Wikipedia‐ノート:検証可能性/「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり

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事例研究1 「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり[編集]

えーと。「出典無き記事の削除」について具体的ないくつかの実例で考えてみませんかという節であります。実例ですが過去に終わった話なのでここでは仮名とします。リンク先でアカウント名は出てきちゃいますけれど、生々しく書くのが嫌だったもので。

今回事例としてあげるのはミュージシャンの矢野顕子の記事で、このとおり10月15日に編集合戦が起こりました。

仕掛けたのはGさんで、世評で取沙汰されることの多い某宗教団体への矢野顕子のかかわりを記した文章を削除しました。要約欄は「検証可能性」の一言です。これにたいしてMさんはこのように「噂の真相」を出典として文章を復活させたのですが、Gさんは要約欄に「デマが多く出典の明記にふさわしくないため」と記して再び削除。最終的にはMさんがこんなふうにアルバムのブックレットで矢野顕子自身が書いているんだと説明して収まりました。

この編集と平行して行われたのがノートでの応酬。ご覧のように、かなりギスギスとしたやりとりが10月15日の一日で続いていました。

実のところ矢野顕子さんの某宗教団体へのかかわりは、矢野顕子のリスナーにとっては有名な話らしく、私も昔、知人から「有名だよ」と教えてもらったことがあります。一方、そういうことを知らない人が多いのもまた事実であり、Mさんは前者、Gさんは後者の人だった訳です。だから、Gさんからすれば「そーゆー怪しげな情報を書くなよ」であり、Mさんからみれば「だって有名な話じゃん」という心境だったのでありましょう。

さらにMさんとしては、問題の箇所がWikipedia:存命人物の伝記で慎むべき記述に該当するから即刻削除は当然だと考えていたそうで、それは事後の10月26日に利用者‐会話:ギル#自警行為に関する質問で説明されました。

ここまでが実際の経過だった訳ですが、この殺伐とした編集合戦の何がいけなかったのか皆様の意見を伺いたいのです。私自身の意見は、

  • Gさんは「検証可能性」を全面的に出しすぎて問題の所在をぼかしたと思う。
  • 問題の箇所を削除する理由として、「「存命人物の伝記」のガイドラインに基づいている」とまず第一にいうべきだった
  • そして、この場合は緊急措置として削除が認められるのだとMさんに対して早い時期に丁寧に説明するべきだった
  • その上で、「記述されるなら、信頼できて検証可能な出典を明示ください」と書くべきだった
  • さらにWikipedia:礼儀を忘れないという規範に沿って書くべきだった
  • Mさんからそれなりの根拠が示された時には、それまでの非礼を詫びるべきだった

です。もちろん、Mさんの態度も褒められたものではなかったし、「知らない方が悪いくらいの話ですよ、これ。」なんて書き方も自己中心的かなと思います。 --おーた 2007年12月5日 (水) 15:50 (UTC)

考えてみますと、
1)ある音楽家の宗教については百科事典として必ずしも必要な情報ではなく、明らかにしたくないという考えの音楽家もいるだろうことに思い至るのは、それほど難しくないので、最初からアルバムのブックレットで音楽家自身が書いていることを確認し、その信仰と歌詞や活動に関連があることを示す資料を見つけた後に、「存命人物の伝記」および「検証可能性」などの方針を守って加筆するというのが理想ではあるがウィキペディアで求められていること。
2)例示されている場合では、百科事典として記述する必要があり、信頼でき、検証可能な情報源により事実関係が確認できる可能性がある(出典なき批判や詳細な個人情報の暴露とは違う)。百科事典として記述する必要がなく、本人が公開を望んでいないことを明らかにしていたり、信頼できる情報源が存在しないことを確認しているのでなければ、除去する側は強く出るべきではなく、冷静に礼儀正しく、「存命人物の伝記」および「検証可能性」などの方針の存在を伝え、解説をして、なお執筆者が記述が可能であると考えるなら出典が必要であるとして対話を始めるのが理想というかウィキペディアで求められていること。
3)まあ、そういう風に書けたり削除したりする人もあんまりいないし、これらが十分認知されているわけではないので、もろもろ不十分だったりすることはあると思いますが、上で挙げたような対応を取れなかった点については、双方相手方に詫びるなりなんなりしてもいい。
といったところかと。--Ks aka 98 2007年12月5日 (水) 18:14 (UTC)
問題の箇所を削除する理由としては「検証可能性」で充分であり、必ずしも「存命人物の伝記のガイドライン」をリファーする必要はなかったと思います。(最初から「存命人物の伝記のガイドライン」をリファーしていればもう少し穏やかに事が収まったのかもしれませんが、「検証可能性」だけでも記述を除去する理由として充分ですから、他の理由を充分に述べなかったことについて非難されるいわれはないと思います。)
「検証可能性」のルールに従って出典が要求され、最終的には出典(らしきもの)が提示されて事が収まっているわけですから、ルールに従って記事の改善がなされたと言うべきであり、この大きな流れに問題があったとは思えません。本件についての問題は、上記の「ルールに従った記事の改善」を達成する過程において、本来は必要なかったはずの「編集合戦」が発生してしまったことです。
編集合戦が発生してしまった最大の原因は、記述を除去された側の「検証可能性」に対する認識が(少なくとも当初は)充分でなく、出典要求そのものに異議を唱えてしまったことにあると思います。記述の除去に文句があるなら、グズグズ言わずに最初から素直に出典を出すべきでした。実際、まともな出典が出されるまではあれほどすったもんだしていたのに、それなりの出典が提示された瞬間(完璧な出典だとは私には思えませんが、それにもかかわらず)あっと言う間に問題は収束しているのです。--Dwy 2007年12月12日 (水) 05:16 (UTC)
この件に関しては「削除する理由としては「検証可能性」で充分」とはまったく思わないです。なんで、そこまで問題が単純化できるのかが判らんというか、単純化させてしまうから無駄な軋轢を生んでるというのが判らないんだろうか、というか。
この件での削除理由を丁寧に書くならば
  • この記述は、「存命人物の伝記」のガイドラインからすれば問題がある。それでも書くべきだと思うのであれば、信頼できて検証可能性を満たす出典を示して本人のプライバシーを侵害していないことを示さなくてはならない
です。はっきりいえば、検証可能性のある文献を出してこようが、信頼性がおけない文献なら×だし、信頼性があっても本人のプライバシーを侵害する性質のものならやはり×です。今回は、本人が自ら公にしている事柄であることをはっきりできたからOKになったまでです。
そして、この件は「結果良ければすべて良し」とも思えないのです。双方、かなり嫌な思いをしたと思う。そして、こういうやりとりに嫌気が差してWikipediaの編集から手を引いていっているだろう人のことも少しは考えたほうがいいと思う。
もちろん、M氏はもっと早く適切な出典をしめすべきだったと思います。「噂の真相」を持ち出してくるあたりは「信頼性のおける文献」をよく判っていなかったと思うし、背景教養が違う人(この場合は矢野顕子のリスナーでは無い人)に対してどう振舞うべきかも判っていないと思う。しかし、GさんにしたところがMさんに対して無礼なことは変わらん訳です。「文献が無いんだったら消すぞ」という態度だけですから。要するに検証可能性を盾にとった「削除厨」症候群に陥っている。削除理由をなんでもっと丁寧に説明できないんだろうかと思いますね。--おーた 2007年12月29日 (土) 15:03 (UTC)
結局、前に指摘した対立点[1]に戻るわけですね(涙)--Dwy 2008年1月5日 (土) 10:29 (UTC)

