している他の情報源と整合性が取れない場合は自主公表された情報源は出典として適切ではないという考えてよいと思います。--青子守歌会話/履歴 2009年1月4日 (日) 14:51 (UTC)

御意見ありがとうございます。私自身、仮に照合すべき「第三者によって公表された信頼できる情報源」の存在が(情報源自身に関する)自主公表された情報の記載の可否を左右するなら、そもそも「信頼できる情報」のみを記載すればいいだけの話であり、自主公表された情報の記載に関する条件など最初から明記する必要はないのではないかと疑問に思っておりました。あと、この公式方針の文書の変更も含め、引き続き御意見をお待ちしています。--ユキポン 2009年1月4日 (日) 15:35 (UTC)

まずユキポン氏の第一の質問ですが、これは明らかに1でしょう。すでに信頼できる情報源が存在するならば、敢えて同人誌やウェブサイトを出典とする必要がありません。その次、自費出版の自伝や公式ウェブサイトなどを典拠とする情報に対して、「検証可能性は満たすが記載の必要性がない」と言い切れるかは、かなり怪しいところです。現実にノート:糸杉柾宏においても、人物の性別という記載する価値の高い情報について争われているわけです。なお、ノート:糸杉柾宏の中で、「しかし、注意してください。もしその専門研究者のブログに掲載された情報が本当に書く価値のあるものならば、他の誰かが既に執筆していたはずです」という一文を理由に記載の必要性を否定する言説が出ていますが、完全に的外れです。同文は自主公表された情報源の補則であり、自主公表された情報源:公式サイトの補則ではありません。さて、方針の文言の修正については、私としては、積極的に遂行する必要があるとは考えていません。今回のような例外はありますが、方針を熟読した大半の利用者にとって、当該の一文の意味するところは自明でしょう。もっとも、私は正面から文言の修正に反対するわけではありません。修正すべきだという意見が優勢であれば、それを追認いたします。余談となりますが、私は、本人が公開した情報は「第三者によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない限り」記載できるという限定が絶対的に妥当なものか、ある程度の疑問を抱いています。例えば、ある大手の新聞社が「○○氏は栃木県の出身である」と記事で述べた後に、本人が「あの新聞社に書いてあることは誤りで、私の生誕地は茨城県である」とウェブサイトで訂正した場合、新聞社の記事のみを典拠として認めることができるのか。これはいずれ検討が必要でしょう。--白文鳥 2009年1月10日 (土) 16:33 (UTC)
◆《仮に照合すべき「第三者によって公表された信頼できる情報源」の存在が(情報源自身に関する)自主公表された情報の記載の可否を左右するなら、そもそも「信頼できる情報」のみを記載すればいいだけの話であり、自主公表された情報の記載に関する条件など最初から明記する必要はないのではないかと疑問に思っておりました》という疑問に回答します。ある対象についての記述について、「第三者によって公表された信頼できる情報源」と「自主公表された情報源」の双方に記述されていた場合、その記述の信頼度が高まります。そのため、双方を情報源として記載することには意味があります。--iwaim 2009年1月10日 (土) 16:55 (UTC)

御意見・御指摘ありがとうございます。また、白文鳥さんの提起された、「第三者によって公表された信頼できる情報源」による情報と(情報源自身による)自主公表された情報が矛盾する場合の対応について深く考えさせられました。そうした事態も仮想して、今回議題に挙がった一文は以下のように変更した方が良いかもしれません。

「もし情報源自身による情報が、他に存在する第三者によって公表された信頼できる情報と矛盾している場合は、その第三者の情報と共に記載されるべきです」

それでは、議題となっている一文の修正の是非、および修正内容について、引き続き御意見をお待ちしています。--ユキポン 2009年1月11日 (日) 02:52 (UTC)

白文鳥さんの例みたいなことだと、Wikipedia:存命人物の伝記も参考にしたほうがよいかな。まあ、本人が「あの新聞社に書いてあることは誤りで、私の生誕地は茨城県である」とウェブサイトで訂正できるような場合で、その新聞社の記事が通常の報道記事であるなら、ウェブサイトを主とし、新聞の記載は脚注で触れておくというような扱いが適切ではないかと思います。
「もし情報源自身による情報が、他に存在する第三者によって公表された信頼できる情報と矛盾している場合は、第三者の情報の補足として記載されるべきです。ただし、公表時期や内容から、慎重に判断し、自主公表の情報を主としたほうがよい場合もあるでしょう。」
とかだと、逆に迷うかな。--Ks aka 98 2009年1月12日 (月) 19:58 (UTC)

御意見ありがとうございます。しかしながら、今回の議題は本文の記述が明確でないために起こったものなので、極力曖昧な記述は避けたいと考えています。個人的には、情報源自身による情報と、第三者による情報のどちらを中心にするかといった記述は特別必要ではないと思うのですが。--ユキポン 2009年1月14日 (水) 21:54 (UTC)

そろそろ結論をまとめたいと思います。今までの御意見を伺う限りでは、とりあえず本文の「第三者によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない限り」という記述に関する解釈、修正に対する反対意見はないようです。そこで、本文の該当の記述を、

「もし情報源自身による情報が、他に存在する第三者によって公表された信頼できる情報と矛盾している場合は、その第三者の情報と共に記載されるべきです」

と修正する事を提案致します。それでは、賛成か反対か、または御意見をお待ちしています。--ユキポン 2009年2月1日 (日) 19:51 (UTC)

(反対よりコメント)本当に信頼できる情報(つまり、しっかり事実確認を行った上で出版・公表された情報)があるときに、それと矛盾する自己申告情報の追記を無条件に許す(少なくとも検証可能性の観点からは問題にしない)ということですよね?私としては、あまり賛成できないです。
というか、私としては、「信頼できる情報」および「矛盾している」について以下のような解釈をしているので(みなさんの解釈とは、おそらく少し違うかもしれません)、ユキポン さんがご提案のような規定の修正は特に必要ないと思っています。
  • 「信頼できる情報」: ある情報が信頼できるかどうかは、必ずしも類型的な基準によって一律に判断されるべきものではなく、個別・具体的な判断が必要。最終的な判断基準は、その情報源がしっかりした事実確認・検証を行っていると期待できるかどうか。白文鳥さんの例で言うと、「大手の新聞社」が重要な情報(例えば、出身地に関する本人の発言)の確認を怠っていると疑わなければならないなら、その「大手の新聞社」を(少なくとも、その特定の事項に関しては)「信頼できる情報源」とすることはできないことになる。
また、重要な追加情報が後から出てきた場合、その重要情報を考慮していない従来の情報は、信頼性を失う(または、信頼性が減少する)。このあたりは、学問が発展していく過程で、かつての通説(例えば「天動説」)が新説(例えば「地動説」)によって否定され、ついには「トンでも」になってしまうことがあることを想起すれば、分かりやすいと思う。
  • 「矛盾している」: 「○○氏は埼玉県出身。ただし、東京都出身とも言われる」には矛盾がある。「○○氏は埼玉県出身だが、本人は東京都出身を自称している」は、おそらく矛盾があるとは言えない。「○○氏は埼玉県出身だが、本人は、越境入学した中学・高校の所在地である東京都を出身地としている」まで言えるなら、誰がなんと言おうが絶対に矛盾はない。--Dwy 2009年2月3日 (火) 08:26 (UTC)
ええと、ユキポンさんが例示されていたノート:糸杉柾宏のような場合であれば、「しっかり事実確認を行う」というのは、しばしば「本人に確認する」だったりもしますし、本人がどのように主張しているかというのは、それ自体ひとつの情報です。この方針でも、「自主公表物やその他の信頼性に乏しい情報源でも、それらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます」となっているのですから、情報源として使用することは可能でしょう。先にも書きましたが、存命人物であれば、Wikipedia:存命人物の伝記#本人を情報源にする場合を参照しつつ、本人情報を主とし、むしろ、これに矛盾する第三者情報は十分な信頼性が求められるということになるでしょうか。いずれを主とするか、というところでは、それぞれの信頼性を個別に検討する必要があります。今の提案の文面では、原則として本人情報を主とすると読みがちかな、という不安はちょっとあります。本人情報で問題となりうるのは、女優さんのサバ読みで、公式ページと異なる年齢が他の情報源で得られたというような場合が想定されますが、こういう場合でも、信頼できる確固とした情報源があれば、プライバシーなどに及ぶことでなければ、矛盾する情報も書く事ができるという形で、本人のことを配慮しつつ、事実を追う姿勢を保つ事ができるというようになっているのだと思います。
ただし、本文の例[1]なんかだと、ユキポンさんが想定しているものとは異なるかもしれません。本文の例のような場合でも、まあいいのかなあ…。出所明示と、中立的な観点へのリンクを補うのがいいのかも。ちょっと文案までは思いつきませんし、簡潔にはまとめられそうにないですが。--Ks aka 98 2009年2月5日 (木) 17:59 (UTC)

