Wikipedia‐ノート:検証可能性/中立的な観点との兼ね合い

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中立性との兼ね合い・規制緩和案[編集]

その1[編集]

この方針について気になることはいろいろあるのですが、中立性の方針との関連について少し考えたことを書きます。(アクセスの容易さの問題と、そもそも学術研究の対象にならない事象・側面についての問題などは、他の方にお任せしてここでは省略。。)ドキュメンタリーを典拠・出典とした記述と、ネッシーなどを結びつけている件についての上の議論を手掛かりに考えました。

提案の内容は、8月1日ごろに125.202.238.6 さんが述べられていることにかなり近いように思います。その後の議論は英語版の方針をどう解釈するか、日本語版と英語版の方針の関係は、などの議論になっているようで、以下に書く話とは違っていますが。

ネッシーがいると主張しているDVDを典拠として、「ネッシーを捉えたものと主張されている映像記録もある」と記述し、そのDVDを出典とすることは、あまり問題がないのではないと思います。それに対して、「ネッシーは映像にも記録されている」と記述・主張し、そのDVDを出典とすることは、問題があるでしょう。ネッシーの存在やその映像記録とされるものの解釈は人によって意見が分かれるものであり、そういう点について記事内で特定の主張・断定をするのは中立性の観点に反するので。主流派の説でないものを主流派のものであるかのように書くのも中立性に反しますから、その点にも配慮は必要でしょう。ただ、出典として使ってはいけないかというと、そうではないのではないかなと思いました。

ただ、中でも特に信頼できる情報源に提供されている説明・主張については、それを主流派の説明・主張として扱ってもよい場合が多く、その主流派の意見があまりにも大勢を占めている場合はそれを仮説やひとつの観点のように扱わなくてもよいでしょう。例えば今の日本の通貨単位は円ですが、これは「通貨単位は円である」と断定形で書いてよく、「通貨単位は円であるという見方が圧倒的である」と書く意義はまずないと思います。このような断定形で書いてある場合には、信頼できる情報源に典拠するのはいいが、そうでない情報源に典拠してはいけないだろうと思います。(典拠がなくてもいいという風にも思いますが、それは後述します。)

また、査読を経た学術論文であれば中立的な記述をしているというわけではなく、あえて既存の見方を批判したり、特定の政治的な立場に立って物事について体系的に価値判断を下すことが評価される論文・書籍も社会科学にはありふれていると言えるように思います。そこで、そうした論文の中から恣意的に選んだ数本に、「現代の社会学は21世紀の現実に合わなくなった近代的な物の見方から脱却できずにいる」と書いてあるからと言って、それだけを根拠にそれが主流派の見方であるかのように書いたり、断定形で書いたりするのはまずいわけです。こうした問題は検証可能性や信頼できる情報源の方針だけでは回避できないものだと思うのですが、それはまた別の方針で扱えばいいように思います。(適切な言い方が思いつかないのですが、出典の出しようもない独自研究や、信頼できる情報源がないままの断定などに比べれば、高度な問題のように思うので。

ある情報源を典拠として使う場合の使い方について、便宜的に2つに分けて考えてはどうかな、と思います。ひとつは、ある説が存在していることを中立的に提示するために使うような、例示としての使い方です。書き手はそれを紹介しているだけで、特に支持も反対もしません。この場合には、信頼できる情報源でなくても、その情報源が専門家から信頼されているわけではないこと、その情報源によって例示される見方が専門家の間で支持されているわけではないことが明らかな仕方であれば、使ってもよいように思います。(余談ですが、このような使い方をする場合には一次資料の類を使ってよい場合も多くあるように僕には思えます。特にその資料の解釈について意見が分かれないような点については。)

典拠の使い方のもうひとつは、主流派の見方(因果関係や事実関係の認識)を説明するのに、主流派の文献を使い、それを主流派の見方としてではなく、異論の存在しない真実であるかのように語る場合です。つまり、中立的な紹介者としての書き方をせずに、ある立場を採用してしまう場合です。この場合には、信頼できる文献で、かつ、二次文献であるようなものを複数典拠にするのが理想だと思いますし、学術論文では比較的そういう使い方をよく見ます。ウィキペディアでは、実際には、書き手の事情・限界などにより、著名な二次文献ひとつに典拠する、ということもままあると思いますし、それはまあ当面は現実的な妥協かなという感じを僕は持っています。また、ある分野の入門的な知識にあたる部分ついても、分野内では特に典拠なしで流通している類の知識であるために典拠がつかないといったことがあると思います。(教科書の類を典拠にするのでもいいかなと僕は思いますが。)一般常識に属する類のことであるために出典がない場合もあるでしょう。この辺りまでは、まあ仕方がないかなという感じはします。ただ、目標としては、やはり出典があるのがよいと思いますが。

言いかえると、現在の方針は、信頼できる情報源だけを典拠にするようにという姿勢が強すぎるように思うので、「中立的な観点から例示する際には、様々な情報源が許容されうる。断定形で書くものや主流派の説として書く内容には信頼できる情報源が複数あることが望ましい」、というぐらいがよいのではないかと思いました。

また、中立性の観点から疑問がある場合には、疑問を持った人は典拠を求めることができる、というぐらいにしてはどうかと思います。現在の方針では、出典なしに記述をするな、記載する側が常に出典を出す責任を負う、という風になっていますが、中立な記述であれば、出典なしに記述をしても許容範囲ではあり、中立性の観点からの疑問があるのでなければそもそもやたらに出典を要求し続けるのは迷惑なのではないかなと。

加えて、出典を示す「責任」という言い方は、論争などの場面を想定するとしっくり来る言い方ですが、もっと平和な共同作業の文脈では、それは記事の執筆編集に関わるすべての人が協力して達成すべき目標であって、誰か特定少数の責任として課されるべきものではないように思います。「典拠がない記述を見つけたら、あなたも典拠を探してみてください」という協力呼びかけ調の方針の方がいいのではないかということも思います。

(まとめ)変更を提案したい点

  1. 出典をつけない記述をしてはいけない、という方針を変更して、記述には出典をつけることが推奨される、に。
  2. いかなる記述についても信頼できる情報源に拠らなければ加筆できない、という方針を変更し、断定形で書く内容や主流派の説として書く内容には、複数の信頼できる情報源が典拠として示されていることが望ましい、とする。ある観点・立場などが存在していることを中立的な立場から示す場合には、他の情報源でよい場合もある、とも。
  3. 典拠のない記述は除去されても文句が言えないかのような今の方針を変更して、記述内容に問題・疑問がある場合には、典拠を求めることができ、典拠がなければ除去もできるという風に変更する。問題や疑問は、以下のようなものを含む。
    • 記述内容が中立性を欠いている場合:異論があるはずなのに疑問の余地のない説であるかのように書いている、主流派でないはずなのにそうであるかのように書いてある。
    • そもそも典拠がない、誤解やねつ造だと思われる記述。
  4. 典拠を提示する義務が執筆者だけにあるという方針を変更し、典拠を探す作業には、論争などの場面以外では、典拠を求める側も協力することが望ましいとする。
  5. 典拠の提示を求める人は、どこに疑問や問題を感じたのかを示すように努める。
  6. 誰でも無条件に典拠を求めることができるようにもとれる現在の方針を変更し、問題・疑問のない記述について典拠を求めるユーザーは、悪質であれば、「他の執筆者との協調が図れない」として被害を食い止めるために投稿ブロックの対象にもなりうるとする。

今の方針だと、これをみんなに適用すればウィキペディアの活動に支障が出るように思います。現実的には一律適用などはせずに、特に怪しい人や内容に対して出典を要求しつつ他の人には出典を要求しない、という恣意的な適用になってしまうと思います。そこで、中立性が確保されているようなら典拠がないことだけを理由に記述を除去するようなことはしなくてもいい、典拠がなくても加筆してよい、中立性は確保されているのに典拠の要求を続けるような行為は迷惑、と、いわば中立性の方針より少し下に位置付ける形でもいいのではないかなと思いました。

別の文脈で既に否定されている意見のようでもあり、いずれにせよかなり大きな変更ですので、賛同を得られるかどうかはわかりませんが、とりあえず提案でした。

Tomos 2007年9月20日 (木) 08:44 (UTC)

本方針を盾にした一方的編集除去の風潮は、プロジェクトに悪影響があるのではないかと危惧していました。現在の方針では、方針の運用が恣意的にならざるを得ないという点を含め、中立的観点との兼ね合いに着目されてのご提案に深く同意します。--みっち 2007年9月22日 (土) 06:05 (UTC)
上記のうち、典拠を確定する作業には執筆者以外も協力すべきだ、というのは、加えてもいいようにおもいます。この点には賛同です。
たとえば最近では ノート:アンガウル州#日本語の扱いについての議論なんかはそういったものでしょう。単に「典拠がないから削除しよう」という結論に至っていませんし、「間違っているから削除しよう」という意見が大勢を占めたわけでもありません。さらに言うと、「典拠があるから削除しない」という結論が導かれたわけでもありません。 WP:VWP:RSは本来、このような議論を通して記事をよいものにしていくためにあるので、論争に勝つためにあるのではないはずです。
そのほかの点についてTomosさんの提案している「変更」というのは、いまの方針とそう変わらないようにおもいます。
  • 「出典をつけない記述をしてはいけない」という方針はないです。出典を示すよう求めらたら答えられるようにせよ、というのが現状の検証可能性の方針だと理解しています。ぎゃくに言うと、出典の有無と無関係な編集除去はいくらでもあります。
  • 情報源の信頼性についても、「信頼できない信頼性の低い情報源は一切使用するな」という方針はないです。信頼できる情報源がどうしても見つけられないが有用な記述を残したければ、みつけられた情報源を示して信頼性は読者に判断させよ、というのが現状の方針だと理解しています (ついでに言っておくと、「情報源の信頼性を検討しなくてよい」という話ではまったくありません)。
  • 当ノートの議論でもしばしばそうですが、中立性と「正しさ」が混同されることがよくあるようにおもいます。中立性や検証可能性の方針はむしろ、執筆者が正しさを判断することはさけるべきだ、と述べているとおもいます。
    • にもかかわらず実際には、典拠を求める動機というのは基本的に「正しさ」に疑問がある場合です。ウィキペディアの方針は「正しさ」を判断することを回避するようすすめているのですから、そういうことがまれなことであるのは当然です。一部の記述や執筆者にかたよることを心配する必要はないとおもいます。
  • 「問題・疑問のない記述について典拠を求めるユーザー」であるかどうかや、それが「悪質」かどうかなんていうことを、現行の方針に加える必要はないとおもいます。それは個々の記事の編集方針や、ユーザの行動規範として話し合われるべきことです。当ノートでもしばしば、自身の記述を正当化するために方針をひきあいにだす例が見られますが、そのようなことが起こるのは方針自体に問題があるからではないでしょう。
長くなったので、しばらく当ノートでの発言を休みます。 --Hatukanezumi 2007年9月22日 (土) 12:10 (UTC) 修正。ウィキペディアの方針はone or nothingではないので。 --Hatukanezumi 2007年9月22日 (土) 13:56 (UTC)