うーん。

  • おーたさんへ。「検証可能性のある文献を出してこようが、信頼性がおけない文献なら×だし、信頼性があっても本人のプライバシーを侵害する性質のものならやはり×です。今回は、本人が自ら公にしている事柄であることをはっきりできたからOKになったまでです」というのは、「まずは検証可能性を満たすために情報源を提示することからはじめないと、信頼性についての判断や、本人のプライバシーを侵害するかどうかの判断もできないので、検証可能性のある文献を出してこなければOKになりようがない」とは違うのでしょうか。--Ks aka 98 2008年1月6日 (日) 05:57 (UTC)
一般論をやっても、不毛な堂々巡りにしかならないと思ったので「事例研究」という設定をさせていただいています。ですから、あくまでも、GさんとMさんのやりとりに限って私の見解をお答えさせてください。
Gさんは何が問題なのかをはっきり説明した上で、「検証可能性のある文献を示して問題ないことを示してください」と書くべきでした。この場合「検証可能性のある文献」とは記述が問題ないことを示すための「手段」です。ところが、Gさんは最初、「検証可能性」の一言で編集を削除したし、ノートでの説明でもまず「検証可能性」の一言で済ませようとしています。そういう端折った説明で、編集を強行するから、編集合戦を引き起こしたのではないでしょうか。なんで、もっと落ち着いて時間をかけて対話できなかったのでしょうね?「検証可能性」の魔法の一言で十分だと思ってしまうのは何故なんでしょう?--おーた 2008年1月9日 (水) 15:25 (UTC)
Mさんの不備については、どうお考えですか?--Ks aka 98 2008年1月10日 (木) 16:44 (UTC)
ん?私はMさんの不備についても書きましたけど。--おーた 2008年1月11日 (金) 14:08 (UTC)
あ、失礼しました。もともとはMさんではなかったのか。おーたさんの書き込みでは、「2007年12月5日 (水) 15:50」では、「仕掛けたのはGさん」として、「Mさんの態度も褒められたものではなかったし、「知らない方が悪いくらいの話ですよ、これ。」なんて書き方も自己中心的かなと思います」とあります。「2007年12月29日 (土) 15:03」では、触れていません。
  • 「検証可能性および存命人物の伝記を満たさない最初の除去以前の投稿」
  • 「検証可能性および存命人物の伝記を満たさない9月1日の加筆」
  • 「検証可能性へのリンクを示された後の検証可能性および存命人物の伝記を満たさない10月15日の改変・再投稿」
については、どう思われますか。検証可能性を満たさない記述が存在しないと除去できないわけです。特に存命人物の伝記もかかわるような記述について、方針を守らずに検証可能性を満たさない記述をした投稿者、出典の付加なしに閲覧可能にし続けた記事の執筆者について、どう評価しているか。つまり、態度ではなく、検証可能性および存命人物の伝記を満たさない投稿についての考えを聞きたいのです。
以下経緯です。

除去。要約欄で「検証可能性(リンクあり)」

会話ページでのご指摘を受けて書き直します。
この節に入ってから、おーたさんのご意見は、主に態度に関するもので、「検証可能性の方針に反している」ことの是非に関する言及があまりありません。
おーたさんがGさんとMさんの態度を比較させているのに対して、Dwyさんは検証可能性を満たしていないことを指摘することとウィキケット(およびそれに類する態度に関する方針)の間の落としどころを考えているように見えます。お二人の議論が深刻であるとするならば、論点の置き方に食い違いがあるということにあるのではないかと考えます。
「検証可能性を満たさない記述を除去する」という行為と、「検証可能性を満たさない記述を書き込む、または復帰させる」という行為は、同等ではないはずです。素朴に検証可能性の方針を読むのであれば、検証可能性を満たさない記述は除去することができます。また、検証可能性の方針を読んだならば、出典なき記述を加筆したり復帰したりすることは、望まれる態度ではないと認識することはできるはずです。そもそも、検証可能性の方針を守って投稿していれば、編集除去されることはないのです。
これを踏まえての議論であれば、では、どの程度まで検証可能性を満たさない記述は許容できるか、方針に反していることを指摘する際には、少なくともどの程度の配慮が必要となるか、というところに論点は収束していくと思われ、それほど深刻な対立ではないと思うのです。
おーたさんの、「検証可能性を満たさない記述」についての見解を示して頂けますか? --Ks aka 98 2008年1月14日 (月) 04:41 (UTC)
不躾にお願いした御質問の整理、対応していただいてありがとうございました。
Mさんがもっと早くに適切な出典を示すべきであったことについては、私もまったく、異論ありません。そこは問題ないと私が主張しているとお考えになるのなら、それは誤解です。
世の中には矢野顕子の曲は聞いて知っていてもアルバムを買ったことも見たことも無い人は大勢いるし、矢野顕子の名前しか知らない人も大勢います。そういう人たちとは常識を共有していない、ということにMさんは想像力をめぐらすべきでした。(こういうのは、Mさんご本人が読んでいらっしゃるようなので書きにくいのですが。)
ましてや、この記述はWikipedia:存命人物の伝記にて危険度が高いとされている種類のものです。Mさんはそのあたりの認識も弱かったと私は思います。
ただ、Gさんがやったように「検証可能性」の一言で削除して、Mさんに問題点を説明したことになったんですか?と私は言いたいんです。
Mさん程度の編集者はそれこそゴロゴロいます。私も最初は、その程度の編集者だったし、Wikipediaの全方針・規定をすべて完璧に理解してから編集に参加している人なんかほとんどいないと思います。そういう理解の足らない編集者を一律に切り捨てていくのがWikipediaの方針ですか?理解の足りない編集者には必要な情報を与えるのがWikipediaの方針じゃないんですか?
もちろん、Nekosukiさんがいうように、ただのトラブルメーカーはお引取り願うしかない。しかし、この事例でMさんは、お引取り願うしかないトラブルメーカーとも思えないし、お引取りを願うトラブルメーカーへの適切な対応をGさんがしていたとも思えない。
この事例では、どう考えても「Wikipedia:存命人物の伝記に鑑みて、即時削除する」と伝えるのが先じゃないですか。その上で、「アルバムのジャケットをみれば明々白々なのでこんなの常識」と思っているらしいMさんに、常識じゃない人もいることを説明して、「書くならそれなりの出典明示が必要」だと伝えるんじゃないですか?
なお、「1945年8月15日に原爆が広島に落とされた」というような記述に出典を要求して、削除したりコメントアウトする人がいたら、失礼ながらそいつはアホだと私は思います。そういうことで、常識が食い違っている状態を私は想定できないからです。(「原爆投下捏造陰謀論」を唱える人がいたらまた話は別でしょうが、私はそういうのを聞いたことがないので。)
もちろん「1945年8月15日に原爆が広島に落とされた」という記述に出典をつけることは尊重しますよ。ご苦労様だなとは思うけれども。
同様に、とにかく「検証可能性」の一言を使えば何でも削除できると考えている編集者を私は、失礼な言い方だけどコドモだと思います。持たせてもらったハサミが嬉しくて、何でも強引に切りたがるコドモ。Nekosukiさんのいう削除厨ですね。--おーた 2008年1月16日 (水) 15:18 (UTC)