色々と御意見ありがとうございます。Dwyさんの御意見についてですが、私自身は情報そのものではなく情報源が何であるかが問われるべきだと思うのですが。Wikipedia:検証可能性でも「検証可能かどうか」とは出典(信頼できる情報源)が明記されているかを重要視しています。信頼できる情報源による情報と矛盾する自己申告情報の追記を無条件で許すという訳でなく、その自己申告情報が記事の対象となる人物によるものであるという明確な出典が示された場合に限ります。Ks aka 98さんの御意見ですが、「いずれを主とするか」という懸念につきましては、先日の私の提案を「その第三者の情報と共に平等に記載されるべきです」と修正すれば良いかと思います。--ユキポン 2009年2月7日 (土) 16:44 (UTC)

記事の対象となる人物によるものであるという明確な出典が示せないなら、もはやそれは「自己申告情報」とは言えないわけで、「その自己申告情報が記事の対象となる人物によるものであるという明確な出典が示された場合に限ります」は、結局何の限定にもなっていません。ユキポン さんがおっしゃっているのは、「自己申告情報は無条件で追記可」ということでしかないと思います。
「信頼できる情報源」とは、充分な情報の確認・検証をしている情報源のことです。本当に信頼できる情報源は、自己申告情報があれば、当然それも調査・検討しているはずです。ですから、「信頼できる情報源」が自己申告情報と矛盾する記述をしているということは、充分調査・検討の上で「自己申告は嘘だ」という判断をしたということに他なりません。そういう情報の併記を許す提案には、私としてはやはり賛成できません。
もっとも私としては、上にも述べたように、「信頼できる情報源」というのが本当に信頼できるのかどうかや、信頼できる情報源の情報と自己申告情報が本当に矛盾しているのかどうかを厳密に判断していけば、実際に記述が許されなくなる自己申告情報の例はそんなに多くはないだろうと思っています。--Dwy 2009年2月7日 (土) 19:23 (UTC)

Dwyさんのお話を伺う限り、これ以上議論を続けても合意には至れそうにないので、前述のような本文記述の大幅な改訂は断念致します。では、本議題の冒頭に挙がった「第三者によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない限り」という一文ですが、冒頭に記載したような誤解を招かないために「第三者によって公表された信頼できる情報源が存在する場合は、その第三者の情報と矛盾していない限り」と変更したいと考えているのですが、いかがでしょうか?--ユキポン 2009年2月9日 (月) 20:12 (UTC)

ユキポンさんの上記ご提案に異議はありません。--Dwy 2009年2月10日 (火) 14:11 (UTC)

どなたも異議はないようでしたので、上記の提案通り本文を編集致しました。--ユキポン 2009年2月14日 (土) 05:54 (UTC)

「出典」を書き加える者が示した後、除去しようとする者にノートで「出典」を求めるのは不当か?[編集]

今、ノート:専修学校で、「出典」の示されない記述についての「出典」を求められている者です。  もちろん、私自身、検証可能で、中立性のある記事を求めて、「出典」を調べて来ました。 その数はどうやら15以上になったようです。 その正当性は、ノート:専修学校で議論中です。(議論の内容は、「専門学校は、大学より教育熱心」か?、と云うものです。)
ところで、議論の中で、「出典」を求めるあるふぁるふぁ氏に対し、私の方からも、こちらばかりに求めず、お互いノートの中で「『出典』を明記して反論されたほうが、『建設的議論』が出来るのでは?」と求めて来たのですが、Wikipedia:検証可能性の、「3.出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」を盾に、反論するための「出典」を一切調べるそぶりもありません。 書かれるのは、Wikipediaのガイダンスを挙げて、「『もしかしたら根拠があるかもしれない記述』を『現状では独自研究』と指摘して書き加えようとする方にだけ」と主張し続けています。
私も、「出典」のない、「独自研究」を本文に書くことにはもちろん強く反対しています。 そして、「検証可能」で、「中立性」ある記述に向かうように、「出典」を調べ続けてきました。  その上で、「反論の『出典』を、そちらの方もノートの議論で示して欲しい。」と相手に求めることは、間違った発言でしょうか?
ところで、あるふぁるふぁ氏は、あまり、「出典」を調べて自ら加筆して行くことはやっておられないようです[2]。(もちろん全く無いということはないでしょうが…)  こう云う方に、ノートの議論の中で「出典」を求めることは、Wikipedia:基本方針とガイドラインや、Wikipedia:検証可能性の方針に反するでしょうか?  議論して頂ければ幸いです。
私自身は、ノート:専修学校の議論を、外に持ち込みたくなかったのですが、あるふぁるふぁ氏が、「『出典を示す義務を負うのは書き加えようとする側だけか否か』を論じたいのであればWikipedia:検証可能性のノートがあります[3]」と、ここでの議論を提案されましたので、不本意ながらここに提案をさせて頂きました。
皆様の忌憚のない意見を聞きたく思っております。--山本山815 2009年2月5日 (木) 09:49 (UTC)--修正山本山815 2009年2月5日 (木) 10:16 (UTC)
除去する側に情報源を示す義務があるかないかといわれれば、義務はないという答えになります。なので、記述する側に対してのみ情報源を求めるのは(ルール上は)間違っていません。もちろん、その記述が間違っていることを示す情報源を見つけて反論できるのであればそうしたほうがいいのは確かです。しかし、一般に「間違っている」ことを示すのは難しいですし(c.f. 悪魔の証明)、山本山815さんのようにきちんと情報源を探し出して検証可能性を満たそうとする人ばかりならいいのですが、現実はそんなに甘くないのでそういう方針になっています。しかし一方で、「一緒にやってくれませんか」とお願いすること自体は悪いことではないですし、それを禁止する道理もありません。ただ、あくまで「お願い」なので、時間や体力が十分にあってやる気になれば受諾してくれるでしょうが、そうでなければ拒否されるのは仕方ありません。そもそも除去する側は「こんな記述は必要ない」or「調べても検証できない」と思っていて除去するわけですから、相手がやりたくないと言っているのであれば、きっぱりと諦めたほうがいいと思います(一般論として、ですけど)。--青子守歌会話/履歴 2009年2月5日 (木) 10:43 (UTC)
見たところあるふぁるふぁさんの主張は「○○という記述が間違っている」ではなく「○○という記述は出典がない」であるためにあるふぁるふぁさんは出典を示す必要がありませんし、そもそも示すべき出典が存在しえませんよね。--Personofedo(会話/履歴) 2009年2月5日 (木) 12:35 (UTC)
ごめんなさい議論の提案者です。 ここでは、個別のノート:専修学校や、あるふぁるふぁ氏についてではなく、それを踏まえた、少し一般化した議論が出来ればと思っています。  よろしくお願いいたします。 (個別の是非は、ノート:専修学校などで進めます。 ところで、Personofedoさんが言われた「出典」の件ですが、大学の教育熱心な取り組みを2-3示すだけでも<全ての大学が教育熱心ではない-ことはない>の「出典」になりますし、そこから「中立性」に向けた議論が深まる可能性があります。)--山本山815 2009年2月5日 (木) 13:57 (UTC) 
カッコの中にツッコミを入れて申し訳ないので、手短にコメントします。ご提案のように、ある出典と論理学の手法を組み合わせるかたちで山本山815さんの意見に反証を加えて記事に反映させるのは、Wikipedia:独自研究は載せない にある「合成」に引っ掛かりかねないと思います。感心しません。--Su-no-G 2009年2月5日 (木) 14:28 (UTC)
Su-no-Gさんも仰られているように出典を元に執筆者の考察を混ぜる行為はまさに独自研究ですのでそういった方向へ議論を導こうとすることは止めてください。--Web comic 2009年2月5日 (木) 14:34 (UTC)
拝読いたしましたが私も独自研究に関する問題だと考えます。Wikipediaは出典(典拠)主義なので、記事に記載された内容が一見矛盾していても、それぞれに信頼できる情報源があれば、それらを紹介する形で両論併記できるのが特徴です。この場合では「ある人(引用元)によれば大学はレジャーランドとある」「べつの人(引用元)によれば大学は教育熱心である」という形でしょうか。とくに前者は専修学校への進学を推奨する立場からの話題として記載される可能性がありますので、後者を脚注などで両論併記するのが宜しいかもしれません。Wikipediaの編集者は独自研究を「投稿できません」が、両論を読んで読者が独自に結論を得ることは自由である、というのがこの場合のポイントです。--ネコバット 2009年2月5日 (木) 15:16 (UTC)