確かに争いばかりでは困りますよね。ただ「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」のどこをどう解釈したら、「出典なしでまず書いていい」という結論にいたるのでしょうか。もちろんより良い出典に差し替えてゆくことには賛成です。それよりもまず大切なのは、記述した時に「信頼できる情報源」があるかどうかです。個々人の意見は貴重なもので、大変勉強にはなりますが、まず現行の公式な方針を尊重していだだけないでしょうか?(公式な方針は「盾」ではなく単に「公式な方針」です)

また、「出典はみんなで探せば良い」には明確に反対します。これは例えば編集者の実名明記のようなプロジェクトであれば有効だと思いますが、現状の匿名制では、いたずらに管理者を疲弊させるだけであろうと思います。Wikipedia:雑草取りも出来なくなりますし、トンデモ論が出てきたときに「君たちも出典を探しなさい」と言われてしまえば、いつまでもトンデモ論が除去出来ません。--Album 2007年9月22日 (土) 13:27 (UTC)

みっちさんは賛成、Hatukanezumiさんは一部賛成、反対はないが現行方針でそもそも僕の提案とあまり違わない状態にある、ということで同意見に近いかなと受け止めました。
AlbumさんはHatukanezumiさんの解釈と対立していますが、僕も、現行の方針ではAlbumさんのような解釈が十分成り立つと思うので、それよりも書き換えをする方がいいのではないかなと感じました。(Albumさんは書き換え自体には賛成ではないようですが。)
トンデモ論であっても、それがトンデモ論として紹介されていて、他の説の紹介と不釣り合いな分量を費やして紹介されているわけでもないのであれば、それ自体としては大きな問題ではないような気もします。あまりに突飛な説なら出典もなしにそれを紹介していること自体がウィキペディアの信用を損なうかも知れませんから、除去するのも一案でしょう。そうではなく、まともな出典は知らないものの聞いたことがあるようなトンデモ説だったり、検索エンジンで調べるとまともではない出典は多く見つかったり、多くの読者にとってはどうでもいいトンデモ説だったりするなら、要出典タグをつければいいと思います。
出典が必要だけれども見つからない場合には、除去するのも手ですし、要出典タグをつけて放置するのも一案でしょう。コメントアウトが適切な場合もあるかも知れません。それは個々の記述内容がどういうものか、どの程度長期的に要出典タグがついているか、などによって扱いを変えるのが理想かなと思います。
雑草取りができない、という意見は僕が何か誤解をしているのかも知れませんが、探せば出典が見つかるものなら除去するよりも見つけることの方がウィキペディアにとっては望ましいことのように思います、見つからなければそれをノートページで報告するといった形で貢献できますし、記述の除去がすぐにできないというのは、それはそれで構わないのではないか、というのが今のところの意見です。
存命中の人物についての記述や、法人についての記述などであれば、信頼できる出典がなく、その人物の名誉やプライバシーに関わる事柄であれば容赦なく除去する、あるいは削除依頼にかけるというような厳しい扱いでいいかと思います。(名誉毀損については、噂とか、他の報道機関の報道内容とか、専門家の発言であっても、それを紹介するだけで名誉毀損だとされてしまったケースが判例上はあるようですから、特に注意が必要なのではないかと思います。)
また、一般に、読者にとって意外な点や、論争の的になりやすい内容を述べている部分などについては出典があるべき、意外性が大きいものは、出典がないなら除去なりコメントアウトするのでいいのでは、ということも思います。
Tomos 2007年9月24日 (月) 22:15 (UTC)
「出典無しの記述はいけない」の原則を緩和することには賛成しかねます。「削除されても文句は言えない」というのはある種厳しい表現ですが、これはそういう表現を用いるほどに重要な基本方針なのだと私は解釈するからです。他の参加者が出典を参照できなければ、その次に起こるであろう情報源の質の上下や中立性についての議論が難しいもしくは不可能になる心配はありませんか。
感情的な編集合戦や、まだ参加したばかりでルールをよく知らない方のやる気を殺ぐことを避ける方策も必要でしょう。その場合、例えば上記原則はそのままにして、運用方法で対応することはできませんでしょうか?
ここは Tomos さんの御意見と重複しますが、要出典を貼り付け後一定期間経過したらコメントアウト、さらにその後一定期間経過で削除、ただし、存命人物の伝記に関しては、このルールを利用して一定期間削除されずに残っていることを目的とした記述が横行する心配がありますので別途例外条件を設ける、など。--Panpulha 2007年9月25日 (火) 03:03 (UTC)

検証可能性は、百科事典の質を保証し、共同作業を可能にするために必要なもので、どちらかというと、中立的観点よりも上位というか、先に立つものと捉えるべきだと思います。

まず、ウィキペディア外にある情報源で確認できる情報のみがウィキペディアには書かれている。ただし、出典があれば掲載が保証されるのではなく、出典がある情報の中から、何をどのように選んで本文の記述とするかという指針・基準の一つが中立的観点で、そこでは、より信頼できる情報源が必要とされる、ということではないでしょうか。

少なくとも、これから書く人に対しては、強い表現で望んでもよいと思いますし、出典の明記がなければ除去される可能性を示唆すべきでしょう。義務は、執筆者に残すべきでしょう。執筆時に参考にした資料を記述することは、後から調べることに比べてはるかに容易であり、確実です。先行研究に対する敬意を示すものでもあります。いわゆる論文作法として一般的な行為を、論文を書いたことがない人も従ってもらう、という意味でも、義務づけるという制度が必要だと考えます。

他方、既に書かれた分については、いちいち要出典テンプレートを貼って廻るのではなく、第一には自ら出典を探す、あるいは自分なりの情報源を元に編集して出典を示すべきですし、それが困難なら特に問題がありそうな部分について貼るというのが現実的だと思います。論争となった場合、論点が出典の要不要に向くこともありますから、そうではなく、不要と思われるような記述であれば、最も信頼できる出典、もっとも一次情報に近い情報源、一般的に検証しやすい情報源を複数挙げるなどして、解決するべきだという方向性を付けるのがよいと考えます。

文句は言えない、というのは、維持してもいいですし、表現として除去してもいいと考えます。除去してもいいし、典拠を求めることもできるが、執筆者に配慮し、どの部分について、どういう根拠を求めているかを明らかにし、対話を続けることが望ましい、という旨の文章を加えるということでどうでしょう。中立的観点や独自研究、存命人物の伝記などでは、単なる検証可能性以上のものが求められたり、出典なき場合は積極的に除去したり、ということになるでしょう。

典拠のない記述は、それだけでも問題・疑問のある記述ではないかと思います。方針について執筆者に説明を怠った場合や、出典を必要とする度合いを考慮に入れず無差別にテンプレを貼ったり、逆に特定の執筆者の投稿記録を追うように貼ったりする場合は、ウィキケット違反や方針の濫用、個人攻撃、あたりを理由にブロック対象とする、という形が収まりがよいのではないかと。--Ks aka 98 2007年9月25日 (火) 16:47 (UTC)

ウィキペディアの「三大方針」は相互補完的に並び立つものであって、どれが上とか先とかいうことではない、と認識していましたが、違いましたか?
私はウィキペディアの方針は、規則というより方向性、いわば「めざすべき」目標ととらえており、高い峰の裾野は広くあるべき、というのが基本認識です。しばりをかけすぎると、プロジェクトを萎縮させる危険があると考えます。なんであれ物事にはメリット・デメリットがあり、「強い表現」や「厳しい表現」にもメリットがあることは否定しません。しかし、この方針は使い方を誤ると記事破壊につながる恐れもあります。「検証可能性」を盾に「書くな、書いたら消す」という風潮が起こったことによって、さまざまな項目で対立・衝突が生じていることは、現状ではデメリットの方が強く出ていると感じます。意見が割れるのは、おそらくこのあたりの受け止め方に違いがあるのだろうと思います。
また後段で「ウィキケット違反や方針の濫用、個人攻撃、あたりを理由にブロック対象とする」としておられますが、Ks aka 98さんの言葉を一部借りれば「すべての方針の上に立つ『検証可能性』に基づく対処こそもっとも正しい」という反論が見えているだけに、そういうのは勘弁してもらいたいというのが率直なところです。いま必要なのは優先順位や1点強調ではなく、解釈や運用上の均衡がとれているか、行き過ぎが生じないかを吟味することではないかと愚考します。--みっち 2007年9月26日 (水) 03:28 (UTC)