ほい。ありがとうございます。それなら、深刻な対立ではないように思います。続きは節の最下部に移動します。--Ks aka 98 2008年1月16日 (水) 17:19 (UTC)

  • Dwyさんへ。「編集合戦が発生してしまった最大の原因」が「記述を除去された側の「検証可能性」に対する認識が(少なくとも当初は)充分でな」いことにあるという状況というのは、除去する側は検証可能性をはじめとする方針を知り、除去された側は十分認識していないという状況です。このような状況で、双方が不快にならずに編集合戦を回避するためには、方針を知っている者が方針を説明し、理解してもらうことだと考えます。これによって、十分認識していない側も、方針を理解し、以後方針に従った編集者となることが出来ます。これは、ウィキペディアのコミュニティが成長していくために、義務ではないにしても、望まれる手間の一つだと思いますが、いかがでしょうか。--Ks aka 98 2008年1月5日 (土) 10:58 (UTC)
「方針を知っている者が方針を説明し、理解してもらうことが…義務ではないにしても、望まれる手間の一つだ」ということには、100%同意します(「義務ではない」のところには120%同意します)。ただ現状では、「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」を強く言うと「無礼者」扱いされかねません。「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません」に対しては、「教条主義者」のレッテルが待っています。私としては、どういう説明をすれば良いのか途方に暮れます。--Dwy 2008年1月6日 (日) 05:03 (UTC)
「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません」というルールがあり、検証可能性で求められる出典の明示は現状守られていないことも多いが、守って欲しいと相手に伝えることは、「無礼者」「教条主義者」(あるいは「削除厨」)には当たらないように思います。妥当な表現でルールを伝え、その上で「無礼者」「教条主義者」とされたのであれば、そっちが「無礼者」であり「方針の無理解」となるでしょう。他方、誰でも取り除くことができるからといって、おそらく間違ってはいないと思われる百科事典として有用な記述を無言で除去し、除去しないで欲しいという執筆者の反論に対して、検証可能性へのリンクを示すこともなく、管理者伝言板やコメント依頼へ進んだり、見下したような、または挑発的な発言をしたりするならば、「無礼者」「教条主義者」となるでしょう。「無礼者」「教条主義者」「削除厨」と、そうでない、「記事の正確性を求め方針の啓蒙に努める利用者」の境界は、編集除去という行為にあるのではなく、その前後での対応にあるのではないでしょうか。そこで、説明が困難であるとすれば、ウィキペディアにおける参加者全体の経験の不足と、検証可能性の文章のわかりにくさにその理由があるのではないかとも思います(「Help:検証可能性」とかが必要なのかな?)。--Ks aka 98 2008年1月6日 (日) 05:57 (UTC)
で、この事例においてGさんの編集は妥当だったんでしょうか、問題があったんでしょうか?そこを聞きたいのですが。--おーた 2008年1月10日 (木) 14:29 (UTC)

ああ、こんなところで俎上に乗せられていたのですね。言葉遣いについてご意見をいただいており甘受すべき部分もありますが、多くはネットにおける十数年の経験則と相手の方の態度を勘案して物言いを決めていますので、この態度を改めるかと聞かれればわからないと申し上げるしかありません。

上の議論で私の心情を織り込んでくださっているのを読んで安心しましたが、事例研究ということですので、参考として私見を述べます。私がいささか辛らつに相手の方(Gさん)を非難した理由は、Gさんがルールの文だけを提示して「どこが問題と思うか」という見解を示さない一方で本文の差し戻しは問答無用であったことによるものです。つまり対話によって解決する余地がなかったのが問題と考えています。

時折、検証可能性も含めてルールへのリンクを貼り付けて「貴方は違反しています」としか書かない執筆者がいますが、「どうしてそう思うか」が抜けていると往々にしてトラブルになるようです。大学記事の編集で活躍された方がいらっしゃいましたが、他の執筆者とのトラブルが絶えず、コメント依頼が出されるに至って編集実績から黙認していた他のユーザからも「もう少し上手くやれ」とたしなめられる始末となっていました。Gさんについても同じことが言えますが、利用者ページを見ても他人に注意するのが活動のほとんどだったようで、他の項目でも少々浮いたやりとりをしています(ややPOVですが)。「どうしてそう思うか」を述べ、相手の反論に耳を傾けて議論することで「教条主義者」といった非難はかわせるのではないでしょうか。逆に、そういった言葉や手法を持ち合わせていないのなら(私が持っているという訳ではありませんが)、軽々に記事を差し戻したり、人に注意などするべきではないのです。

もう一つ、ある項目に対して情報を持っている人とそうでない人の間にある認識のギャップについてですが、個人的に思い出すのはある削除依頼です。著名な音楽事務所の項目について、依頼者が知らないという理由だけで提出された例です。人は何でも知っているわけではありません。知らないからこそこのような百科事典が編纂されるのでしょうし、私自身も知らないことや間違って覚えてたことは多々あります。知らないけど違和感のある記述を見つけたらどうしたら良いか、ということについてはWikipediaのルールと言うより一般的なコミュニケーションの問題だろうと思います。既にご指摘の通り、今回の件は彼女のCDブックレット・著作物を読めば明白なことであります。現在掲載号を探していますが、聖書の写真と共に「我が家の基準です」と書く人の宗教心が篤いと記述することに疑いの余地はないと考えます。それを知らないというのなら、また宗教がらみで慎重な対応が必要と考えたのなら、まずはノートでどういう理由によるものか質問すれば良かったのではないかと思うのです。Dwyさんがなさったように。まぁ差し戻しへの対応で咄嗟に思い出したのが「ウワシン」だったのは脇が甘かったのでしょうが(理由は後述)、それにしても「無知の尻拭いを他人にさせている」という印象は否めなかったわけです。それは現在でも変わりません。極端な喩えかもしれませんが「オーストラリア」と「オーストリア」の違いがわからない人から(最近の高校生辺りにはいるようですが)、「両者が違うということの検証可能性を示せ」と言われて地図を見せて説明したけど「その地図は信頼性が低いから、地図の検証可能性を示せ」と畳み掛けられたようなもので、知らないなら知らないなりの聞き方をするか、関わらないで欲しいと思う人は少なくないように思います。ちなみに、Dwyさんへのお返事はノート:矢野顕子でお答えいたしております。

典拠として「ウワシン」を挙げた理由としては、確かにゴシップ誌であったわけですが訴えられて敗訴した例というのはそう多くないことと、有料ではありますがネットで原文を入手できることから提示しました。

長くなりましたが、私の言い分は以上の通りです。--Mt.Stone 2008年1月9日 (水) 07:21 (UTC)