山本山815さんの意図とは反するかもしれませんが、ひとつだけ余計なアドバイスをさせて下さい。山本山815さんは、「専門学校は、大学より教育熱心」という自らの主張をいったん忘れて、お集めになった15以上あるという資料をもう一度読み直してみてはいかがでしょう。その上で、そこに書かれている内容を忠実に記述するとすれば(山本山815さんの解釈を加えてはいけません)どのようなことが書けるかを検討なさるべきだと思います。私が見る限り、お集めになった資料のどこを見ても「専門学校は、大学より教育熱心」と言っているものは見当たりません(だからそれは書いてはいけません)。でも、例えば「能力・意欲が低い学生のせいで大学はレジャーセンターとなっている」とか「専門学校の生徒は意欲を持って入学しているので、専門学校はレジャーセンターになっていない」のようなことについては、裏づけとなる「出典」があるわけです(だから、そのような記述は充分可能です)。「専門学校は、大学より教育熱心」という表現にこだわらず、自分の分析や解釈を加えることもせず、集めた情報をそのままの内容で、上手に取捨選択して並べることだけ考えて下さい。そうすれば、(とりあえず検証可能性の観点からは)誰からも文句は出ないと思います。

蛇足ですが、「教育熱心」という表現は、いずれにしてもあまり良い表現ではないと思います。少なくとも私の感覚では、学生・生徒は教育される側であって、教育する側ではありませんから、学生・生徒の学習意欲について「教育熱心」という言葉を使うのは不適切だと思います。--Dwy 2009年2月5日 (木) 15:25 (UTC)