ID取得したばかりのもので僭越ですが、記述には原則出典が必要というのを緩和して、多くの編集者による出典探しに期待するとした場合、本当にそのことで「より質の高い百科事典」になるか否かをみんなで考える必要がありましょう。もっともその前に(質)について議論する必要があるかもしれませんが。--FXECG 2007年9月26日 (水) 03:40 (UTC)

「書くな、書いたら消す」のデメリットと言われますが、ありますか。何人かで立小便をしてそのうち一人だけが警察に捕まり、自分以外にもやってるのにと言ってひがんでいる人と同じではありませんか。--FXECG 2007年9月26日 (水) 11:01 (UTC)

いろいろ意見が出ていますが、以下の2点については合意が形成できるかも知れないな、と思いました。いかがでしょうか。

  • (対人関係的な要素への配慮)出典がない記述の除去についても、ウィキケットに反するようなものまでが許される、奨励されるというわけではなく、他の参加者との協力的な姿勢が大切。
  • (問題の深刻さへの配慮)出典がない記述の加筆は、対処を必要とするとしても、その対処にはタグづけ、出典を探すこと、書き換え、コメントアウト、除去、など様々な形があり、問題の深刻さや状況などを勘案して対処することが望まれる。即時除去というのは、問題が深刻な場合(現存する人物の評判を傷つけるような記述に出典がない場合など)には適切だが、適切ではない場合もある。

これは、Panpulhaさんが表明されている考え方に近いかと思うのですが、「全ての記述には出典がついているべき」という方針は原則として維持しつつも、その原則から外れている文章の扱いについては、必ずしも除去を奨励ないし肯定しないという考え方になるかと思います。

より具体的な案について述べる前に、中立性の方針と比較して次のように考えてみました。

中立的な観点の方針に反する記述は禁止されている。違反を繰り返す人にはプロジェクトへの参加を断念して頂くこともあり得る。中立性を欠いた記述は、その中立性の欠如のもたらす問題の大きさ等に応じて、除去、中立化のための書き換え、コメントアウト、タグづけ、削除依頼、などの対処の引き金になる。ただ、日本についてのみ書かれていてバランスを欠いているような一部の問題については、除去が得策ではないために放置されているか、タグづけはしてもそこから先へは進まないこともある。芸術作品や芸術家の作風なども、その形容を中立的に行うことは難しいために、著しい問題がなければ多少中立性を欠いていても放置されていることがある。(放置するべきなのかどうかについては意見が分かれるような気もしますが。)他にも、中立性を欠いていてもその逸脱が著しくなかったり、ささいな点について中立性を欠いているだけであれば、加筆修正を待つということもある。中立性を欠いているという理由だけで、深刻な問題をもたらすわけではない記述までも消して回るような行為は、中立性の方針によって肯定されるわけではない。

これと同じように、出典を欠いた記述も、禁止されている。出典のない加筆を繰り返す人にはブロックもあり得る。出典を欠いた記述は、それが引き起こす問題の大きさ等に応じて、除去、出典の追記、コメントアウト、タグづけ、などの対処の引き金になるし、一部の問題については放置されることもある。出典を欠いているという理由だけで、深刻な問題を引き起こすわけでない記述までも除去して回るような行為は、検証可能性の方針によって肯定されるわけではない。

中立性の方針には、「どのようにして中立性を実現すべきか」「中立性を欠いた記述についてどう対処すべきか」についてはそれほど多くの定めがありません(安易な削除を否定する節はありますが)。ひとつのアプローチとして、検証可能性の方針もそのように対処についてはあまり述べずに、慣行が形成されるに任せる、というものも考えられるところです。現在の方針が、読み方によってはかなり強硬な対処を肯定するものになっていることには、名誉毀損系の問題への対処、予防の狙いもあると思いますが、それを切り離して、存命人物についての記述の方針に任せてしまうこともできますし、ある程度条件を絞り込んで、即時除去などの対応が適切な場合があります、とするのもよいと思います。

ですが、もう少し細かく指定するとしたらどういう風になっているのがよいか、ということも考えてみました。これは、方針ではなくてせいぜいのところ指針程度の位置づけになっている方がいいのかな、という風に思うところもあるのですが。。

  1. 原則として、出典の欠如が問題である場合には、盛んに編集されている記事については、ノートページやタグを通じた執筆編集者への呼びかけが、コメントアウトや除去や削除依頼に優先されるべき。特に、その記事で扱っている主題についてよく知らない人が対処にあたる場合にはそれが推奨される。(主題についてよく知らない人が対処にあたること自体は、問題ない。)
  2. 法的な問題に関わる記述(名誉毀損、プライバシー関連)は、出典の欠如がすぐに解消されない場合には除去や削除が適当。
  3. 存命中の人物、没後間もない人物、法人についての、名誉・信用を損ないかねない記述は、複数の信頼できる出典が出なければ削除依頼か除去を検討すべき。
    • (複数の信頼できる出典があれば、名誉毀損が成り立つ恐れがないかというと、そこまで断言はできないような気がしますが。)
  4. プライバシー(一般人の感じ方を基準に、当人の立場に立った時に公開して欲しくないだろうと思われるような事柄全般)、センシティブ情報と呼ばれるようなもの(病気、宗教、障害、差別に結びつくその他の情報)なども、それが明らかに公表されている情報でなければ掲載すべきではないため、信頼できる出典がなければ、削除依頼か除去を検討すべき。
    • (もっとも、職業別電話帳に掲載されている電話番号をネットに掲載したことがプライバシー侵害とされた判例などもありますから、出典がきちんとしていればプライバシー侵害を回避できるという保証までは得られないのかも知れませんが。)
  5. 法的な問題に関わらない問題は、Wikipedia:修正依頼の提出など、当該記事に関与していないけれども対処に協力できそうな人への呼びかけも奨励される。
  6. 政治、宗教、差別などの論争になりやすい点についての記述で、かつ、意外性があったり注目に値する情報は、要出典タグをつけてしばらくしても出典が出なければ、コメントアウトなり除去なりをするのが適当。
  7. 読者にとって意外な情報や、常識や直感に反する記述、素人が間違いやすい点についての記述や、注目に値する内容一般は、出典がなければ、タグをつけることで、読者に注意をうながし、執筆者に出典明示を依頼することは奨励される。長期間に渡って出典がつかなければ、コメントアウトや除去もありうる。記事全般にそのような箇所が存在し、改善が見込めなければ削除依頼にかける。
  8. 中立性の観点からは問題がないが、出典を欠いている場合は、基本的に加筆修正で対処する。

こうした、やや具体的に踏み込んだレベルでどの程度合意ができるものなのかはわからないのですが、とりあえずそれを伺い知るためにも叩き台を出してみました。Tomos 2007年9月26日 (水) 15:52 (UTC)