芸能人が、公式プロフィールには記載されていない趣味・嗜好等を様々な所で発言する事はありますし、それをあらためて特定の番組や雑誌の出典を挙げるとなると、何かと難しい事もあるかと思います。ファンといえど、見聞きした全てを保存しているとは限らないでしょう。ただ、CDであれば、手元に残す事も多いでしょうから、具体名を挙げるのも比較的容易だったのではないかと思います。
特に問題の記述が、例えば「好きな食べ物」とかではなく、宗教など「機微な個人情報」に当たる物であれば、より慎重になるのが当然じゃないでしょうか。そういった点で、記述する場合は最初から具体的な出典を挙げて欲しいですし、出典無き場合は即削除される事もありえるかと思います。実際の所は最初に要出典を付けられたようで、(上の方で極端な例として挙げられているような)むやみに削除しているとは感じませんでした。
また、芸能人が著作物で明かしている情報と、小中学校の授業で使われる世界地図にも掲載されている国名が、同列に語られる知識だとは思いません。
その他の態度についての印象は……検証可能性云々の話ではないので割愛。--Y-taro 2008年1月16日 (水) 00:38 (UTC)

仕切り直し[編集]

ウィキペディアの執筆者のほとんどは十全ではないですが、同時に、いわゆる「編集者」的な作業をして、記事を手入れする人たちもまた、十全ではありません。一般論として、主に「編集者」的な作業をする人たちは、執筆者以上に方針類を把握しているのが好ましく、方針類の知識が、執筆者にとっての記事の知識に相当するようなかたちで、双方が対等であるべきであると考えます。

未熟な執筆者を切り捨てるべきではありませんが、方針に沿った記事へ向かって「編集者」的な作業をしている人たちに、あまり高いことを要求するべきでもないと思います。そういう役回りをしようとする人がいないまま、未熟な執筆者ばかりが書き込みをしていては、ウィキペディアの質は向上しないでしょう。もはや、質はともかく記事の数、分量を増やそうという時期ではないと思います。

現状、執筆者への配慮に欠けていたり、自身も方針の理解が十分ではない「編集者」がいる、ということは、認識しています。かといって、検証可能性を満たさないまま加筆している執筆者もたくさんいます。これを放置することは、信頼性や、個人情報の扱いといった点で問題があります。では、「編集者」には、最低限、どの程度のことが求められるのか、ということを、おーたさんとDwyさんの間で探っていくことはできませんか?おーたさんが求めているものは、上で書いた通り、ぼくには、ちょっと厳しすぎるように感じられます。Dwyさんは、どういう説明をすれば良いのか途方に暮れています。

ぼくなりに考えるところは、おおよそ以下の通りです。

編集者側に最低限求められるのは、関連する方針へのリンクと、少なくとも検証可能性の概略の説明、最初の段階での丁寧さ、ではないかと、個人的には思っています。出典があれば記載可能な記述については、いきなり編集除去するのではなく、要出典タグを貼ることが望ましいでしょう。

執筆者側に求められるのは、なにより出典の提示です。どれほど馬鹿げた要求であっても、提示することはできるはずです。その上で、さらなる的を外した追求があれば、その段階で反論する、ということでしょうか。そうなると、論点は検証可能性からは離れます。もちろん、「馬鹿げた」の線の引き方には、意見が分かれることもあるでしょう。「1945年8月15日に原爆が広島に落とされた」は、「馬鹿げた」の部類に入れてもいいと思いますが(それでも、出典を挙げることは可能です。また、時刻まで記述するなら、ぼくが書くなら出典を挙げるかな)、馬鹿げていない場合に「ちょっと調べれば分かる」「作品を読めば分かる」というような反論が出てくるのもしばしば見ます。馬鹿げているなら、出典を挙げる代わりに、その事柄を当然扱う概説書であればどれを見ても確認できるものだということを示せばいい、というあたりが落としどころでしょうか。

あとは、その記述の執筆者がアクティブではない時には、アクティブな執筆者と除去を求める側の間で論争が起こりやすいですね。

今回の件に限定するなら、どちらも、最低限の要求は満たしています。Gさんは、2007年7月31日 (火) 08:39の版で要出典タグ、2007年9月1日 (土) 17:13の版でようやく編集除去という経緯があり、その後再加筆・再除去の際には検証可能性へのリンクを張り、ノートでの説明を試みています。これよりも性急な編集除去を見かけることもありますし、この事例では(除去ではなく)削除の必要もありうる記述ですから、Gさんの振る舞いは、万全ではないとしても、責めるほど性急ではなかったのではないでしょうか。他方、Mさんも辛辣な態度であったことはご本人も認めていらっしゃいます。問答無用の除去と認識されていますが、履歴を辿れば、Gさんの視点から見るなら、要出典タグを貼り、一ヶ月後に除去したものを再加筆しているということに気付くことは可能です(もちろん、気付かないこともあり得ますし、履歴の確認は義務ではありません)。それでも対話を継続し、求められた出典を提示するに至りました。今回の事例については、双方ともいくらか不愉快であったところもあると思いますが、これは除去と再加筆のタイミングに拠るところもありますし、対話が成立しない強引な除去・加筆でもなかったという点で、このやりとりは、上手く行ったほうだと思いますよ。--Ks aka 98 2008年1月16日 (水) 17:19 (UTC)

Gさんは、要出典タグを貼り、その後「検証可能性」の一言で削除して、その後Mさんと差し戻し/削除を一往復させていますよね。確かにこれはルーチンに沿った作業に見えますが、この記事をGさんが問題だと思ったのならWikipedia:存命人物の伝記に基づく処理を行うべきだったんじゃないんですか?プライバシーの問題に踏み込んだ記述なんですから、要出典タグなど貼って済ませずすぐに削除せよとWikipedia:存命人物の伝記には書いてありますよね。ところが、Gさんは通常の「検証可能性に問題がありそうな記述」に対するルーチン処理で済ませています。
Gさんの一連の編集はそういうルーチン作業で良しとして、記事の内容に即して対応していないように私には思えます。そして、そういうルーチン作業者というのは、例えばMさんのような背景教養が異なる編集者からは「アホが絡んできた」としか見えないということにGさんはあまりにも無頓着だし、ご自分のやっていることが正しいと思っている分、傲慢になっていると私は思います。もちろん、要出典タグが貼られている間に対話しようとしないMさんも問題だったことはいうまでもありません。
私の書くことは「ちょっと厳しすぎ」て「Dwyさんは、どういう説明をすれば良いのか途方に暮れてい」るそうですが、難しいことを言ったつもりはありません。「何でもかんでも「検証可能性」の一言と、削除処理のルーチンで処理するのではなくて、対話しながら編集したらどうですか?」と言いたいだけです。その程度のことが厳しいと感じられるのであれば、対話で編集するよりはルーチンで編集しようという自身の性向を見直されるべきだと思います。--おーた 2008年1月21日 (月) 15:34 (UTC)
「削除処理のルーチン」には、反対の立場の人を対話に誘導する手続きが当然含まれているはずですし、実際に、GさんとMさんはノートでそれなりの対話を交わしているわけです。二人の間の対話が上手く機能しなかったのは、私に言わせれば、主としてMさんの「検証可能性」に対する理解が不充分だったからであり、もっと端的に言うと、Mさんが「ルールに従った記述の除去」そのものに対して怒っていたためです。念のために言いますが、私の見る限り、Gさんの発言に特に無礼だとか傲慢だとか言えるようなものはありません。Gさんが「対話しながら編集」する努力を怠ったかのような言い方は、やはり「ちょっと厳しすぎ」だと思います。
Gさんは、記事の質を向上させようという善意に基づいて、ルールに則って記述を削除し、ルーチンに従って一応の説明を試みたわけです。Wikipedia:存命人物の伝記については、うっかり言い忘れたのかもしれませんが、そもそも「検証可能性」だけでも「除去できます」の根拠として充分ですから、うっかりしていたことについてコミュニティから責められるいわれはありません。「こうすればもっと上手くいったはずだから、次からはそうしようね」程度の言い方であれば問題ないのかもしれませんが、「ちゃんと説明できないなら、除去するな」は(一応の説明はちゃんとしているのだから)明らかに筋違いです。
そもそも、日本語版Wikipedianの大部分は「検証可能性」についてちゃんと理解しておらず、ちょっと出典要求すると「俺の記述にケチをつけるのか」と怒り出す人もたくさんいるわけです。そういう状況下において、「ちゃんと説明できないで、相手を怒らせてしまうやつはトラブルメーカーだ」のように言われると、結局、出典要求できなくなってしまいます。前にも書いたように、出典要求→出典明記という流れはWikipediaの素晴らしい進歩ですから、この流れを止めるような議論はすべきではありません。Gさんが出典要求をして、Mさんがそれを出してくれた。その過程の行動は二人とも完璧ではなかったかもしれないけれど、Wikipediaの記事を向上させた功労者には違いありません。何で非難しなければいけないのか、さっぱり分かりません。--Dwy 2008年1月23日 (水) 20:15 (UTC)