長いノート:専修学校に目を通し、さらに、冷静なコメントを書いてくださり本当にありがとうございます。 私も分かっているつもりでしたが、私のノートでの書き振りからだと、Su-no-GさんやWeb comicさん達が指摘される、Wikipedia:独自研究は載せないの「合成」の懸念について、大変良く理解できました。 ネコバットさんや、Dwyさんの言う、「出典」を踏まえた、両論併記・並列の記述についての提案も、これから、専修学校の記述に生かしたいと思います。
それを踏まえた上で、「『出典』を書き加える者が示した後、除去しようとする者にノートで『出典』を求める」ことについてはいかがでしょうか? 青子守歌さんによると、「お願い」をしてだめであれば、「きっぱりと諦めたほうがいい」と書かれていますが(それにしては、私のノートでの書き振りは配慮が欠けており、反省しきりですが…)、やはり、(もちろん、相当の編集する側の努力が前提ですが)編集する側が除去する側に「出典」を求めることは正当性を欠くでしょうか?  前提付きでも構いませんので、議論して頂ければ幸いです。  --山本山815 2009年2月5日 (木) 16:06 (UTC)  
その記述の内容にもよりますが、『出典』を書き加える者が示した後であれば、除去しようとする者にノートで『出典』を求めるのではなく、その出典の信頼性、記述との整合性、独自研究になっていないか、というようなことを話し合う事になるかと思います。ウィキペディアのような仕組みでは、一方は資料を持っていて方針類を理解していない、他方は方針を承知しているけれど資料は持っていないというような、捻じれの関係が生じることは多々あります。それぞれが、エチケットを守り、相手を信頼し、善意に受け取りつつ、必要に応じて説明したり、一方は書誌情報、関連する論文、その内容をまとめたような比較的容易に閲覧できるネット上での文章や入門書など、他方は方針文書や関連する過去の議論へのリンクなどを、それぞれに示すことができれば、そして示されたものを読んで理解しようと試み、まあ、方針くらいはクリックすればすぐに見つかるけど文献は読んでも分からないということもあるのですが、そういう場合は、内容については理解が及んでいないということを自覚しておけば、歩み寄りは、それほど難しくないと思います。実際のところ、それぞれが自分が至らない部分を持つことを自覚し、弁えや慎みを持って振る舞い、落ち着いて対話をすることや、自分自身が自明だと思っていることを他者に根拠を示しつつ論理立てて説明することは、すごく難しいことですが、そうしたことを理解し、試みようとしていれば、多少のことでは問題とはなりません。それぞれの参加者が少しずつでも、そのような方向でウィキペディアに接していただければ、穏当にウィキペディアが発展するというでしょう(まあ、そううまくはいかないですが)。--Ks aka 98 2009年2月5日 (木) 16:24 (UTC)
コメント はじめまして。Penn Stationと申します。私も青子守歌さんと同様の考えです。一般的に削除しようとしている人は検証可能性が満たせない(信頼できる情報源=出典がない、または見つけるのが困難)と思って削除しようとしているのでしょうから、その人に出典を求められても困ってしまうと思います。逆に言えば、検証可能性がないと思われる文章を削除するのに証拠(悪魔の証明)が必要、ということになってしまうと、自説(独自研究)の主張・発表の場としてWikipediaを利用しようとする人の書き込みを削除することもできなくなってしまいます。こうなるともはや百科事典とは呼べません。これらが「3.出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」の理由だと思います。削除しようとする人に協力を求めることが不当だとは思いませんが、協力を得られなかったとしてもそれはやむを得ないことでしょう。以上、ご納得いただけますでしょうか。--Penn Station 2009年2月5日 (木) 17:05 (UTC)
私の意見は先に述べた通りで、Penn Stationさんが補足してくださってるので、若干蛇足気味に。当たり前のことですが、すべてのウィキペディアンはボランティアです(財団関係者は例外)。なので、(ルール違反でなければ)基本的にはしたくないことはしなくていい(したいことだけすればよい)というのが原則だろうと思います。そういう観点から考えてみても、記述側には情報源を示さなければならないというルールがあるのでそれを守らなければなりませんが、除去側にはそういうルールはないので(少なくともルール上は)情報源を示したくないと思えばしなくてもいいわけです。何故そういうルールなのかと言うのはお分かりだろうと思うので置いておきますが、これが「お願いするのは間違ってないけれど、断られても仕方ない」という話につながります。また、これ以降は蛇足の蛇足で完全に個人解釈(でも多分そんなにずれてはないと思います)になるので聞き流してもらえばいいのですが、検証可能性に関する私の考えは利用者:青子守歌/情報つむぎに書いてあるとおりで、ウィキペディアンに求められるのはただただ発表された意見をまとめて分かりやすく説明するだけで、それ以上のことをすべきでないというものです。つまり、ある記述が検証可能であることを知らないor示せないのであれば、その記述は載せてはいけないということであって、ゆえに、情報源が示されておらず(少なくとも自分は)検証可能であることを示せないものを除去するのは積極的に行なっていくほうがいいと考えています(なので私は自分をexclusionistだと称しているのですが)。で、そういう立場からの意見としては、「除去する側も協力しろ!」と強く言うのはよくないことだと思っています。--青子守歌会話/履歴 2009年2月5日 (木) 20:30 (UTC)
ご意見ありがとうございます。 私も皆さんの言っていることはよく分かります。  ただ、経験上、編集を試みる者が「出典」を示しても、「それは、○○の説明には当たらない」 「一部であり、一般化出来ない」 「信頼のおける『出典』ではない」と次々に攻め込まれ、「話し合い」の状況は生まれにくくなっています。  そして、除去する側のその主張は、間違っている訳ではないので、さらに編集を試みようとするこちらが、「出典」を探し求めます。
もちろん、「信頼のおける出典」を探し出すのは簡単ではなく、時間と労力のいることですし、本文やノートに記載できる「信頼のおける出典」の何十倍(時には何百倍)の「その他の出典」に当たることになります。  もちろんインターネット上で不十分なら、関連する書籍を購入(実際今回も多数購入)したり、図書館に出向いて調べたりします。  やらなければならない労力だと思いながら、必ずしも「したいこと」とは一概に言えません
で、散々調べ尽くして、除去する側に報告すると、「『出典』ありがとうございます。」の記述で終わりです。 でなければ、上のことを繰り返すまでです。  一方、私が調べ回っている間の彼らの履歴を見ると、該当ページ以外を回って、同じような除去を繰り返しています。
私はちょっと違うんじゃないか?余りにも労力のバランスを欠いているのでは? と思うのですが、この点はいかがでしょうか?  こういうことが続くと、編集する気も失せて来るのですが、それでも、編集する側の相当の努力を前提にしても、除去する側に「出典」 (除去するためには根拠があるはずですが、それを示す「出典」、または、労力の分担の為にそのページに関連する項目を少しでも調べること) を求めることは「よくないこと」でしょうか?--山本山815 2009年2月6日 (金) 08:02 (UTC)
おっしゃるとおり信頼できる情報源を探すにはかなりの労力が必要です。普段何気なくやっている「当たり前だと思っていることを前提する」ことが出来なかったり「別々の情報から結論を得る」ということが出来ないわけですから、記述するために相当の時間と努力が必要になります。そしてまた、すごく努力して作業したのに、全然評価されなかったり文句を言われることも多々あります。また、既に述べられているように、事実否定の困難さ(悪魔の証明)や「載せていて問題になることはあるが、その逆は多くない」といったように、「載せること」と「載せないこと」は本質的に等価に扱えないものです。ゆえ、おっしゃるとおり、記述側と除去側の労力のバランスはとれていません(というかとれないのです)。ただ、我々が(ウィキペディアが)目指しているものは、誰かがその記事の質を保証するような類のものではないので、活動するということはすごく大変で、記述側と除去側が不公平で、しかも作業しても報われないことが分かっていても、それでもなおボランティアとして参加していこうとするだけの思いがないと、すぐにやる気を失ってしまうのは無理もないと思います(余談ですが、「もっと報われるようにしようよ!」という企画の1つがWikipedia:月間感謝賞だと思っています)。「協力して質の高い百科事典を作る」というのはそれぐらい大変で、並大抵の努力で出来るものではないのです(だからこそ市販の百科事典はそれに見合うだけの対価=代金を要求しているわけです)。--青子守歌会話/履歴 2009年2月6日 (金) 11:26 (UTC)
「不平等」ということではないでしょうし、「並大抵の努力で出来るものではない」ということもないはずです。各項目を編集する上でその項目を充実させようという考えに基けば、出典はあるが記載されていない事項など多々あるはずで、そちらを率先して記載するのであればそれほどの努力や不平等など感じずに充実した項目を構築できるはずです。それが何らかの考えを推進しようとか自分の意見を主張しようとなるからその出典を探すはめになり、その主張や考えが主流でない場合などに出典探しに苦労する、ということではないのでしょうか?
そもそも山本山815氏がいくつも提示している出典は出典足りえないということで却下され、別の出典を探しているということと読めましたが(除去する側のその主張は、間違っている訳ではないと山本山815氏がご自分で書かれていることより)、出典でないものをいくら提示されても受け入れることができないのは当然と思われますが。出典にもならないものが物量だけあっても、当然出典の合成はできないので意味を成すはずもなく、出典でないものを何度も何度も繰り出されれば、そりゃご苦労さんとなるのはいたし方がないのでは。逆にその出典に論拠があるのなら、それを議論し疑問点や考え違いなどを払拭すればよいだけのはずです。--ちぇす 2009年2月7日 (土) 13:54 (UTC)
ご意見ありがとうございます。 誤解がなければ良いのですが、もちろん「主張や考えが主流でない」とは考えていないので、「出典」を探している訳です。 その是非は、ノート:専修学校を見て判断して下されば幸いです。  さらに、次々に編集する側が追い込まれ、「議論」や、「話し合い」をする環境に多くの場合なっていないというのが、経験上のことなのですが、その点はいかがでしょうか?--山本山815 2009年2月7日 (土) 14:51 (UTC)
「出典を探している」とはまだ見つかっていない、つまり出典をまだ提示していない状態ということかと思いますが、であればまだ議論の前段階なのではないでしょうか?出典提示前なら、議論といっても「こういう主張が主流である」「それ本当か?」ぐらいしかできないのでは。また出典ではないとして却下されたというその出典提示過程も、「議論」や「話し合い」の上で却下されたのではないですか(最初の却下理由が示されて反論しなかったというのも議論のうちでしょう)?議論(理由提示)もなく却下ならば単純に理由を問い、答えなければその行動に対して咎めることもできるでしょうが、そうでないのなら既に出典の正当性という観点で編集に関して議論をなさっているのでは。--ちぇす 2009年2月7日 (土) 16:45 (UTC)
提案があるのですが、Wikipedia:検証可能性#情報源/ソース<出典を示す責任は掲載を希望する側に>の項目の中に、
  • 「執筆者は、信頼のおける出典を明記する責任があります。 もし、新たな信頼のおける出典が示されても、執筆者の編集内容に合っていなければ、除去する側が、その出典通りの編集を提案することも重要になるでしょう。」
という一文を入れてはいかがでしょうか?  この一文を入れるだけで、相当Wikipediaの景色が変わると思うのですが、いかがでしょうか?--山本山815 2009年2月7日 (土) 15:48 (UTC)
編集内容に合っていない信頼のおける出典とはなんでしょうかね。出典とは編集内容の検証を可能にするためのものではないのでしょうか?。どんなに信頼性がある文書でも該当文言の検証を可能にするものでなければ、それは単に信頼性のある無関係な文なのでは(参考資料として文末に掲載することは有意でしょう)。この提案は削除するならその無関係の文に合ったような項目を新規作成せよということでしょうか?もしそうならそれが検証可能性とどのような関係があるのでしょうか。--ちぇす 2009年2月7日 (土) 16:26 (UTC)
それは乙という出典に「AはBである」と書かれているが、「AはCである」というような無関係な内容に出典は乙と書かれていた場合、乙という出典にはそんなこと書かれていないとするのではなく、乙には「AはBである」と書かれているのでそう記述しましょうと提案するべきということでしょうか。--春日椿 2009年2月20日 (金) 12:37 (UTC)

国会議事録の出典能力について[編集]

徴兵制度のノートにおいて、国会における国会議員の発言を出典として示す編集者がいます。ところで、「自主公表された出版物」は出典として認められないと規定されており、個人のブログや自費出版の書籍の記述を根拠に編集を行ってはならないというのがWikipediaの編集方針となっています。このことを考えると、国会での発言というのは査読などを受けていない議員の個人的意見に過ぎないわけで、個人ブログの書き込みと何ら変わり無いと思われます。「国会議事録」の出典能力に関して今のところ明確な規定が無いので、出典能力の有無を結論付けて、はっきり明記して欲しいです。--RevolutionaryMasculist 2009年2月12日 (木) 07:39 (UTC)