「いきなり削除」ではなく(しなくてはならない記述もありますが)、「タグ付け、コメントアウト、除去」の順番を踏むという方向に概ね賛成です。ただし、一定期間(これをどの程度とするかも議論になるでしょうが)出典が付かなかったら最後には必ず除去されるという条件を付けたいですね。それと、「中立性の観点からは問題がないが、出典を欠いている場合」というのは、例えば工学分野の記事などにおいてはしばしば発生することで、「明らかに」とまではいえないにせよ「かなり」デタラメに思われ、且つ出典が無い、しかし中立性には問題が無いといった加筆編集に対して「基本的に加筆修正」では対応できないケースが想定されます。--Panpulha 2007年9月27日 (木) 10:59 (UTC)
(競合しましたが気にせず)えーとまず、進めて行く方向性について、Tomosさんの考え方には同意できるところが多いです。なので「静観しとく方がいいかな」とも思ったんだけど、ただ、そもそものスタートラインのずれというか、意外とコアな部分で気になることがあるので、ちょっとコメントを。
個人的には、ある記述を残すべきか否かについて考えなければならないのは、「中立性」ではなくて「記述の信頼性」そのものの方である、と考えてます。検証可能性や独自研究の排除は、「ウィキペディアにはこう書かれてるけど、信頼していいの?」という部分を保証する、いわば「百科事典として満たさなければならない(最低限の)条件」にあたるものであって、それは、ウィキペディアが「百科事典としての」独自の編集方針として打ち立てているNPOVよりもプリミティブな部分にあたる(どちらかというと、そもそもの「百科事典である」に係る)条件だと考えます。多分、上でKs aka 98さんが述べておられることも、「上下」などの言葉の使い方には問題があったのかもしれないけど、僕と似たようなものを感じているのではないか、と思いました。ウィキペディアで言う「中立性」ってのは、そもそもそれぞれの論が「信頼できる」というのがまず大前提として「先に」あって、それから初めて議論できるものだと思うからです。
もちろん、「中立性」と「信頼性」という両者は(さらに「正しさ」という考えを含めた三者も)、比較的重なるところが近いのだけど、かと言って、同等のものとは言えません。この部分が、Tomosさんの提案について引っかかっているところです。本来ならば「信頼性」という枠組みで語らねばならないところに、中立性という「軸がずれた」考え方を導入していることで、うまく説明できないんだけど何と言うか、全体的にひずみを生じさせているような違和感があります。この手の「ひずみ」を残していることで、現在はまだ見えてこないような問題が後で発生することにつながるんじゃないかということを感じるんですね。まぁこれはあくまで「感覚的」な問題だから杞憂に終わればそれでいいと思いますが、個人的には、この手の話を進める場合には「愚直なくらいに王道的に進める」方が、後で問題になることは少ないという、経験則みたいなものを持っているので、「中立性」を持ち出すよりは、下の方でTomosさんも述べておられるような「信頼性」を、はなから押し出していく方が上手くいくんじゃないかと思います(何せ、感覚的な違和感を伝えようとしてるので、上手く意図することが伝えられてないかもしれませんが、ご容赦を)
で、具体的な個々の方針について、この立場から考えると、「信頼性が低い記述が書かれたときに、どう対処するべきなのか」というケースへの対応が弱いように感じます。例えば、信頼性の低い記述の中には「本当かどうかよくわからない」という内容から、「明らかな間違い」というもの、あるいは「風説として広まっているけど、実は本当でないことが現在では証明されている」ようなものまであったりします。僕は執筆する際に、よく「この記事の完成形はどうあるべきなのか」を想定しながら書くのですが、ここで言う「明らかな間違い」というのは、記事の完成形に至るまで、途中で取り除かれなければならないような内容のものを意味してます。そして、こういう「明らかな間違い」は、できればスムーズかつ速やかに取り除かれるのが望ましい、と思ってるわけです。こういう記述、つまり将来取り除かれると判断されるものについてまで、「要出典」によって出典が出されるまで待つというのは、むしろ対処としては間違っていると考えます。そうではなくて、ある出典未記載の記述について、(1)典拠なしでも「信頼できる」と、その人が「判断」すれば(その人が)対処する必要はない、(2)「信頼性に疑問がある」と判断し、かつ妥当な出典があることが予想されるなら「要出典」を貼って待つ、(3)「信頼性に疑問がある」と判断し、かつ妥当な出典がないことが強く予想されるなら「除去」、というのが、「信頼性」を軸にした場合の、本来行うべき対処の振り分けなんじゃないかなと。もちろん、単に「除去」だけだと、トラブルの元なので、スムーズに進むように、自分がそう判断するに至った理由を、要約で述べるなり、必要に応じてノートで議論する等の、説明する必要はあると思いますが。
多分、お気づきだとは思うんだけど、これは結局、判断する人の「判断の是非」というものに負う部分が大きいです。なので、もしいたずらに「出典がない」という一点のみを理由に、記述を除去しまくるような人が現れたら、「(1)と(3)を区別する判断力に欠ける」という理由ということから、本人の判断能力の是非を問うことで、抑止することができるんじゃないかと。もちろん、一つや二つ、あるいは一割くらいの間違いや判断ミスは誰にでもあるものだから、それだけで「判断能力の是非を問われる」のはたまったものではありませんが、それを連発するような人に対しては、何らかの手法で抑止できるようなシステムは必要だと思いますので。例えば、10個の記述を除去したうち、そのうちの8個くらいが「適切な出典付きで復帰」されるようなら、打率が低すぎるとでもいうか、「この人の判断力が疑わしいんじゃないか」とかいうことの一つの証拠になるんじゃないかと。--Y tambe 2007年9月27日 (木) 11:44 (UTC)
Y tambe さんの、検証可能性が「NPOV よりもプリミティブ」の部分に賛成です。先に書きましたように、検証可能性の無い事柄で中立性を議論することは難しいか、場合によっては無駄になりかねません。
「判断の是非」の部分で仰りたいことにも同感です。「…の場合は即時削除してよい」といった条件を設けた場合、「…の場合」に該当するしないで新たな紛争を招きかねません。この種の紛争の発生が目に浮かぶと、どうしても「安全側」を選択(先日お前は三大方針原理主義者か、とのメールもいただきましたが)したくなってきます。
「10 個の記述を除去したうち、そのうちの 8 個くらいが『適切な出典付きで復帰』」については、誤解を承知でいえば、そういう除去を行った編集者とは、むしろ「功労者」であると考えることもできませんか? 出典があることが確かなら本文にそれを明示する必要は無いというのなら別ですが。--Panpulha 2007年9月28日 (金) 03:28 (UTC)
コメントありがとうございます。三番目のポイントについてのみ、私の考えを述べさせてもらいます。結論から言うと、記述を除去することで最終的に出典付きで復帰されるという「結果」につながったということから、「功労者である」という「解釈も可能」だと思います。ただし、その一方で、それが損失につながる危険性、デメリットも大いに含んだ方法なので、手放しで「功労者」と考えることは危険だし、推奨すべきではないだろうと。またそのように(手放しで推奨できないと)判断する方向にウィキペディア全体の状況も推移していくだろう、と考えます。
これと全く同じ構図のものとして、「スタブやサブスタブ項目の削除」の是非を巡る議論を挙げることが出来るでしょう。これは1-3年前の日本語版ウィキペディアで、しばしば議論されたテーマです。一定基準に満たない書きかけの記事に対して、それを放置して加筆を待つのがいいのか、あるいは削除依頼にかけて「一定期間内に加筆されなければ消す」と宣言し、「加筆か削除か」の選択を迫ることで加筆の原動力にするのがいいのか、というのが大きな争点となりました。確かに後者の方法は即効性があって、効果が出てるのが分かりやすいものではあるのだけれど、そのたびに参加者にとっては余計な手間を生むだけの騒動を生み出すものでもありました。結局のところ、後者を強行する路線は一部の人がゲリラ的に試みては、そのたびに周囲からの反対によって排除されるという形で収束し、現在もコンセンサスを得るには至っていないというのが現状だと思います。
「出典のない記述は原則として一旦除去すべき」と主張し、実際にそういう行動を強行的に進めようとする人は存在しますし、それによって「出典を伴って記述を復帰する」という事例も出てくるとは思います。そしてそれは、即効性があるから、とても「効果がはっきりとある」ように見える魅力的な考えでしょう。しかし、その「即効性」だけに目を奪われるのではなく、それによって生じるデメリットにも十分配慮する必要があります。私は、過去のサブスタブ項目削除の事例から、おそらく「出典のない記述の原則除去」の強行も、周囲の反発によってそのつど排除され、より穏当な方向にシフトするんじゃないかと予測しています。
もっとも、そういう「騒動の現場」をいくつか実際に目の当たりにして、ようやくその問題点に初めて気付くという人も、コミュニティの中にはいることでしょう。特に新規に参加された人ならばなおさらです。しかし(語弊があるかもしれませんが)「過去の失敗」から学んで、その経験を生かすことでトラブルを回避するということが、物事をスムーズに進める上ではとても有用だと考えています。--Y tambe 2007年9月28日 (金) 04:14 (UTC)

(インデント戻します)「誤解を承知で」と前置きしたのは、編集時に横着をして(例えば当該書物が自分の書棚にあるのは判っているが引っ張り出すのが面倒とか)出典を書かず、誰かに指摘されてはじめて出す、あるいは誰かがやってくれるのを待つという人は結構いるはずで、そういう人達に注意喚起したいという気持ちからでした(また、そういう人に限っていきなり除去されると怒り出すという傾向も感じます)。「いきなり削除」が様々な軋轢を引き起こすというのは段々と判ってきましたが、「要出典タグ」をつけるのもまずいのでしょうか。タグ付けされただけで興奮するような人はそもそも執筆編集には向いていないのではと思うもので。--Panpulha 2007年9月28日 (金) 12:35 (UTC)