えーと。Gさんが7月31日、最初に要出典タグをつけた記事がこれなんですが、この時点で検証可能性に問題がありそうな記述はわんさとありますよね。

  • この頃から「その日起きた楽しかったこと」などを、即興のピアノと歌で表現していたとされている。
  • これが業界人の間でたちまち噂になり、
  • しかしレコード会社は矢野にしか興味が無かったので、すぐに解散。
  • 自作曲のほかに、故郷青森の民謡と、歌謡曲を矢野顕子流に料理した傑作とされている。

とかですけど。この記事はこの段階でほとんど出典明示されていないんで、記事全体が問題と言えば問題だったんですけどね。

で、Gさんは数あるこれらの検証可能性に問題を抱えた文章はさておいて、「エホバの証人」についての記述についてのみ要出典タグをつけ、9月1日に「検証可能性が満たせない」ことを理由に削除されたわけです。数ある問題記述を放っておいて、この記述への処置だけを行ったのは、もちろん「存命人物の伝記」として問題があったからですよね。そして、Gさんはそれを編集合戦になってから説明したのですが、これは「うっかり言い忘れていた」という状態ではなかったと、私は思います。Gさんとしては「検証可能性」という概念が他の諸概念も包括しているので「検証可能性に問題がある」と、ひとこと言えばそれですべて説明できていると考えていたのだと思います。だから、「存命人物の記述に問題があれば要出典タグを貼るよりもとりあえず即刻削除するべき」というガイドラインも意識せず、「検証可能性に問題がある記事」へのルーチン対応を行ったのだと思う。そういう、Gさんの単純化されたルーチン対応もマズかったんだという指摘を私からさせていただきました。これは、ルールを純化させていくことが正しいことだと考えるコドモの対応なんです。

なぜ、それが問題なのか「さっぱり分りません」と仰るDwyさんのご意見を読みながら、私は「これはひょっとすると、ジョージ・オーウェルが描いたニュースピークの生成過程に立ち会っているのかもしれない。政治思想や宗教関連以外でこういう動きが出るのは珍しいかもしれない」などという無駄な妄想に走ってしまったのですがそれはさておきましょう。私としては、用語の単純化使用は傍からみたら大変にアタマが悪い行為として見られる、ということは言っておきたいですし、MさんからみてGさんの行為はまさにそう見えてしまったのだと考えます。それはGさんへの非難として言うのではなくて、「あんた、もうちょっと考えた方が無駄な軋轢は減らせるよ」というアドバイスです。--おーた 2008年1月26日 (土) 06:32 (UTC)