「自主公表された出版物」が全部が全部はウィキペディアにおける情報源として認められないということはではありません。場合によっては使用可能な場合もあります(どういうケースかというのは、その分野・記事ごとに変わってきますが)。どういう使い方をしてるのか見てないので分かりませんが、その議事録を元にして「これについて、○○○○は×××××と国会で発言した」と書くことは可能です。もちろん、議事録という一次情報源よりも二次情報源のほうがいいのは確かですが、国会議事録が情報源として認められると考えてよいでしょう(もしダメだった場合、政府機関が「自主公表」した報告書なりが全部使えないことになります)。--青子守歌会話/履歴 2009年2月12日 (木) 07:52 (UTC)
誰がどういうことを言ったか、というようなことについては、じゅうぶん典拠となります。ただし、そこで述べられていること、その内容に含まれる事柄などは、検証を受けていない個人の見解であって、それを信頼できる情報源として用いることは好ましくないでしょう。たとえば、第52回帝國議会における大蔵大臣の片岡直温の発言を根拠に「東京渡辺銀行は1927年(昭和2年)3月14日の時点で破綻していた」ということを事実として書くべきではなく、「1927年(昭和2年)3月14日の第52回帝國議会において大蔵大臣の片岡直温は東京渡辺銀行が破綻していると述べた」と書くことはできる。--Ks aka 98 2009年2月12日 (木) 09:07 (UTC)

詳細は「徴兵制度」のノートを参照して欲しいのですが、以下に議論の概略を記載します。議論となっているのは、「第二次大戦中に日本で女性に対する徴兵があったかどうか」、という問題についてです。ある編集者が、国会議事録検索システムをを使って「第112回参議院社会労働委員会」における山本正和議員の発言を探し出してきて、「大戦末期に女性が徴兵された」という出典にしているのです。「山本正和」の項目で「山本正和は、第112回参議院社会労働委員会において、『大戦末期に女性が徴兵された』と述べている」と記載するのなら出典として問題はないと思うのですが、「徴兵制度」の項目で一国会議員の発言を「女性が徴兵された」との根拠にするのは読者の認識を誤らせるおそれがあり、百科事典として不適切ではないのかと感じています(一般的には、「兵役・徴兵は男子だけに強制されていた」という見解が広く定説になっている)。ノートで議論したのですが平行線なので、こちらで意見を聞きたいと思います。--RevolutionaryMasculist 2009年2月12日 (木) 11:27 (UTC)

Ks aka 98さんのご意見のとおりですので、RevolutionaryMasculistさんの認識で間違いないと思います。--ろう(Law soma) D C 2009年2月13日 (金) 07:30 (UTC)
??? Ks aka 98さんのご意見のとおりなら、少なくともRevolutionaryMasculistさんの認識で間違いないということはないのではないですかね。--123.230.24.158 2009年2月13日 (金) 16:48 (UTC)

ええと、単発IPさんにへんに反論されると気持ちわるいのでいちおうわたしのIPをさらしておきますね。--ネコバット 2009年2月13日 (金) 17:51 (UTC)これね。--114.190.57.164 2009年2月13日 (金) 17:52 (UTC)といってもIPなんかいくらでも変えられるよね。( ´_ゝ`) --ネコバット 2009年2月13日 (金) 18:02 (UTC)

ノート:徴兵制度で議論されている入江政府委員は、当時の「厚生省援護局長」[4]でもあります。 政府委員の彼の発言は(少なくとも当時の)「政府(日本国家)の見解」となります。
「憲法第六十三条において、内閣総理大臣その他の国務大臣は、議院で答弁又は説明のため出席を求められたときは出席しなければならないとされており、これは、国会において誠実に答弁する責任を負っていることを前提としていると認識している。」(第169国会質問主意書227号に対する政府答弁書)と政府も答弁書を出しています。 「誠実」とは、「偽りがなく、まじめなこと」(「大辞林」三省堂)ですが、「国権の最高機関」の国会(憲法41条)で、「誠実(偽りなし)に答弁する責任」の下に政府から出された見解がどういう意味を持つかは、言うまでもないと思われます。
(政府委員は、国務大臣の補佐なので念のため(国会法69条))--山本山815 2009年2月13日 (金) 23:33 (UTC)
国会議員の国会での質疑については、(憲法51条で、「両議員の議員は、議院で行つた演説、討論又は評決について、院外で責任は問はれない」 とされていますが)  「院内の秩序を乱した議員を懲罰することができる」(憲法58条第2項)とあり、虚偽の質疑をした議員の懲罰が過去に行われ(永田議員の懲罰動議開始)(規定は国会法121-124条) 、その議員は議員辞職に追い込まれています。(永田議員は今年自殺) 
また、国会の代表質問によって「受託収賄」に問われた事件もありました。(村上正邦元労相に実刑
常識的に考えて、国会での質疑や質問が「個人ブログの書き込みと何ら変わり無い」と云うのは、相当的が外れた見解と言わざるを得ません。--山本山815 2009年2月14日 (土) 01:52 (UTC)--訂正山本山815 2009年2月14日 (土) 02:49 (UTC)

まず、議論となっている国会議員の発言ですが、これは「山本正和参議院議員」と「入江政府委員」の2人の人物が登場しています(徴兵制度のノートを参照)。入江委員は「第二次大戦敗戦前に義勇兵役法が女子にも適用された」と国会で答弁しています。そして、山本議員は「義勇兵役法は徴兵だ」との発言を行っています。この二つの発言を恣意的に合成して、「第二次大戦末期に女子も徴兵された」という論理を作り出すことは、独自研究に相当します(「義勇兵役法=徴兵」という出典が無い限り記載は出来ない)。従って、この国会議事録を出典として徴兵制度の項目に「第二次大戦下において、女子の徴兵があった」と記述することは不適切な使用法であると思います(山本議員、入江委員の項目で、彼らが「国会で~~と発言した」と記載する場合は問題ありませんが・・・)。ここで注意するべきは、山本議員は政府委員ではありませんので、政府の公式見解ではなく、個人の独自見解に過ぎません。その意味で、「(査読を受けていない)個人ブログの発言と変わりない」と指摘しました。政府委員の入江委員が述べた「義勇兵役法は女子にも適用された」との発言は、「義勇兵役法」の項目で書く際の出典としては適当でしょう。なお、永田議員の辞職は個人の自由意志によるもので、国会の懲罰による強制ではありません。基本的に国会は、院内での発言は自由であり、どんな見解を述べても責任を追求されることはありません(従って、様々な雑多な根拠の無い発言もなされる)。--RevolutionaryMasculist 2009年2月14日 (土) 15:29 (UTC)

良く分かってらっしゃらないようですが、永田議員の懲罰の対象は虚偽の質疑に対してです。 ((参考)戦後の衆議院懲罰例<衆議院事務局資料>) RevolutionaryMasculistさんは、いつも議論をずらして相手の話を受け入れようとしていませんが、国会での質疑や質問が「個人ブログの書き込みと何ら変わり無い」と云うのは、相当的が外れた見解であることに変わりはありません。 よく文章をお読みください。 「基本的に国会は、院内での発言は自由であり、どんな見解を述べても責任を追求されることはありません」と云う見解は、院内の懲罰があるため全く間違っています
ノート:徴兵制度で、ネコバットさんは、「合成」の意図はありません。 相手の発言を捻じ曲げて紹介されるのはやめて頂けないでしょうか?
信頼のおける「出典」があるのであれば、その記述を排除することは出来ません。 Wikipediaでは、「ある記述を百科事典向きにあつらえる簡単な方法は、ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書くこと」 「ウィキペディアの中立性についての方針は、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない、というもの」(Wikipedia:中立的な観点)という方針を掲げています。  あなたの主張は、どう見ても「中立的」とは言えません。  もう少しご自身が何を主張しているかをよく考えてから発言されることをお勧めします。--山本山815 2009年2月14日 (土) 16:04 (UTC)--追記山本山815 2009年2月14日 (土) 16:14 (UTC) --追記2山本山815 2009年2月14日 (土) 16:36 (UTC)