こんばんは。Y tambeさんの「明らかな間違い」の扱いについてですが、「中立性」の方針だけによって説明してみます。
中立性の方針は、ある事柄を説明する時に、主流派の説明は主流派の説明として、少数意見は少数意見として、しかるべき扱いをするべきであるという風に定めたものだと思います。例外的に、圧倒的に支持されているような説については、主流派の説明をそうと断らずに単に異論の余地がない説明であるかのように述べることもできると思います。(中立性の方針にはそうは書いていませんのでこれは僕の解釈ですが。)上に出した例では「現代日本の通貨単位は円である」という説がこのような圧倒的に支持されているような説にあたります。
ここで、「現代日本の通貨単位はドルであるという説がある」とか「現代日本の通貨単位はユーロである」とかいう説明があれば、これはありもしない説をあると述べているとか、掲載する意義すら疑わしいような例外的少数意見を一定の支持を得ている少数意見のように述べているということになりますから、中立性の方針に反しています。
(もちろん「明らかな誤り」と言うこともできると思いますが、そういう「真実性」の基準を使っていいことにすると、真実を知っていると主張するいろいろな人が自分の知っている真実に照らして明らかに誤っている記述を除去しかねません。これはもちろんウィキペディアで歓迎できることではありませんから、一応中立性という概念にこだわって、真実であるかどうかはともかく、主流派の説を主流派の説として書いているかどうかなどが問題なのだという風に考えておくのも悪くないのではないでしょうか。)
では、中立性に問題があるこのような場合にはどうしたらいいかというと、上に挙げた僕の個別案のどれもちょっと該当しなさそうです。(つまりY tambeさんのご指摘通り、こういう問題への配慮が手薄だったように思います。)
タグを貼るだけで放置するべきという風にするのはまずいだろうというのは同感です。そこで次のようなものを追加してはどうかと考えてみました。
  1. その他、少数意見でしかないものを多数派の意見であるかのように書いてある場合など中立性に問題がある場合は、書き換えによって対応。
  2. 以上はいずれも、過熱することなく出典の欠落に対応するためのガイドラインなので、判断に自信があるならより迅速に除去などで対応してもよい。ただし、この点の判断を誤って有意義な記述を本文から除去してしまうことは記事の発展の妨げになるため、自信がなければ他人の意見を時間をかけて募るなどより慎重な対応をとることが適当。
  3. また、このように迅速に除去した場合には、原則としてノートに説明することが望ましい。但し、明らかな誤記や荒らしなど、不要な場合もある。
というぐらいでどうでしょうか。
中立性に問題がないけれども出典のない記述というのは「現代日本の通貨単位は円である」と書いてありながらそこに出典がついていないようなものを想定しています。これをどうするかというと、除去したりコメントアウトしたりする必要はないだろうというのが僕の考えです。Panpulhaさんが賛成して下さるかどうかなど、ちょっとよくわかりませんが。いかがでしょうか。 Tomos 2007年9月28日 (金) 14:45 (UTC)
「明らかな間違い」というのは言葉がよくなかったですね。ただ、私が指摘したいのは「真偽」や「中立性」の問題ではなくて、「信頼性」という考え方なので、その部分は「明らかに虚偽の(信頼性がない)記述」という語あたりに置き換えて考えていただければと思います。と、お返事した上で、三点ほど。
まず「中立性」という考え方をここで持ち出すことについては、やはり誤解を生む原因になるため避けるべきではないかと思います。この理由として二点あげます。
まず一点目は、ここでは「信頼性」という文言での説明が十分可能であり、中立性について触れる必要性はないのではないか、また単に「必要性がない」だけではなく、記述することによって、却って方針の理解を妨げるのではないか、ということです。
Wikipediaにおいて「中立性のある記述」というのは、基本的には、主流派の見解を示すだけではなく、その必要性に応じて非主流派の見解を非主流派のものとして示す、すなわち「複数の見解があること」を示すことによって確保されるものだと理解しています。ウィキペディアにおける「中立的な観点」の主軸は、まさにそこにかかっている。Tomosさんがここで述べておられる「中立性」は、確かにこの定義に適うものではあるのだけれども、その中でも一部の事例のみを指すもの、すなわち「主流派の見解が、疑いのないものとして広く受け入れられている」ケースのみにあたるのではないか、と考えます。一方で、ウィキペディアにおいて「中立性がある記述」というのは、これよりもさらに該当する範囲が広く、複数の内容をバランスよく記述したものによって「中立性」が確保されたものについても認められるものだと。しかし、この後者について「記述全体として中立性が保たれているのだから、中立性の問題はない」として、出典明記の例外になるかと言われると、なりません。Tomosさんも述べておられるように、この場合は個々の内容に関しての典拠が要求されるわけです。ならば、問題の本質は「中立性があるかどうか」ではなくて、「疑いのないものとして広く受け入れられている主流派の見解かどうか」ではないでしょうか? それならば「中立性」という考え方をここに嵌め込む「必要性」があるのか、ということを指摘したいわけです。
恐らく、中立性をここに嵌め込むことは可能であって、さらに「中立性」についてきちんと理解し、突き詰めて考える(いわば「中立性」というパズルのピースの形を正確に認識している)人にとっては、ここに「中立性」というパズルのピースが嵌まっていても不自然には感じないと思います。でも、それは何と言うか、現段階では彼らの「胸の内」に止めておいてもいいんじゃないかな、と思うんですね。あるいは、こういった議論の際に述べる分にも問題ないのだけれども、わざわざ方針の文書に嵌め込む必要性はないというか。特に、このケースでは「必要性がないから、載せても載せなくてもどっちでもいいよね」とは言えず、「載せることで、誤読に伴うトラブルが頻出するリスクがあるんじゃないか」ということを指摘したいわけです。ウィキペディアにおいて「中立性」という文言は、重要なものであると同時に、もっとも誤解されやすい文言でもある。そこらへんの部分が、「中立性」という考えをこの内容に持ち込む際に「ひずみ」を生じさせるのではないかと考えてます。
二点目はもう少し実際の運用レベルの話になりますが、「信頼性/中立性があるとは言いがたい記述が出典なしで書かれ、執筆者が『この方針に従う(信頼性/中立性)のある記述であるため、出典を出す必要がない』と主張した場合」に、どういう対応ができるか、という点についてです。多分、信頼性と中立性のどちらを採択してもゴネる人はゴネるでしょうけど、どちらが本来の目的から話題を逸らさずに議論できるかというと、私は「信頼性」の方だと思います。基本的に、ウィキペディアにおいては「参加者の発言」は信頼性の担保にはなりませんから、極端な話「お前一人が言うことでは信用できない。他の証拠を出せ」という方向に議論を向けることが、そのまま「信頼できる情報源」の収集につながりますので。これが「中立性」を持ち出すところから議論するとなると、いかにも迷走しそうというか。
多分Tomosさんの提案の目的は、このようなケースではなく、むしろ「出典の明記が不用なほどにコンセンサスを得た記述が、出典の非明記を理由に安易に除去されるのを避けたい」という部分にこそあると思いますし、その点については私もまったく同じ立場です。ただし、この立場に立つ者こそが、「同じ立場のフリ」をして自分に都合のよい方面に悪用されることに対して、もっとも強く危機感を持たなければならないと考えています。いささか逆説的ですが。
それから、最後に三点目の指摘ですが、「『現代日本の通貨単位は円である』と書いてありながらそこに出典がついていない」というものについて。私は、これは「検証可能性」の例外ではなく、「出典を明記する」の例外なのではないか、と考えますが、いかがでしょうか? つまり「書誌文献によらずとも、想定される参加者のほぼ全員に検証が可能であり、コンセンサスが得られている」ということから、特定の出典を示すことを省略してもよい、という位置付けであり、これは「検証不能」にはあたらない、という考えです。
位置付け的には、「(信頼性の確保)>検証可能性>出典の明記」という階層で考え、「検証可能性」を満たすための手段の一つとしての「出典の明記」という下位の規定の例外にあたる。
「現代日本の通貨単位は円である」という例は、もし出典を要求されたとしても、根拠となる法令文書なりを示すことで、「出典明記」を満たすことができると思います。しかし、かと言って、このような例外規定が不要かというとそうではなくて、ごくありふれた自然現象、例えば「太陽は東から昇って西へと沈む」という記述に対しては、私はむしろ「出典を明記する」ことが妥当とは言えない、と考えます。恐らく、このような現象を記述した文献などはいくらでも存在します。しかし、それが果たして「典拠として妥当なのか」ということを考えると、凡百ある文献の中から一つを選んでウィキペディアに記載する、ということについて疑問を感じるのです。ただし、これも「出典の明記」の例外として位置付け、「検証可能性」に基づく疑義が出された場合には、その凡百ある文献などを「証拠として提示しながら議論」することで解決し、どれか一つを特定の出典として記載するのは、むしろ避けるべきなのではないか、そして、このような解釈によって、そういう対処をすることが可能になるのではないか、と考えています。--Y tambe 2007年10月1日 (月) 04:04 (UTC)

今の方針に「4.記述の除去を求める側は、記事に告知タグを貼り付け、除去理由を要約欄やノートに示し、問題の程度に応じた猶予期間をおいて意見を募るべきです。」という感じの一文が入れば良いだけのことじゃないでしょうか。私は、現在の検証可能性の箍(たが)を緩めるべきだとは思いません。この「検証可能性」という方針を盾にとって記述の除去が行われることを危惧する声と同じように、緩められた「検証可能性」の方針によって独自の研究や非中立的な観点の記事が増えるのではないかという懸念もでてくることをご理解ください。上の皆様の議論はすこし焦点がずれているように感じます。また、記述の除去を行う人を色眼鏡で見ているようにも私は感じます。--野良猫 2007年9月28日 (金) 18:56 (UTC)

(追記)既にご指摘がありますが、検証可能性は独自研究は載せない中立的な観点を達成するために必要なものです。検証可能性が満たされずして独自の研究の排除はできません。独自の研究ではないことを示す簡単な方法は検証可能な文献を出典として提示することです。(WP:NOR ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。)検証可能性が満たされずして中立な観点は成立し得ません。ウィキペディアの執筆者は記事の中で執筆者自身の意見を主張するべきではありません。執筆者の意見ではなく「誰々がそう言っている」というような記述であるべきです。(WP:NPOV ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」というものです。)つまり、検証可能性は独自の研究の排除・中立的観点の必要条件であるといえます。(この意味で、「中立的観点よりも上位」とか「NPOVよりプリミティブ」という指摘は当を得ていると思います。)検証可能性が無い記事(出典が示されていない記事)というものは、検証可能性が無いという理由だけで除去に値します。(その出典が検証可能性のある資料なのか、信頼性のある資料なのかの判断、ましてや「記事の質」なんてものは検証可能な出典が示された後にできる議論です。)これまでの議論を見ると、出典の示されない検証不可能な記述を除去できないようにする根拠を積極的に探しているように感じられるのです。現実の記事を理念にあわせようとするのではなく、理念を現実にあわせようとしているように見える。(焦点がずれている、と書いたのはこれが理由。)

「出典を欠いているという理由だけで、深刻な問題を引き起こすわけでない記述までも除去して回るような行為は、検証可能性の方針によって肯定されるわけではない。 」とのご意見もあるようですが、そもそも「出典を欠いているという理由だけで、深刻な問題を引き起こすわけでない記述」とはどのような記述なのか。その記述は多数派だから?でもその記述は本当に多数派なんでしょうか。それはあなただけが思っていることではありませんか?(まさにこれが検証可能性の問題です。)おそらく、その記述を残しておいて良い理由は、「出典を欠いているという理由だけで、深刻な問題をまだ引き起こしていない記述」だから、言い換えれば「いつでもだれでも除去できるはずなのに誰も除去しようとしていない」ということになるでしょう。しかし、記述の除去に制約を加えるとなると、それは成り立たないのです。--野良猫 2007年9月29日 (土) 02:13 (UTC)