うーん。どうしても議論が平行線をたどるんですね。「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」というルールは誰が見ても単純なものであり、しかも「議論の余地がないもの」であるとされています。単純なルールは単純に運用されるの当然です。「コドモの対応」とか言われても、困るんですよね。(できれば、「コドモ」とかいうような言葉遣いは避けていただけると助かります。すごく失礼というわけではないでしょうが、私の方で「○○のほうがよほど・・・」などと失礼なことを書きたい気持ちを抑えるのにかなり苦労しています。)
それから、「Gさんとしては「検証可能性」という概念が他の諸概念も包括しているので「検証可能性に問題がある」と、ひとこと言えばそれですべて説明できていると考えていたのだと思います」についてですが、そう思ったとして、それがそれほど許されない間違いですか?色んなことをいっぺんに言ってもすぐには理解できないだろうから、「最低限の基本から」という選択をしたとして、それがそれほど馬鹿げた間違いだとは、私には思えません。
もうひとつついでに、「『検証可能性』の魔法の一言」で記述を除去されるのがお気に召さないようですが、この呪文は「トンでも」撃退用の呪文でもあるのですから、一言で効果がないと困ります(トンでもさんと、信頼できる情報源に基づかない議論なんか、したくないですからね)。でも、資料に基づいて確実な情報で執筆している人は、何も心配することはありません。「検証可能性」の魔法は、「これが出典だ」の反対呪文一発で簡単に無効になるからです。
・・・などと言っていては永遠に平行線ですね。妥協を図るという意味では、「あんた、もうちょっと考えた方が無駄な軋轢は減らせるよ」は、私としてもまあOKです。(本当は、記事が進歩したんだからまるっきり「無駄」じゃないと思うんですが、まあそこは目をつぶります。)ただ、これを言うなら、他にももっとコミュニティとして言うべきことがあるんじゃないかなと、私は思います。まず最初に、いまだにGさんに対して怒っているように見えるMさんに、「Mさんには失礼に見えたかもしれませんが、Gさんはルールに従っただけです。Mさんが出典を出してくださったおかげで、記事の質が向上したわけですが、Gさんも、そのきっかけを作った功労者であることを、理解してください。」を言うべきだと思います。それから次に、コミュニティのみんなに対して、「ルールに従った出典要求に対して怒っている人がいたら、出典要求をした人に全責任をかぶせるんじゃなくって、みんなで協力して、怒っている人にルールを説明してあげた方がいいよね」と呼びかけてみることも重要でしょう。Gさんに対しては、その後で、「出典要求、ごくろうさま」を言った上で、「でもあんた、もうちょっと考えた方が無駄な軋轢は減らせるよ」を付け加えるくらいのことかなと思います。--Dwy 2008年1月26日 (土) 18:59 (UTC)
「検証可能性」に照らして「問題がない」ことがすなわちウィキペディア上の行為としてなんら問題がないということなのか、疑問に思います。問題がないなら、どうして事例1や2にあるように、現実に受け入れられず、各所でしばしばトラブルに至るのでしょうか。単にマナーやエチケットの問題でしょうか。それとも「空気を読み誤った」からでしょうか。
事例1でいえば、除去した側に項目への関心や知識、が感じられません。執筆側からすれば、「こんなことも知らない人間が口をだすな」「単に宗教がらみの記述を消したいだけでは?」という思いがあったでしょう。もちろんこれは思い上がりや誤解かもしれませんが、案外そのとおりかもしれません。なぜその記述を疑問に思い、出典を求めるのか、執筆者との意思疎通を図ればそのような事態は避けられたはずです。共同作業とはそういうものではないでしょうか。「検証可能性がすべて」のような機械的な対処は、こうした直接の誤解や反発を買うだけでなく、第三者のまともな執筆意欲をも失わせるものです。それが狙いならまさに「うまくいった」例でしょう。
あとのことは下に別記します。--みっち 2008年1月28日 (月) 09:32 (UTC)
『「検証可能性」に照らして「問題がない」』というところまでは同意いただけたようで、うれしいです。事例1や2で揉めてしまったのは、前にも書いたように、出典要求された側の「検証可能性」についての理解が不充分だったからです。それ以外の原因もあるかもしれませんが、最大の原因は、なんと言っても「検証可能性」がちゃんと理解されていないことです。
だいたい、検証可能性のルールを承知の上でなら、出典がない情報を書き加えたいなんていうのは、「まともな執筆意欲」じゃないです。そういう意欲は失っていただいた方が、みんなの為です。だから基本的には、「検証可能性がすべて」でそれほど大きな問題はないはずです。ただ、日本語版Wikipediaの特殊な事情として、多くの人が「検証可能性」のルールをご存知ないという状況があり、上記の「検証可能性のルールを承知の上で」が成立していないことが問題になるわけです。
従って、出典を要求した相手が検証可能性を知らなかったときは、上手にルールを説明してあげる必要があります。とはいえ、普通の人にはWikipedia:検証可能性のページ以上に上手な説明ができるはずもありません。とりあえずは、Wikipedia:検証可能性のページをリンクして、読んでくださるように丁寧にお願いするべきです。そこのところがちゃんとできていて、礼儀正しく手順を尽くしていれば、それ以上のことを要求されるいわれはありません。
こういう考えは間違っていますか?--Dwy 2008年1月28日 (月) 17:37 (UTC)
静観しようと思っていたのですが、ちょっとだけ割り込みます。議論に参加、というより「当事者はこう思った」というスタンスでの発言なのでスルーしてもらって結構です。さて、個人的感覚では検証可能性が重視されるようになったのは比較的最近のことで、その前は中立性・客観性が重視されていたように思います。つまり、検証が比較的容易なものについては中立的・客観的に記述されていれば大きな問題とはされなかった、というのが私の認識です。記述に際して何が重視されるかということについては、いずれも優先順位に差がないにもかかわらず、どうもトレンドがあるように思います。さらに、当該の議論でも申し上げましたが、検証可能性に疑問がある場合、方針には「いきなり除去することは推奨しない(大意)」という一文もあるわけですが、除去した方はその点についての指摘に答えていないわけです。つまり、(私は)自分のよく知らないこと、気に入らないことについて片っ端から除去する、しかし一方的な除去を推奨しない方針は無視するというダブルスタンダードを行っている方だと認識しました。実際、他項目ではそのような言動が見られましたので、本人のノートで執筆姿勢を問いましたが逆に猛反発されています(あえてリンクはしませんが)。
本人が方針を理解し、議論する力があれば、「方針を読んでください、その理由はこれこれで、あなたはこの点が不足しています」という説明ができるはずですが、理由の説明がないまま「方針に反しています」では礼儀もへったくれもないのではないでしょうか。またこのような説明をする方が方針を理解しているとは考え難いものがあり、まさに「魔法の一言」の濫用に他ならないと考えます。
このページの別項でも指摘されていますが、こういう除去をされる方のほとんどは「まともに記事を書いたことのない方」であり「その項目に対する知識も思いも持ち合わせていない方」だと考えています。Wikipediaに於いては「知っていることについて書く(編集する)」のが大前提であり、「よく知らないし、資料を調べる時間も金もないし」という理由で削除したり、議論を吹っかけたりするような行為はご勘弁いただきたいものです(嫌味と取ってくださって結構)。--Mt.Stone 2008年1月28日 (月) 23:49 (UTC)

いろいろな事例について考えてみたのですが、

1. 多くの場合、出典の無い記述が行われるのが発端となる。

2. 当該部分が除去される。出典が無いとコメントする人もいれば無言の人もいる。

出典付で除去部分を復活させ、「うっかりしてました」とでも言えば、除去した方もまともな人間なら「ありがとうございました」くらいで一件落着するでしょう。ところが、出典無しでもその記述を温存させたい人というのはいるもので、クリティカルなケースとして考えられるのは、

3. 今の自分には明示できる出典は無いが、必ずどこかに出典があるはず。自分でも探すし、他の人が見つけてきてくれるかもしれない。また、「中立性」や「独自研究」に抵触するものでもないので、ここは除去せずしばらくそのままにすることはできないか。

といったところでしょうか。そして、ここから先の、「ダメだ」、「そうしましょう、ただし期限付きで」などについてどうするかのハナシをここではしていると思っていたら、どうやら上記 2. の除去行為自体さえなければこの種の揉め事が無くなる、ということですか。

それと、記事を書いたこの無い者が往々にしてうるさいことを言うといったような論調が散見されますが、論文査読でも、査読者は論文テーマの専門家ばかりじゃありません。ドクターでなくとも査読します。Wikipediaにしても、その記事を執筆・編集した人達に限らず、執筆が可能である者(すなわちコミュニティー参加者全員といえるでしょう)がWikipediaの向上といったものに対して責任を負っているとすれば、「まともに記事をかいたことがない」人が、専門外記事の編集に何らの引け目を感じる必要はないでしょう。--FXECG 2008年1月29日 (火) 04:31 (UTC)