まず、永田議員の辞職は懲罰によるものではありません。逮捕されて辞職勧告決議案が可決されても、辞職しない議員はいくらでもいます。それから、「個人ブログの書き込みと同じ」というのは「査読を受けていない」という点においてです。従って、政府の公式見解(政府委員)ではない、一国会議員の国会における発言は信頼できる情報源ではありませんので、Wikipediaにおける出典としては不適切だということになります。例えば、「南京大虐殺の有無」「従軍慰安婦の有無」に関して国会で議論がなされた場合、「南京大虐殺(あるいは、従軍慰安婦)は存在した」と主張する議員もいれば、「いや、存在しなかった」と発言する議員もいることでしょう。仮に政府委員が政府の公式見解として「存在した」と発言した場合、これはWikipediaで「政府は公式見解として『存在した』と認定している」と記述できますが、ある議員が「南京大虐殺(従軍慰安婦)など存在しなかった」と発言したからといって、それを根拠にWikipediaの「南京大虐殺」「従軍慰安婦」の項目で「南京大虐殺(従軍慰安婦)は存在しなかった」と記述は出来ないはずです。ただし、「○○議員は、国会で『南京大虐殺(従軍慰安婦)は存在しなかった』と述べている」と書くことは問題ありません。義勇兵役法に関する入江政府委員及び山本議員の発言を根拠として、「入江委員は『義勇兵役法は女子にも適用された』と述べている」「義勇兵役法」の項目で書くのなら問題はありません。そして、「山本議員は『義勇兵役法は徴兵だ』と述べている」「義勇兵役法」の項目で記載するのは問題ありません。しかし、徴兵制度」の項目で、この2人の発言を合成して「第二次大戦末期に女子が徴兵された」という論理を組み立てて記述することは独自研究となります。もし、記述するのならば、「第二次大戦末期に女子も徴兵された」とダイレクトに記述している出典を提示する必要があります。--RevolutionaryMasculist 2009年2月14日 (土) 21:35 (UTC)

証拠能力(検証可能性)と真実性を混同していますね。たとえ真実ではない言説であっても、その言説が検証可能であれば証拠能力は認められます。Wikipediaに重要なのは検証可能性であって、その言説が真実であるかどうかではありません。国会議事録の出典能力を否定されるのであれば、いったいどのような客観的資料(資材)をもって出典能力があるとおっしゃるのかお伺いしたいですね。ええ、ぜひとも。--ネコバット 2009年2月14日 (土) 22:10 (UTC)【「徴兵制度」の項目で、この2人の発言を合成して「第二次大戦末期に女子が徴兵された」という論理を組み立てて記述することは独自研究】となりますが、そのような本文記述はそもそも存在しませんので、貴殿の仮説(「徴兵制度」の項目で、この2人の発言を合成して「第二次大戦末期に女子が徴兵された」という論理を組み立てて記述することは独自研究となります)には現実的な対象記述が存在しません。架空の議論に対して批判をおこなうことで論争対象者を批判しているかのように装う詭弁はストローマンと申します。ご理解いただけませんでしょうか--ネコバット 2009年2月14日 (土) 22:19 (UTC)
おかしなことですが、RevolutionaryMasculistさんは、この場で『「国会議事録」の出典能力』についての議論を提案しておきながら、 『「個人ブログの書き込みと同じ」というのは「査読を受けていない」という点においてです。従って、政府の公式見解(政府委員)ではない、一国会議員の国会における発言は信頼できる情報源ではありませんので、Wikipediaにおける出典としては不適切だということになります。』と、 様々な意見が出ている中で、勝手に結論を決めつけています。 一体これはどういうことでしょうか? 完全に議論を放棄しています。
RevolutionaryMasculistさんは、私の理解では個人の主張を繰り返すだけで、合意に向けた努力(Wikipedia:論争の解決)が欠けているように思われます。 また、ガイドラインの理解に偏りがあるようにも思われます。  このままですと、RevolutionaryMasculistさん個人の問題に還元せざるを得なくなります。 今一度冷静な態度で合意に向けた努力をされることを願っております。 --山本山815 2009年2月15日 (日) 00:11 (UTC)

元々、「徴兵制度」の項目における記述を巡って、ある編集者と論争になっていました。具体的には、「第二次大戦末期の日本において女子が徴兵されたかどうか」に関してです。その論争の最中、ノートにおいて、「『国会議事録の出典能力』について『検証可能性』のノートで議論するように」と誘導されて、節を立てたという経緯があります。ただ、よく考えると問題点は「国会議事録の出典能力」云々よりも、「『徴兵制度』という項目において『義勇兵役法』について記述することが適当なのかどうか」、という点にあると気付き始めました。従って、「検証可能性」のノートにおいて、これ以上、「国会議事録の出典能力」について議論する必要性はないと考えています。これまでの議論で出された意見を見たところ、「○○議員は、国会で~~と述べた」という形で書くことは問題ないという認識では一致していると思いますので、結論は出ており、議論は終結で良いと感じています。一応、「個人ブログも国会での議員の発言も『査読』と受けていない点では同じである」とは考えていますが、上の議論の中で出されてきた意見を見たところ、国会議事録を出典として「○○は存在した」と記述するのは不適切であるが、「~~議員は、国会で『○○は存在した』と述べている」という風に書くのは問題がない、という点は殆ど認識が一致し、合意に至っていると感じます。あと、「ストローマン」なる詭弁の一種だとの指摘を受けていますが、訂正します。「徴兵制度」の項目で、「第二次大戦末期の日本で女子が徴兵された」という記述はありません。正しくは「第二次大戦末期の日本で女子が義勇兵役法の対象とされた」というものでした。しかし、「義勇兵役法の対象」との記述を「徴兵制度」の項目で書くことにより、「女子も徴兵された」誤解を読者に与えるおそれがあるという点では記述が不適当であり、削除するべきだと感じておりました。そういう意味で、「事実上、『女子も徴兵された』という印象を読者に与える点が問題だということ」が上で言いたかったことです。いずれにせよ、これ以上、この「検証可能性」のノートで議論するべき案件はないと思います(国会議事録は査読を受けてはいないが、「某議員は~~と発言した」という風に書く場合は出典として問題ないということで一定の結論が出ている)ので、ここで議論の終結で構いません。--RevolutionaryMasculist 2009年2月15日 (日) 01:13 (UTC)

記事の中身については、ノートで議論してください。方針の内容については、ここでRevolutionaryMasculistさんが書かれていることで、問題がないと思います。--Ks aka 98 2009年2月15日 (日) 06:52 (UTC)

結局、検証可能で「信頼性のある」出典があろうと無かろうと、私が知りたい事実は、『女子も徴兵された』のかどうかということですが、本当のところどっちなのでしょうか。  いつも思うんですが、読者が知りたいのは結局そこのところであって、ウィキペディアが出典とか検証可能性とかをあまりにも強調しているのは、内容に対する単なる責任逃れに過ぎないような気がします。新聞なんてのも内容の真実性は全く無いことは周知ですから。形式上にせよ著作権は執筆者にあるとしているのだから、内容についてもある程度のところは執筆者に任せるべきではないか、と思うこのごろです。信頼ある論文からの出典だけをつまみ食いしてつなぎ合わせて執筆しても、どのような内容にも作れてしまいますが、一応ウィキペディアは辞典なんですから。--寂華 2009年2月15日 (日) 13:39 (UTC)