野良猫さんの
「今の方針に「4.記述の除去を求める側は、記事に告知タグを貼り付け、除去理由を要約欄やノートに示し、問題の程度に応じた猶予期間をおいて意見を募るべきです。」という感じの一文が入れば良いだけのことじゃないでしょうか。」
というご意見に賛同します。少なくとも、検証可能性を盾にとって対話を拒否して編集を強行したがる方々への牽制になると思います。--おーた 2007年9月29日 (土) 02:24 (UTC)
たとえば、「地球」の項目で、「地球の中心には地底人が住んでいる」、という記述がなされた場合、「4.記述の除去を求める側は、記事に告知タグを貼り付け、除去理由を要約欄やノートに示し、問題の程度に応じた猶予期間をおいて意見を募るべきです。」という記述に基づいて、除去に猶予を与えよ、ということでしょうか。このような「猶予」には、明確に反対を表明します。--Album 2007年9月29日 (土) 02:38 (UTC)
地底人が住んでいるとか言う明らかなデマや誹謗・中傷は除去理由の明記したうえで即時削除でも支持を得られます。ココで言っているのはもっと違うことでしょうに…。(しかも問題の程度に応じた期間とも明記されている。良く読んで欲しい)
それでは、Albumさんのように全く関係のない出典を持ち出して執拗に貼り付ける方はどうなんですか?--220.152.28.71 2007年9月29日 (土) 11:26 (UTC)
私は、日本の通貨も地底人も、どちらも(出典が現れず一定期間経過後には必ずコメントアウト・除去されるという条件付でなら)「タグ付け」でも構わないかと思います。同時に Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へをもっと充実させたいですが。この「検証可能性」本文の削除に関する言及部分を緩和方向で修正しようという提案には賛成はできません。別項(例えば前出 Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へなど)で運用方法についてやや詳しく規定する方向(それも主として執筆を開始して日の浅い人達のショック緩和目的限定を希望しますけれど)は採れませんでしょうか。--Panpulha 2007年9月29日 (土) 15:35 (UTC)
私も地底人が住んでいるとか言う明らかなデマは即時削除で良いと思います。220.152.28.71氏も指摘する問題の程度に応じた期間の猶予があればいいんであって、どうみてもデマなら猶予はつけなくてよいです。そんなのは当たり前じゃないのかな。なんというか、Albumさんは極端な例を持ち出して一般化しようという論法がお好きなようですが、生産的な議論じゃ無いと思いますね。--おーた 2007年9月30日 (日) 02:04 (UTC)
ウィキペディアでの経験は、人それぞれ異なるものであると思います。私は幸か不幸か、「トンデモさん」と話をする機会が多かったと思います。たとえばNetanotaneとか、「サンタの赤い服の起源は、日本の赤フンドシである」とかといった人々です。彼らのロジックでいくと、今回の話はどうなるでしょうか?
「極端な例だというのは、あなたの主観です!ここはあなたの主観で編集する場所ではありませn!地球の中心には地底人がいるのです!」という反応を受けるのです。相手は真剣です。誰が、「これは極端な例だから即時除去」と決められるのでしょう。誰が「問題の程度」を判断出来るのでしょう。「問題の程度に応じた」としても、問題の程度は、「相手の解釈」も入りますよね?相手は真面目で、本当に信じているのです。
ここでは「除去」に問題の焦点があたっていますが、それは二次的な問題であると考えています。まず第一に「必ず出典がある記述をする」ことが、我々に求められているわけです、事実として。最初から出典がしっかりした記述であれば、議論はあまり起こらないのです(中立性はまた別の問題)。
例えるならば、「パスポート(出典)を持って入国、ただし必ずしも見せなくて良い」というルールがまずあって、それでも入国してきた人(記述)があった場合、国外退去(記述除去)のやり方がどうこう、と話す前に、まず、「なぜパスポートなしで入国したのか」ということが問題なのだ、ということだと思うのです。
これは、「検証可能性」の本文の前半をちょっと読んだだけで、ご理解いただける「たとえ」だと思います。いかがでしょうか?--Album 2007年9月30日 (日) 02:20 (UTC)
私は「本当に信じている」人にはある程度(「いきなり除去」はしないといった程度)寛大にいきたいと考えている(いた)のですが、信じているのだと「装う」人が現れたときに付け込まれる心配がありそうですね。最終的に除去を行った際に、「『装っている』との判断はお前の主観に過ぎない」と。
パスポートの「たとえ」では、国外退去のまえに一旦ブタバコに放り込んで誰かに持って来させる(一定の)時間を設けるのも一考かと。--Panpulha 2007年9月30日 (日) 05:04 (UTC)
全然「いかが」じゃないよ。極端な例を持ってきて全てに適用させようとするAlbumさん方式は問題です。だからコメント依頼があのような状況になっているのでしょう?それと主観で散々勝手をやって来たAlbumさんが言っても説得力がない。私はWikipediaの空間も実社会と同じと思いますがね。例えば通り魔的な無差別な犯行は誰が見ても犯人に責がある。これは主観でも何でもない。ごく普通のことです。しかし、だからといってこれを貧困層の子供がおなかをすかしてパンを盗んだからと言って同じように一律に罰を適用することには殆どの人が疑問を持つでしょう。
さて、その通り魔も自分の正当性を訴えるかもしれません。ですが裁判を経て必ず罰せられます。
Wikipediaには裁判そのものはありません。しかしそういうときこそノートなどで他者の意見や支持を得る事が出来ます。そのせいでAlbumさんの執筆が遅れたところで、Wikipediaには多数の執筆者がおります。影響は全くありません。今回のあなたのように他の執筆者とギスギスやっていくよりも幾分もメリットがあると思いますが?--220.152.28.71 2007年9月30日 (日) 08:03 (UTC)
(Albumさんへ)えーと。誰から見ても「トンでも」さんについては、合意は早期に出来るだろうから別に問題ではありません。「トンでも」さん対策で一番大変なのは、「トンでも」さん相手にブチ切れて「トンでも」さん以上に議論をかき回してしまう人だったりすることは、留意くださいね。そして問題は、とある編集者に対して「まだ即刻削除は必要ない、今しばらくの猶予と対話の機会が必要だ」という意見が存在するときです。そこで少し様子を見る余裕が欲しいなと、私なんかは思います。--おーた 2007年10月1日 (月) 13:10 (UTC)
「合意は早期に出来るだろうから」というのは「コンセンサス(実際には多数決)による合意」のことをおっしゃっているのだろうと思いますが、記述の正しさそのものを「コンセンサス(多数決)」で判断するのは適切でないと思います。99人の意見が間違っていて、たった一人の人だけが正しいことを言っているということは、ありがちです。
情報の正しさそのものを多数決で決めるのは、(多数決に参加する人の水準が保証されていない限り)相当困難です。それに較べて、ある情報源が信頼できるかどうか(世間で信頼されているかどうか)なら、多数決で決めても比較的間違いは少ないだろうと思われます。だからこそ、Wikipediaでは「信頼できる情報源」に基づいて記事を書くというルールになっているのだと思います。
Wikipediaの編集者は所詮素人です。そして、「信頼できる情報源」に準拠しない素人の議論に基づいて記事を書いても、まともな百科事典はできません。議論や対話は「信頼できる情報源」に準拠して行われるべきであり、「私はこう思う」「ぼくは反対だ」のように個人的意見の交換をすることは意味がありません。「除去されても文句は言えません」は、そういう個人的見解に基づく不毛な(たいていの場合感情的な)議論を抑止するためのルールだというのが、私の理解です。--Dwy 2007年10月2日 (火) 04:54 (UTC)
しかし、現在、自身でNGと公言した「信頼できる情報源」を、何故か自分が書き込むときはOKにしてしまう人がいます。また、関係のない出典を持ってきて「出典があるから書くよ・張るよ」と言ってくる人がいます。除去すると拡大画像を張ったりします。そういった場合はやはり他の方との相談は非常に有効と思います。さらに”「除去されても文句は言えません」は、そういう個人的見解に基づく不毛な(たいていの場合感情的な)議論を抑止するためのルール”とのことですが、それを個人的なルールで振りかざす人がいるので問題になっています。
それとおーたさんが言われているのは記述の正しさではなく出典の正しさの事と思いますが。--220.152.28.71 2007年10月2日 (火) 13:44 (UTC)
はい。私が言いたいのは「出典が適切かどうかについての合意」です。Dwyさんは誤解されています。--おーた 2007年10月2日 (火) 14:11 (UTC)
「出典が適切であるかどうかについての合意」は、実際に出典が提示されることが前提になります。「トンでも」さんが出典がを出さずにもっともらしい理屈を並べてきた場合、「出典が適切かどうかについての合意」が「早期にできる」とは思えません。そういう場合には、「出典がない記述は除去されても文句が言えません」がなければ、合意による記述の除去は非常に困難です。--Dwy 2007年10月3日 (水) 04:57 (UTC)

(インデント戻します)そうやって消された後、怒り狂って消された画像の拡大版を貼り付けた輩が問題となっているが?結局各ユーザーに意見を聞く展開となっている。自分が「出典がない記述は除去されても文句が言えません」をふるっているときは良いが、ふるわれる側になると見境が無くなる人がいる。そういった人には他ユーザーの意見を聞くのは有効だけどね。--220.152.28.71 2007年10月3日 (水) 12:13 (UTC)