Wikipediaの編集者は、基本的に「どこの誰とも分からない人」です。だから、出典を欠いた記事は、「どこの誰とも分からない人が、ひょっとしたら自分の勝手な思い込みだけで書いたかもしれない記事」ということになります。編集者たちみんなのコンセンサスに従った内容だから多分正しいとは思うけど、Wikipediaの編集者は所詮素人だし、信頼できる情報源の裏づけもないから、不正確な内容である可能性も否定できない・・・というような記事は、はっきり言って、百科事典に要求される信頼性のレベルに達していません。だからこそ、「検証可能性」のルールが妥協の余地のない方針として定められているのだと思います。。
「検証可能性」について真面目に考えていれば、そんなに簡単に記事は書けません。「まともな記事」を書くためには、情報の裏づけとなる資料を逐一調べていく必要があり、それには膨大な手間と時間がかかるからです。一方で、日本語版Wikipediaの記事で、出典がちゃんと明記されている「まともな記事」は、それほど多くありません。出典を欠いた「半端な記事」ばかりです。「半端な記事」であっても、後から出典を追記していけば「まともな記事」にすることができますから、「検証可能性」のルールを知らない人が「半端な記事」を書くこと自体には、ここであえて強く異議を述べることはしません。でも、「おまえら、まともな記事を書いたこともないくせに・・・」のように言われると、「あなたたちも、そういうことを言う前に、自分たちが書きっぱなしにしている半端な記事を何とかしてくださいよ」と言わざるを得ません。--Dwy 2008年1月29日 (火) 05:35 (UTC)正確を期して下線部追加-Dwy 2008年1月29日 (火) 18:08 (UTC)
ネタにされた当事者なので議論に深入りする気はありませんが、FXECGさんご指摘の3.についてはその通りで、もう少し本文で明確に記述されるとトラブルが減ると考えます。そういえば、上の方で「要出典テンプレを貼られたのに対処しなかったお前も悪い」というご意見がありますが、履歴をご覧になればわかるとおり、元々は私が書いたものではありません。また項目全体をべったりウォッチしているわけでもありませんから、「他人が書いた部分まで逐一対処しろって言われても、そんなこと言われても知らんわ」としか答えようがありません。みなさん、自分の書かれた項目はそんなにべったり監視しているもんなんでしょうか。
また「記事を執筆したことがない人」についてですが、一本でもきちんと資料にあたって執筆したことがあるならば言わない・やらないようなことをなさっている編集者については「一度、あなたの言うところのまともな記事とやらを書いて御覧なさい」としか言いようがありません。書いた人に対する想像力が働かないのであれば、実際に手を動かすしかないと思います。それだけの力量に至っていないのなら、関わるなとは申しません、しかし同じ編集除去にしても関わり方・言い方があるのではないでしょうか?また学会における査読の例えがありますが、物理の論文を心理学者が査読することはないわけで、例として不適切ではないかと言う気が致します。
専門家や事情を知っている人が10人読んで誰も問題を感じない記事を、突如「出典がない」「独自研究」の「魔法の一言」で削除し、トラブルになる。それが現状ではありませんか。編集者ばかりが何千人いたところで、執筆者がいなければ事典はできません。スタイルの修正など、助かる部分も多々ありますが、鉄壁の記事でないと勘弁ならんとでも言わんばかりの教条主義者が増えると、Wikipediaに寄稿する専門家はいよいよ少なくなりますよ。--Mt.Stone 2008年1月29日 (火) 07:13 (UTC)
(Mさんへ:Mさんにとって不愉快な議論が続きますが、もうしばらくご辛抱ください。)
それでですね。改めて言うまでも無いんですが、私は「検証可能性は、百科事典の質を保証し、共同作業を可能にするために必要なもの」だという見解には、全面的に賛成なんですよ。ただ、それを振りかざしてWikipedia:5本の柱にもある、Wikipedia:礼儀を忘れないを忘却しても良いほどに「検証可能性」の削除条項を濫用してよろしいのですか?と思っているし、時に恣意的な適用が行われていないかとも問いたい訳です。
これに対して、Dwyさんの立場は、基本的には「検証可能性がすべて」であり、事例研究1について言えば(当事者がいらっしゃるので書きにくいのですが)、Mさんは「検証可能性」を理解していないし、何の出典もなしに何でも書きたがるのは「まともな執筆意欲」ではなく、そういう意欲は失っていただいた方がみんなの為なのだそうです。だからGさんの対応はMさんに対しては失礼でもなんでもなくて、なんの問題も無かった。Gさんのような対応で全てを学んで悟らないなら、Mさんのような編集者は切って捨てて構わない。Dwyさんの主張を、そのように私は理解しました。
で、こういうのは人を見下した、すごく不愉快な態度だと思います。
みっちさんが指摘するように、Gさんの編集には記事に対する愛が無いです。そして、こういう編集を推奨するかのようなルールの解釈は行うべきではないと考えます。個々の記事に対して関心を寄せる人たちから、如何にして寄与を引き出してより良い記事にするか。そのために編集ルールがあるんだということを忘れていませんか?つまり、Mさんのような編集者を最初から切り捨てるルール解釈ではなくて、Mさんのような編集者をうまく誘導するルール解釈であるべきではないのですか?
Dwyさんが主張するようなルール適用は、要するに「馬鹿は追い出せ」です。しかし、私はMさんを「追い出すべき馬鹿」と思わない。Wikipediaのルールに沿って、どんどん寄与していただきたい編集者だと思う。そしてGさんのようなやり方では、Mさんの生産的な寄与を絶対に望めないと思う。Dwyさんの主張するような方針では、Mさんのような編集者を活かしていくことはできないと思う。こういう話をすると、「じゃあ、「トンでも」さんを、どう処理するんだ」という議論にいつも進んでしまうのですが、事例研究なのでそこには振らないでいただきたい。Mさんに対して、どうするんだということを問いたいのです。Mさんは、排除すべき馬鹿なのですか?そこまでWikipediaは殺伐とした場所なのですか?--おーた 2008年1月29日 (火) 15:04 (UTC)
誤解もここまで激しいと、頭が痛くなってきます。私が、いつどこでMさんを追い出すべきだと言ったのでしょう?Mさんについては、Gさんとともに「その過程の行動は二人とも完璧ではなかったかもしれないけれど、Wikipediaの記事を向上させた功労者には違いありません」と申し上げたはずです。
ああそうか!『検証可能性のルールを承知の上でなら、出典がない情報を書き加えたいなんていうのは、「まともな執筆意欲」じゃないです』を問題にしているわけですね?だけどこれは仕方がないでしょう。「検証可能性」のルールは妥協の余地がないルールだということになっているわけだし、それをわざと踏みにじるようなことがしたい人は、お引取りいただくしかなんじゃないですか?(日本語版Wikipediaの現状から言って、こっそりやってくれる分には目が届かないということもあるでしょうが、面と向かって「いいだろう?」と質問されれば「ダメです」と言うしかないです)
もう一度Mさんについて言えば、Mさんが「検証可能性のルールを承知の上で・・・出典がない情報を書き加えたい」と考えているとは思えません。そういうふうに考えるのは、Mさんに対して非常に失礼な話だと思います。(それでいいですよね、Mさん?)万が一、Mさんがいまだに「出典がない情報を書き加えたい」と思っているとしたら、それはいまだに「検証可能性のルールを承知」でないということになります。そんなことはないと思いますが、万が一そういうことなら、もう一度検証可能性のルールについてご説明するしかありません。「Mさんに対して、どうするんだということを問いたいのです」に対しては、これで答えになっているでしょうか?