適切に引用している限り国会議事録の出典能力(検証可能性)について、Wikipediaとして問題はない、との結論で宜しいでしょうか。「第二次大戦中の女性兵士」に関する記述についての議論はノート:徴兵制度で行うことでお願い申し上げます。--ネコバット 2009年2月15日 (日) 15:10 (UTC)
国会議事録の出典・検証可能性についてWikipediaとして問題ない、に賛成です。--寂華 2009年2月15日 (日) 21:22 (UTC)
誰がどういうことを言ったか、というようなことについては、じゅうぶん典拠となります。ただし、そこで述べられていること、その内容に含まれる事柄などは、検証を受けていない個人の見解であって、それを信頼できる情報源として用いることは好ましくないでしょう。事実を検証する作業は、近現代史の研究者の仕事であって、国会議員の仕事ではありません。信頼できる情報源からなら、何をどう書いてもいいというものではありませんし、信頼できるものと信頼できないものに二分されるわけでもありません。情報源の信頼性が担保している内容、範囲などを斟酌して、これを記述に反映させるようお願いします。独自研究に陥らず、[[[WP:POV|中立的な観点]]を保つことも、必要ですので、両方針もご確認ください。寂華さんの表現を借りますが、「『女子も徴兵された』のかどうか」ということが、事実として明らかになっているのであれば、検証可能で「信頼性のある」出典に掲載されているはずですから、それを探してください。もしよかったら、その出典をあわせて、ウィキペディアに加筆していただけると、読者も喜ぶと思います。--Ks aka 98 2009年2月16日 (月) 02:59 (UTC)
上記の「その出典をあわせて、ウィキペディアに加筆していただけると、読者も喜ぶと思います」は、そのとおりですね。いくら執筆者側に出典を書く義務があるといっても、要出典を貼り付ける人は知識があるのでしょうから、自分でも調べて加筆して立派な記事にする方がどれだけマシか。あ、場違いなコメントで失礼しました。--寂華 2009年2月16日 (月) 13:37 (UTC)
はい。場違いですが、ちょっとだけお付き合いをします。要出典を貼る人に対しては、執筆者への配慮こそ必要でしょうが、その記事、記述に関する知識があるとは限りません。要出典を貼る方には、何らかの理由で出典を示さないまま書いている執筆者に、出典の明示を促し、必要に応じてなぜそれが必要なのかを説明することが期待されます。--Ks aka 98 2009年2月16日 (月) 14:38 (UTC)
再度場違いですが。「なぜそれが必要なのかを説明することが期待されます」のとおりであって、「説明することが要求されます」と居丈高に思っている審査員気取りの手合いが最近は多いですね。記述に関する知識がないのに出典不備を理由に削除したがる人は、ウィキペディアにはみっともない貧弱書きかけ記事がまだまだ多いので、もっと自分自身で記事を追加充実することに注力してほしいと思うこの頃です。失礼しました。--寂華 2009年2月16日 (月) 22:52 (UTC)

Ks aka 98さんを含めて、ここで合意された内容は以下の通りでよろしいでしょうか?

  1. 議会が編纂した国会の議事録は、信頼のおける「出典」となる。
  2. 国会の議事録の、総理・国務大臣・政府委員の発言は、当時の「政府見解」である。
  3. 国会の議事録の議員(参考人)の発言は、「○○議員(参考人)が、××と国会で発言している」と本文に記載できる。

--山本山815 2009年2月16日 (月) 08:10 (UTC)

2については、発言者の意見である場合もありますので慎重に判断する必要があると思います。通常は「政府の見解を問いたい」趣旨に対する回答として発言されたものが政府見解(official view)だと考えます。検索をかけますと複数の回次や委員会で同じ趣旨の説明が政府委員や国務大臣から解説される場合があり、あるいは明示的に「政府の見解である」と述べている場所についてはWikipedia上で「政府見解」と紹介しても良さそうですが、それ以外については「政府委員の回答」「大臣の回答」と紹介したほうが無難かもしれません。そもそも"議事録に採録されている"以上、"法令文書化されていない"以下であるところの「政府見解」という概念があまりはっきりしないということもあります。省内文書などは当然に存在するんでしょうがこれは検証困難・不可能な部類ですし・・--ネコバット 2009年2月16日 (月) 09:54 (UTC)
3 に関する限り 1 である、というだけです。2 に関する合意はこの場にはありません。- NEON 2009年2月16日 (月) 10:09 (UTC)
微妙ですが。
  • 1)について、議会が編纂した国会の議事録は、議事の記録として(ひとまずは)信頼のおける「出典」となる。
  • 2)については、検証可能性の方針に関わるものではないため、判断しません。
  • 3)そのように本文に記載してもよいです。記述できることを、本方針が保証するものではありません。項目の中での必要性や重要性から、記載しなくてもいいですし、他の情報源を探すことも必要です。
と、ちょこっと修正させてください。--Ks aka 98 2009年2月16日 (月) 10:37 (UTC)
少しこだわるのですが、「仮に政府委員が政府の公式見解として「存在した」と発言した場合、これはWikipediaで「政府は公式見解として『存在した』と認定している」と記述できます」と、この議題の提案者のRevolutionaryMasculistさんも2.に関して合意しています。
例えば最近、内閣法制局長官(政府委員)が政教分離について、「衆議院予算委員会」での発言が、「誤解を与え、従来の政府見解を変更したと受け取られかねない」として撤回する異例の答弁書を決定しました[5]。  つまり、国会での政府(総理・国務大臣・それを補佐する政府委員)の発言は、(個人的見解であることを断った場合を除いて)そのまま政府見解となり得るということです。
ノート:徴兵制度でも問題になっていますので、合意が得られていないのであれば、もう少し皆さんの意見を伺いたいのですがいかがでしょうか?--山本山815 2009年2月16日 (月) 16:01 (UTC)--修正山本山815 2009年2月16日 (月) 16:06 (UTC)
検証可能性の方針に関わるものではないため、ここで合意すべき事柄ではないと考えます。当時の内閣の構成や、象徴との関係、質問などの流れ、国会外部での動向、事後の関係者の発言など、考慮すべき点は多々あると思います。たとえば、まさに例に挙げていらっしゃるような「誤解を与え、従来の政府見解を変更したと受け取られかねない」とされるような発言が、議事録に残っているのかもしれません。そういう、記事の内容に関る判断は、記事のノートや関連するプロジェクトなど、その内容について知識がある方々の間で資料や事例を挙げながら判断していただくのがよいと思います。そうでなければ、コメント依頼を活用してください。--Ks aka 98 2009年2月16日 (月) 17:48 (UTC)

主旨への追記[編集]

Wikipedia:井戸端での議論を参考に、「この文書の主旨」のところに「協議を行い」の句を挿入してみました。--寂華 2009年3月9日 (月) 22:18 (UTC)

差し戻しました。検証可能性は公式な方針の一つです。井戸端会議を反映させないで下さい。そもそも井戸端の議論で結論らしきものが出ていません。手を入れるならば、どの箇所をどのように変更するのかを具体的にこのノートで提案し、この場で合意を形成して下さい。なお本件に限らず、安易な方針の改変は控えて下さい。- NEON 2009年3月10日 (火) 01:36 (UTC)

検証可能性のタグへの文追加について[編集]

検証可能性に関して要出典ので種々のトラブルが生じており、これは議論無し削除が問題になっていると思います。Wikipedia:井戸端でも議論されていますが、この問題は、検証可能性に貼られているタグ「この文章の要旨」に、「協議を行い」の句を挿入することで、大部分が解決するものと思います。すなわち、

「「この文書の要旨: ウィキペディアに掲載される情報は信頼できるものでなければいけません。あらかじめ信頼できる情報源から公表、出版されている事実、視点、理論及び議論だけを収録してください。記事は可能なかぎり情報源を明記すべきです。情報源が明らかでない内容は、異議を述べて協議を行い、取り除くことができます。」」

以上のような文にすることを提案し、このノートでの合意形成を求めます。 なお、この句挿入はタグのみであり、本文はもとのままであることを申し添えます。--寂華 2009年3月10日 (火) 11:07 (UTC)