まー、「トンでも」さんが出典を提示しないままに書いた記事については、大方の編集者達から「どうみてもソレは変だろ?」と判断されれば、それらの編集者の合意として「自称専門家の記述」を削除するのはそれほど面倒じゃないですよね。私の言いたいことはそういうことです。
で、「実はそのトンでもさんの主張の方が真実であった可能性」を考慮してリスクを冒す必要もないでしょ。集まった編集者たちが素人の集まりとしても、その素人たちの「常識/良識」を反映した判断をしていただければよいだけの話で、将来現れるかもしれない専門知識を備えた人による(出典明示を含む)改善に期待を繋いでおけばよいです。Wikipediaは息の長いプロジェクトですもん。--おーた 2007年10月3日 (水) 14:00 (UTC)
私が言いたかったのは、実際に出典が提示されていない段階では、「(後で提示されるかもしれない)出典が適切であるかどうか」を判断できるわけがないということです。
「大方の編集者達から『どうみてもソレは変だろ?』と判断されれば」と言うのは、結局、「信頼できる資料に基づかない、素人の判断」でしかないだろうと思います。現行ルールの趣旨は、記述が「変かどうか」についての素人の判断は問題にしないで、「出典が提示されているかどうか」だけで記述の除去の可否を判断するというものだと理解しています。
ただし、上記は、あくまで「出典の提示がない場合」の話ですから、提示された出典の信頼性について争いがある場合は全く話が別です。その場合は、編集者の間で「出典が適切であるかどうかについての合意」形成を図ることになるでしょう。220.152.28.71さんがおっしゃっている事例(自身でNGと公言した「信頼できる情報源」を、何故か自分が書き込むときはOKにしてしまう)も、提示された出典の信頼性について争いになっているようですから、みんなで充分議論して結論を出せばよいと思います。--Dwy 2007年10月4日 (木) 05:15 (UTC)
「実際に出典が提示されていない段階」のトンでも理論であれば、おーたさんや220.152.28.71さんが言っているように簡単に周囲から合意がとれます。そのことをずっと言っているのに、Dwyさんが別方向に持って行こうとされているように見受けられます。上記Dwyさんの記述はブーメランのように元の位置に戻っただけですね。--222.228.158.33 2007年10月4日 (木) 09:47 (UTC)
「ブーメランのように元の位置に戻っただけ」はイメージ悪いなあ。できれば「首尾一貫している」と言っていただきたいものです。
もう一度だけ繰り返しますが、出典がない記述は、それだけで除去を許すべきだと信じます。出典がないこと以外に、例えば「記述が変だ」についての合意を要求するようなルール変更には、明確に反対です。
Wikipediaにおける合意は多数決ではなく議論で決まることになっているようですが、素人が信頼できる資料に準拠しないで議論しても、多くの場合感情的で不毛な論争に終わる可能性が高いからです。--Dwy 2007年10月4日 (木) 11:25 (UTC)
一人で勝手に暴走して結局元居た道へ帰ってきたのですから、ブーメランか富士の樹海をさまよって運良くスタート地点に戻ってこれたような感じです。また、Wikipediaは多数の人により成り立つという側面から”ほとんどの方が素人”です。でもそれでやっていこうというのがWikipediaなのです。それに短期間で結果を出さなければいけない物でもありますまい。また、検証可能性には除去以外に記事を削除せず出典を求める方法も存在します。これも検証可能性に謳われているルールです。さらにAlbum氏があなたの意見と同様のことをして”問題”を起こしています。一方向のみのからの物の見方は危険ということを覚えておいた方がいい。--222.228.158.33 2007年10月4日 (木) 23:59 (UTC)

まー、実際的な「トンでも」さん対応としてはイロイロあるんだろうとは思いますが、とりあえずは

1. 出典もなしに奇矯な珍説を書いている編集者を発見する。
2. とりあえず自分の常識に従って削除する。
3. トンでもさんが削除を差し戻す。
4. 他の編集者の意見を求める
5. 「出典もなしに、こんな変な記事は置いておけない」という大方の合意を得る
6. 合意の上、削除する

みたいな感じで、進めていくのが標準的な手順かなと。ここで、

3. トンでもさんが削除を差し戻す。
4B. ブチ切れて「馬鹿もの~!」と叫びながら編集合戦に突入する

という風に進んでいただくと大変に見苦しいので止めていただきたいです。また、ここで検証可能性原理主義者みたいな感じでバサバサ切り捨てるのがAlbumさんなどがお好みのスタイルのようですが(利用者‐会話:Albumなどの「戦歴」参照)、これはコミュニティの雰囲気を確実に悪くしていることは理解いただきたい。「真理の探求者にとっては、世間の馴れ合い言辞などは百害あるのみ。半可通な知識を弄ぶ軟弱共には叱咤罵倒こそが最大の功徳である」的な思想をお持ちであろうと拝察される方々もいらっしゃいますが、素人参加の共同作業を肯定するWikipediaに参加するにはコペルニクス的転回を遂げていただく必要があるので、その高邁な思想が遺憾なく活躍できる舞台を他に求めていただきたい。

そして、

4. 他の編集者の意見を求める
5B. 「トンでも」さんに理解を示す編集者が現れる
6B. ブチ切れて「馬鹿もの~!」と叫びながら編集合戦に突入する

というのも大変に見苦しいのでやめていただきたい。できることなら、

4. 他の編集者の意見を求める
5B. 「トンでも」さんに理解を示す編集者が現れる
6C. 議論した上で、論点を整理してさらに他の編集者の意見を求める

と進んでいただき、「「トンでも」さんお二人さん登場!」と合意できれば削除へ進み、その合意ができなければ、そこで諦めるなり両論併記の道を探るしかないです。

そこで諦め切れずに、その余りにも高潔で純粋な精神による「馬鹿もの~!貴様らは真実が見えんのか~!!」といった魂の雄叫びを書き連ねる方々もいらっしゃいますが、Wikipediaにおいては集まった編集者のレベルを超えた編集は諦めるしかない。的確な出典を示して簡明に解説していただいて、編集者の方々を説得しつつ、編集者の知的レベルを上げていただくしかないのです。「周囲の阿呆な編集者共には理解できないが私だけには明確に理解できる真実」については、Wikipedia記載は諦めていただくしかない。

以上が私の意見であります。--おーた 2007年10月5日 (金) 15:00 (UTC)

5.「出典もなしに、こんな変な記事は置いておけない」 という大方の合意を得る
これは、要するに、皆で「この記事は変だ」と声を合わせて言いまくろうということです。それこそ「半可通な知識を弄ぶ軟弱共には叱咤罵倒」になってしまうのではないですか?私の実感としては、それぞれの編集者が自分の考えで「この記事は変だ」を議論する風潮こそが「コミュニティの雰囲気を確実に悪くしている」のだと思っています。あちこちでヒートアップした論争を見るたびに、出典の提示を前提として、出典の信頼性・適切性に議論の焦点を絞れば、もう少し冷静な議論になるのではないかと、いつも思います。
また、上にも書きましたが、大方の合意を得たとしても、それで「その記事が変だ」ということにはなりません。マイナーな分野の記事などでは、専門的知識を持った超少数派が、思い込みだけで行動している一般大衆に袋叩きに会う可能性だってあります。また、政治的な利害が絡んだ事項などでは、「トンでも」側に相当数の擁護がつくこともありえます。
Wikipediaのルールでは、「この記事は変だ」を言わなくてもよいのです。そんなことを議論しなくても、「悪いけど、出典がない記事は削除してもよいのがWikipediaのルールだから、記事を復活させたかったら出典を出してね。」と言って、穏やかに物事を進められるはずなのです。--Dwy 2007年10月6日 (土) 04:30 (UTC)
上でも出ているけれど、Wikipediaの検証可能性には除去以外にノートへの移行やテンプレなどで記事を削除せず出典を求める方法も存在する。これも検証可能性に謳われているルール。それと”専門的知識を持った超少数派が、思い込みだけで行動している一般大衆に袋叩きに会う可能性”は、その超少数派が信頼性のある情報源を明記すれば良いだけの話。一体何が言いたいのやら…。--220.152.28.71 2007年10月6日 (土) 07:31 (UTC)
だから、「記述の削除の根拠として、出典がないこと以外に、例えば「記述が変だ」についての合意を要求するようなルール変更には、明確に反対です」が私の主張なんですが・・・(なんでわからないのかな?)
結局「超少数派が信頼性のある情報源を明記すれば良いだけの話」に戻るのなら、「出典がないから消します」だけ言えば充分で、(素人の分際で)「記事が変」などど(その問題にはとても詳しい)執筆者の感情を逆なでするようなことを言う必要はないでしょ?(括弧のなかは、私がそう思うということではなく、除去された記述の執筆者がそう思っても仕方がないだろうということです)
ところで、220.152.28.71 さんは何が言いたいの?(検証可能性のルールをどうしたいの?)--Dwy 2007年10月6日 (土) 09:59 (UTC)利用者:Dwy|Dwy]] 2007年10月6日 (土) 08:04 (UTC)
おーたさんも他の方も私も出典に対する意見等を聞いたりすることをずっと上から話している。Dwyさんが超少数意見だなんだ、素人だなんだと茶々を入れているだけ。--220.152.28.71 2007年10月6日 (土) 10:04 (UTC)
「出典に対する意見等を聞いたりすること」であるなら、出典が提示されていない段階では「出典がありませんよ」以外のことは言えないはずでしょ?だから、「出典もなしに、こんな変な記事は置いておけない」のような紛らわしい言い方はやめてほしいと思っただけです。まあ、大筋では意見の相違はないようですから、これくらいで終わりにしましょ。--Dwy 2007年10月6日 (土) 11:01 (UTC)
「出典がありませんよ」は出典を求めればいいだけの話。ただ、ノートへ移行やテンプレによって則す方法がルールに記載されており、即時削除だけが方法ではありません。--220.152.28.71 2007年10月8日 (月) 07:31 (UTC)

(Dwyさん曰く)「5.「出典もなしに、こんな変な記事は置いておけない」 という大方の合意を得る これは、要するに、皆で「この記事は変だ」と声を合わせて言いまくろうということです。」なんか、バイアスがかかっているよーで、どーしてそのよーな情景を思い描かれてしまうのか、ちと困ってしまったりします。確かに、他人の尻馬に乗って騒ぎ立てるのが好きな方々は少なからずいらっしゃいますけれど、「この記事は私の常識に照らし合わせて変である」という意見表明自体には何の問題も、罪も無いはずではありませんか?問題なのは、その意見表明に当たって「馬鹿野郎!こんなことも知らねーのか。脳味噌溶けてんじゃねえのか」みたいな罵倒形式でストレスを発散させざるを得ない、高尚な苦悩に身を焦がしておられる方々の自己表現形式の問題なのではないのかと思われます。