それから最後にもうひとつ、私が「Gさんには特に失礼なところはなかった」という主張をしていることに対してご不満があるようです。この点については、私がMさんの言動についても「失礼だった」という主張を一切していないことにもご留意ください。私としては、両者に同じ基準を適用しているだけであり、要するに「お互い様だ」と思っているということです。--Dwy 2008年1月29日 (火) 17:09 (UTC)
私に関して申し上げれば、殆どの事項で参考文献がありますが、出典についてうろ覚えだったり手元になかったり、という可能性はあります。こう書くと片っ端から出典要求する人が出て来かねませんので、「知識のある人、または事情を知っている人から見て自明の事柄についてはお答えしないこともある」とあらかじめ申し上げておきます。余談ですが、検証可能性を満たしている記述はなんでも記載されるべきだという人がいますが、検証可能性を満たしていたら味噌も糞も一緒に記載して構わないんでしょうか。--Mt.Stone 2008年1月30日 (水) 05:50 (UTC)
「「検証可能性」のルールは妥協の余地がないルール」ということは、他の原則はないがしろにして良いということを意味しない、ということがDwyさんには何故分らないんでしょうね。--おーた 2008年1月30日 (水) 15:15 (UTC)
Mさんのご意見は、まさにその通りだと思います。知らない分野について削除編集ばかりしたり、一部のルールを「魔法の一言」として教条的に押しつけたり、といったことはまずいことだと個人的には思います。ただし、Wikipedia参加者にはいろいろなスタンスの方が参加しており、それぞれの考え方によって編集活動がされますが(だからこそ秩序を守るために様々なルールがありますが)、このケースでいうと、「いつも積極的に情報の追加・記事の加筆をしている人」と、「いつもは他人の記事の削除や一部のルールを教条的に押しつけた編集ばかりしている人」では、受け取る側も対応が変わってくるかと思います。「普段は厳格に他人の書きこみを削除して、加筆や発展をさせない人」が「一見悪質なゴシップ話にも見える記事を出典もなく記載する」場合では、「積極的に様々な情報を記述する(あとで他の人の協力を得て記事がきれいにまとまる)人」が同じことをやるのと違った見方をされるかと思います。出典にしても「噂の真相」でも通常は特に問題はないとは思いますが、一般週刊誌の記載すら出典として不適切と主張する人が議論が白熱したあとの出典として提示するものとしては不適切でしょう、と考えます。いずれにしても、(特にトラブルが発生した時は)当人のほかの編集も参考にして本人のスタンスを見る必要はあり、また、表現や態度も(純粋な議論を希望しているか挑発を含んでいるか)ふくめて、それで判断されるものだと思います。まあこんなこと書いている自分も人のこと言えませんが。--Mightupon 2008年1月29日 (火) 18:04 (UTC)
(他の議論の流れを切っていたため、場所を動かしました。ご容赦ください)
お断りしておきますが、あくまでもここでの発言は事例研究の当事者としてのものとご理解いただきたいです(一応は協力しましょうということでもあります)。
さて、Mightuponさんのご意見は一般論として首肯できるところがあります。少し前に、とある企業グループに関して「革新的」「草分け」「日本初」といった記述を繰り返しているユーザが入れ替わり立ち代り現れたことがありました。ユーザの中には(明らかに靴下と断定できるユーザも含まれますが)、「情報を追加したのに削除するなんて」と反発する方もいらっしゃっいました。しかし明らかにPOVな記述を放置するわけにもいきませんでしたし、調べてみたら出典はその企業からの一方的な情報のみでした。中には事実でなかった情報もありました。しかもその不実情報をもって「リーディングカンパニーである」と記載されているなど読んだ者を誤認させる情報も含まれていて、上場企業だそうですが取引所に通報してやろうかと思ったことがあります。私は一連の記述をSPAMとして排除しましたが、表現について忠告は受けたものの、SPAMという見方には賛同者がいた一方で全面的に反対する方もいらっしゃいませんでした。またそれらの方々の履歴を見ると、その企業グループに関する記述以外は殆どない、といった状況でした。そうそう、削除した編集者の履歴や利用者ページの記述をあげつらって個人攻撃を仕掛けてくるのも共通していましたねぇ(履歴はその人に対する判断材料にはなりますが、あげつらって非難したり、その人が関わった議論のケツを追い回して、その人に何か言いたげな意見を書き残していくことに利用するのはいかがなもんでしょうか)。
それはともかく、一般論としてですが、表面的には善意の執筆者でもよく見たらSPAMMERだったり、政治的に偏向していたりということは多々ありますので、「スタンスを見る必要がある」というご意見は全くその通りと考える次第です。--Mt.Stone 2008年1月29日 (火) 23:58 (UTC)
現状で、出典のない記述がたくさんあるのは、それでよいと思っている人はいてはいけなくて、何とかしなくてはならないと思いながらも、手が回らないというか温情というか優先順位というか、でそのままになっているだけだと思うのですが。
近所に毎日野良猫にえさをやっている婆さんがいます。当地条例では餌やりはいけないことになっています。一箇所ではなくあちこちでやっているようです。この婆さんが条例について、知らないのか、知っていても自分は良いことをしているのだと思って敢えて無視しているのかは判りません。餌を置くと逃げるように去っていくところを見ると、後者の可能性の方が高いかもしれません。周囲の人は内心苦々しく思いながらも今は黙っています。散らかった餌の後片付けもしています。
役所や警察に通報する人もいて騒ぎにもなったのですが、婆さんの身柄を拘束するとか、反対に条例を廃止、改正するといったところまでは行きません。実社会では顔をつきあわせての話し合いになるので極端なことは起こりにくいのですね。Wikipediaの世界では顔は見えませんが、面前で話せる範囲の遣り取りとしたいものです。--FXECG 2008年1月30日 (水) 01:37 (UTC)
FXCEGのつづき、わるのり。正義感の強い高校生が婆さんを捕まえて警察に突き出した。注意して帰したらまた翌日えさをやった。その翌日高校生がもう一度捕まえたが、近所の人が出てきて動物をかわいがるのがどこが悪いといったので高校生は条例に書いてあると反論した。ところが近所の人は条例より動物の命の方が大事だから条例などクソクラエと応戦した。婆さんは我が意を得たりという顔つきをしていた。--211.14.88.252 2008年1月30日 (水) 04:41 (UTC)
私のコメントに対するご意見と受け止めて返答しますが、出典のない記述が「温情」によって放置されているとお考えなら、ここでの議論を踏まえて改善に動かれたら如何でしょうか、と申し上げる他ありません。がんばってください。
野良猫へのエサ遣りを例にしていらっしゃいますが、条例にはエサを遣った人間は逮捕されると書かれているのでしょうか。特に条例には罰則のない禁止規定が多数ありますから、これもそのひとつで「婆さんに手が出せない」のかもしれません。婆さんに目に見える処置がないのを「具体的な動きがない、その理由は温情」とするのは論理が飛躍しています。ついでに言うと、「周囲の人は黙っている」一方で「通報する人もいて騒ぎにもなった」は矛盾しています。騒ぎになったのにお咎めがないのは前述のように罰則がないか、捜査中なのかもしれません。もっとも、婆さん個人には通達が出ている可能性もあるかもしれないではないですか(申し訳ないけど、学会の例といい、安易な例え話はよろしくないのでは)。
「面前で話せる範囲の遣り取り」についてですが、私、面と向かって「何考えてるんだ、どうせ何も考えてないんだろ」「わかってないんなら黙れボケ」くらいのことはスルっと言う人間なのですが、ネットだと相手の顔が見えないので、例えば(あくまでも例えば)、もしも相手がSPAMMERだとしても、いつも面と向かって言うように「ウンコ蝿みたいにブンブン五月蝿い」と言うわけにもいきません。難しいところです(苦笑)。--Mt.Stone 2008年1月30日 (水) 05:50 (UTC)