  • (反対)井戸端でも何の合意も結論も出てないようなのですが、違いますか? 今このタイミングでガイドラインを緩める意味がわかりませんし、三大方針は軽々しく弄るもんでもないでしょう。--fromm 2009年3月10日 (火) 12:59 (UTC)
  • 「協議をおこない取り除ける」にすると従来の趣旨を完全に否定することになるので論外ですね。検証可能性を満たさない記事を除去させない口実に使用されるのが明白で、もとから検証可能性を満たさない記述は誰でも除去できるとするタテマエのほうが原則だったはず。--ネコバット 2009年3月10日 (火) 16:36 (UTC)
  • (反対)井戸端のどこで議論されているのかよく分かりませんが、frommさんが言われるように三大方針を変更することは大変重く、もし変更するのであればjawpのみでの議論だけでは不十分だという意見があってもおかしくありません。例えば本文中に「除去時に何らかのフォローをしたほうがよいと考えられています」ぐらいを書き加えるならまだいいとは思いますが・・・。そもそも本文中にない記述が「要旨」にあるのはおかしいと思うのですがどうでしょうか?--青子守歌会話/履歴 2009年3月10日 (火) 16:50 (UTC)
  • (コメント)なかなか皆さん手厳しいですね。要出典タグを貼って議論無しに削除するのが原則なのでしょうか。--寂華 2009年3月10日 (火) 17:18 (UTC)
  • 原則はそうですね。実際は「正確そうだが出典情報がない記事」「あきらかに自分の記憶と合致するが出典情報がない記事」は放置されることでかろうじて議論なしの削除を回避しているようですが。このあたりは運用上の機微だとおもいます(Wikipediaの記事の大半は作成中という発想)。要出典削除荒らしに対抗するには出典の明記しかないというのは(有益な百科事典を目指す立場として)原則だと思います。--ネコバット 2009年3月10日 (火) 17:33 (UTC)WIkipediaを情報源にするのはまだしも、Wikipediaが情報源だとするのはおそろしく胡散臭い(Wikipedia:独自研究は載せない)ということもあります--ネコバット 2009年3月10日 (火) 17:35 (UTC)
  • Wikipediaの執筆者は基本的に素人ですから、議論の拠り所になる確かな資料がないところでいきなり議論を始めても、百科事典の編集に使えるような結論は期待できません。素人同士が自分の意見をぶつけ合っても、不毛な議論が続くだけです。ですから、議論の拠り所になるべき「出典」がない段階では、議論を始めるべきではありません。議論をするなら、まず出典を出してもらった上で、「その出典が信頼できるか」とか「出典の記述と記事の内容がマッチしているか」とかを議論すべきです。--Dwy 2009年3月10日 (火) 22:25 (UTC)
  • (脇筋コメント)前から気になっていたんですがDwyさんなんかの「Wikipediaの執筆者は基本的に素人」という言い方にはもう少し気を使った方が良いと思うのですけどね。確かに、素人が集まってぐだぐだやって出来た記事も多いでしょう。でも実際の執筆者にはその分野の玄人もいるし、半分専門家みたいな人も混じっています。ただ、Wikiプロジェクトの性格上、玄人も素人と同じ権限で参加しているに過ぎません。そしてWikipediaがこだわる出典主義は、素人集団を前提にした方法論というよりは、文献に通じたそれなりの編集者に執筆させるためのものと考えることもできます。どれだけ文献に通じているかで編集者たちを競わせる訳です。
「その記述に典拠はあるのか」「それは信頼できる文献なのか」そういう議論を通してWikipediの記事は練り上げていくべきものだし、そうした議論ができるコミュニティを作っておく必要があります。理想を書けば、同じ記事に手を出そうとする編集者間で、どこまで基本的知識を共有しているのかある程度は把握して、その記事の当面の編集目標を確認する(文献が揃った完璧な記事にするのか、ある程度骨格だけを作って細部は後進の編集者に委ねるのか、スタブで置いておくのかetc.)ことはやっていただきたいのです。
ところが「あんたらは、しょせん素人。悔しかったら文献を出してみな」みたいな態度で「要出典」タグをルーチン的に貼り付けて回る編集者が実際にいらっしゃる訳です。しかも「ルール通りにやっているだけだろ。何が悪い」と開き直ったりもされます。そういうのって、編集コミュニティを作るという観点からは相当にネガティブですよね。おそらく、コミュニティを構築することには興味が無いのでしょう。記事の内容についても本当の意味で興味が無くて、ルールを盾にした権限行使やら攻防戦が楽しいだけなんじゃないでしょうか。で、「基本的に素人」という敬意を欠いた言い方は、ある種の人々にそういうネガティブな態度を正当化させるんですよ。
確かに、聞きかじっただけの断片的な知識で書かれた素人談義の寄せ集めみたいな記事もまだまだ多いですし、そういうのは読んでいて苛々します。だからといって「要出典」タグをルーチンで付けて回っても、「素人」編集者を逆上させるだけじゃないですか。そんなふうにキレた素人相手にルールを解説をして得意がるコドモみたいな真似は止めて欲しいなと思います。そういうことばかりに専念する編集者はその卑しい態度で他のWikipedianから見下される傾向があるようですと、どこかに書いておくのも良いんじゃないかと半ば本気で考えたこともありますが、、、こういう嫌味な文章は採択されないだろうな。
最後になりますが、Wikipediaの根幹をなす方針ですから、寂華さんにはもっと慎重に取り組んでいただきたいと思いました。--おーた 2009年3月11日 (水) 14:41 (UTC)
実際に執筆している人たちで、素人&毛の生えた人たちに向かって「あなたたちは素人なんですから」と戒めるのは良いことですし、専門家の人に「ここでは素人と同列に扱わざるを得ないので出典とか細かく出してくださいね」とか言うのはまったく問題ないと思うんですよ。ただ、記事編集に建設的に関わる能力もその気も無いのに、浅い考えで削除やら要出典タグを貼りまくるような人たちには「書いている人たちは所詮素人」という言葉は、逆に働くんだということを考えて欲しいということです。--おーた 2009年3月12日 (木) 14:42 (UTC)
私のことを言われているのであれば、たいていの場合は「(ジンボさんも言うように)僕たちWikipediaの執筆者はみんな所詮素人ですから」のニュアンスで発言しているはずで、「あなたたちは素人なんですから」みたいな言い方はしていないつもりです。ただ、ルールに従って出典要求をする人に対して「基本的な知識もないくせに記事に手を出すな」と大変失礼な評価を下す方々には、「そういうあなたたちだって所詮は(Wikipediaのルールの上では僕らと同じ)素人ではないですか?」とお返ししているだけです。
ついでに言うと、おーたさんたち記事を書く人たちが「基本的な知識もないくせに記事に手を出すな」と言いたくなる心情が、全くわからないというわけではありません。しかし、それをあからさまに言ってしまうことはWikipedia:エチケットWikipedia:善意にとるに反しますし、第一、言われた人が素直に納得するわけがありません。「浅い考え」とか「卑しい態度」とか非難しても「「素人」編集者を逆上させるだけじゃないですか。そんなふうにキレた素人相手に…得意がるコドモみたいな真似は止めて欲しいなと思います。」(イタリック部分は上のおーたさんの発言をパクらせていただきました。要するに「どっちもどっち」ということかもしれません)--以上の署名のないコメントは、Dwy会話投稿記録)さんが 2009-03-13 08:31:17 (UTC) に投稿したものです。

保守的な意見の方が多いようです。しかしウィキペディアは実質上執筆者制限が出来ないし執筆に対する罰則もないので、「協議を行い」が入っていようといまいと、結局は出典の議論になったら協議して解決するしかありません。出典がないからと言って一方的に削除したりしたら、リバート合戦になるだけでウィキペディア運営が消耗するだけです。それくらいであれば、最初から「協議を行い」の語句を挿入しておく方が大人的な対応でまだまし、と思って提案したのですが・・・・・。--寂華 2009年3月15日 (日) 12:28 (UTC)

ええと。検証可能性の方針というのは、そうそう変える事ができるものではなくて、この方針を読む限りでは、出典が無いということであれば、協議しなくても、除去することで解決します。また、出典を示すこともしないでやみくもに記事を書いているから、運営側が消耗することになる、という面もあります。

ただ、最終的には、出典を示すということは、ウィキペディアの方針からは譲れないものであったとしても、だからといって、無言で除去するような対応では、書く側の意欲を削ぎ、情報量も損なわれてしまう。みんなが出典を示しながら書く、無いものには時間をかけてでも追記するようになっていくほうがいいですし、ウィキペディアに参加して間もない人なら、付けないで書いちゃうのはしょうがない。だから、出典を求める際には、自ら探すことも考慮に入れ、丁寧な態度で臨む事が求められる。「協議」あるいは「対話」や「呼びかけ」「説明」は、そのために必要なのです。

方針上、「協議を行う」ことは、除去のために必要なことではないのです。ご提案のような文面に変えてしまうと、方針の意味が変わってしまう。この方針は、「議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません」から、それはできないということでご理解いただけますか。--Ks aka 98 2009年3月15日 (日) 12:51 (UTC)

方針の変更が出来ないことになっているのならば、この議論は私としてはこれ以上する意味がありません。個々の案件については、実質上運用で対応することになりましょう。--寂華 2009年3月15日 (日) 13:22 (UTC)