A.「私の常識に従えばこの記述は異様でありまする」
B.「恐れながら、私めも同様に考えるものであります」
C.「左様でありますか。しかれども、この論については、かのギョエテが『色彩論』(1810)において考察せしことをご存知か?」
A.「然り。邦訳にて一読しており申す。なれどギョエテのその論は、アイザック・ヌートン卿へ宛てた的を外したる論考として有名ではござらぬか。ヰキペジアのギョエテの項にも記載があったかと」

のように、淡々と議論を進めていただければ良いだけの話なのではないかと。「トンでも」さんを有無をも言わさず排除したいキモチは良く分るんですけれど、どういうのかな、即時削除に訴えたがる検証可能性原理主義者の方々の挙動を見てると「ぶゎっかモノ~、お前らごときゴミ編集者なんぞ排除じゃ~」みたいな高邁にして超越的な態度が透けて見えてしまって、私にはそっちの方がよほどコミュニティの雰囲気を悪くしているんじゃないかと思いますけどね。一通り意見を聞いて「出典も無いし、皆が変だと思ってる」なら削除で良いし、「出典が無いし、変だと思っている人と、その通りだと思っている人に分かれている」なら、要出典タグを貼っておくなり、両論併記しておくなり、議論中としておくなり対処しておけばよいし、「検証可能な出典はあるけど、異議を唱えている人がいる」ならその出典を元に編集して異議を唱える方にお引取りいただければよい。それだけの話だよね。--おーた 2007年10月11日 (木) 15:16 (UTC)

その2[編集]

ひょっとしたら、まだまだ話が長くなるかもしれないので、一応、節を改めます。

私の意見を繰り返してもあまり意味がないかもしれませんから、ジミー・ウェールズさんの発言を引用します。「ある事柄が本当に正しいかどうかの有効な判断を下すのは、我々にはたいへん困難です。ある人が提唱する物理学の新しい理論が正当なものであるかどうかを我々が決めるのは適切ではありません—我々はそのような判断を下せるほどの専門知識は持ち合わせていません。しかし、我々はその理論が評判の良いジャーナルや評判の良い情報源を通して発表されているかどうかは、確認できます。ですから、適切な判断能力を備えた人々によって信用できると判断された物事に単に依拠することにより、ある物事が信用できるかどうかの判断を避けることは、本当に便利なのです。歴史(学)についても全く同じ原則が当てはまります。(Wales, Jimmy. "Original research", December 3, 2004)

「この論については、かのギョエテが『色彩論』(1810)において考察せしことをご存知か?」を引き出したいだけなら、素直に「出典が表示されていません。出典の提示をお願いします。」だけ言えばよいはずです。あてにならない一般人の常識に従って「この記述は異様でありまする」などという失礼なことを言わなければいけない理由が、全く理解できません。ジンボさんの言葉を借りるなら、そういう「判断を避けることは、本当に便利なのです。」

それともうひとつ、私は、「出典がないものは何でもかんでもすぐに消せ」と言っているわけではありません。皆が気持ちよく共同作業を進めていくためには、「要出典」タグ等の手段の方がうまくいく場合も多いことは分かっています。

ただ、私が言いたいのは、誰かが出典のない記述をいきなり除去した場合でも、それに反対の人にできることは、出典の提示だけだということです。出展の提示もせずに「いきなり除去すべきではなかった」のようなことを問題にしても有益な議論にはなりませんし、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」のルールがある限り、記述を復活させることもできないのです。--Dwy 2007年10月12日 (金) 06:21 (UTC)

横から失礼。DWY氏に強く同意。
出典の無い書き込みをして誰かにタグを付けられたり除去されることは恥ずかしいことだと思わねばね。見かねた他人がかわいそうに思って庇うのならまだしも、ノートに移動と書いてあるなどといいながら自分でやることじゃない。除去者を執拗に非難するなどずうずうしい。恥の上塗りもいいところ。--以上の署名のないコメントは、211.14.90.173会話/Whois)さんが 2007-10-12 11:18 (UTC) に投稿したものです。
署名もせずにいきり立っても恥ずかしいだけだよ211.14.90.173さん。いきなり除去が本当に支持されるのならAlbumさんの行為で多くの方が憤慨される事もないでしょう。Wikipediaも実社会と同じ。ルールとやり方が重要なのは極々普通のことなんですがね。--220.152.28.71 2007年10月12日 (金) 22:53 (UTC)
検証可能性方針をよく読んだら出典の無い記述をしてはいけないことは誰でも心付くと思います。方針の内容に難解な部分があるとも思えません。
だがそういったルールを読んでいない / 知らない(善意)人もおり、また知っている人でもうっかり書き忘れる(錯誤)こともあり得るので、直ちに除去するのではなく、一定期間の猶予を設けるなどの措置があっても良いかと思います。しかし、実態としては現在でもそのようなことは行われているため、このためにわざわざ方針を改定しなくてはならないような必要性は感じません。判っている人達の「親心」でよいのではないでしょうか。
また、これはあくまで善意や錯誤の救済策であって、出典なし記述を許容するものではなく、ましてや自身の編集を除去された者がその救済策が存在することを以って「出典無しの記述も可」と主張し、除去者を「逆切れ」などと非難することは本末転倒していると考えざるを得ません。211.14.90.173さんの「ずうずうしい」というのは非常に端的な表現ですね。--FXECG 2007年10月15日 (月) 01:42 (UTC)

Dwyさんの議論が不思議なのは、反対を受けている訳でもない事柄を一生懸命擁護して論点を逸らせているように見えることです。ここでの議論で、出典は必要ないなんて言ってる人がいるんでしょうか?誰も異議を唱えていないのにジミー・ウェルズの発言を引用する必要がどこにあるんですか?私が言葉を変えながら書いてきたのは、出典を要求して性急な行為に走る人たちについてです。彼らにとっての出典要求や「検証可能性」とは、扱いに困る編集者をぶん殴って黙らせるための簡単な道具なんじゃないかと、時々私には見えるのです。ガイドラインというのは、元来コミュニティーのメンバー達が共有・参照して議論をスムーズに運ぶためにあります。ところが、ある人たちはそれをお手軽な凶器として使っているように私には見える。そして「だって、これはルールじゃないか」と開き直る人々をみると、「正論を盾にした暴力」という言葉が頭を過ぎるのです。そして、そういう性急な行為を見ていると心の狭さとか、余裕の無さとかを感じざるを得ません。 確かに、「トンでも」な人たちの傍若無人な振る舞いを見ていると、私にも凶悪な感情が芽生えて「ぶわっかもの~、こういう阿呆は即刻ブロックじゃぁ~」と叫びたくなる。しかし、そういう感情に身を任せたところでどうなるんでしょう。一呼吸置いて、その書き込みが「トンでも」ですよねぇという合意を得る、それと同時に「その記述に出典はあるんですか?」と「トンでも」さんに確認する、出典も無いしみんなが変だというなら削除、出典は無いけど意見が分かれるなら出典を探しながら編集は続行、そういう手順を踏むだけの余裕があってよろしいのではないですか。そういうコミュニティー運営に自信が持てない方々が、「凶器としての検証可能性」を振り回しているように私には見えます。--おーた 2007年10月14日 (日) 03:15 (UTC)

私が逸らせているという「論点」がどのような論点なのかは良く理解できませんが、私自身の論点は、「記事の信頼性・正確性については、出典に基づかない議論や判断を避けるべきだ」ということにつきます。
私がこの議論に参加したのは、みなさんが「誰が見ても変な記述はいきなり除去してよいが、変でないものにはタグをはるようにする」のようなルール改定を主張しておられるように見えたからです。そのようなルールになると、出典の提示がない時点で(従って出典に準拠せずに)記述の信頼性・正確性(記述が変かどうか)の判断・議論をしなければいけなくなります。ジミー・ウェールズが言うように、そういう判断・議論を避けることこそが、「検証可能性」や「独自の研究」のルールの根幹だったはずですから、わたしとしては、そういうルール改定には断固反対です。
「検証可能性」は、専門知識がない人たちの間で有益な議論を可能にするために、出典の提示を求めるルールです。「(議論を始めるために、議論のスターティング・ポイントとなるべき)出典を出せ」と言っているだけで、決して「黙れ」と言っているわけではありません。ただ、出典も出さずに自分の意見だけで議論を進めようとする人たちに対しては、「あなたの個人的意見はここでは関係ない」と言えることになっています。しかし、これは「扱いに困る編集者をぶん殴って黙らせるため簡単な道具」というわけではなく、「不毛な論争の泥沼を避けるための知恵」とでも言うべきものだと思います。
「だって、これはルールじゃないか」と開き直る人々をみると、「正論を盾にした暴力」という言葉が頭を過ぎるのです。そして、そういう性急な行為を見ていると心の狭さとか、余裕の無さとかを感じざるを得ません。こうおっしゃる気持ちは分からないではありませんが、これを正面から論じることはWikipedia:善意にとるのルールに反しますし、Wikipedia:礼儀を忘れないの遵守も難しくなりそうです。なにより、出典が提示されない限り肝心の記事の記述は復活できないのですから、そんなことを議論しても意味がありません。「ルールじゃないか」と開き直られたときに最も簡単で有効な対抗手段は、ルールに従って出典を出すことです。それ以外のところに議論を誘導すべきではないと思います。
もうひとつ(これは書かないほうが良いのかもしれませんが)、「心の狭さ」「余裕の無さ」という点では、ルールに逆らってまで自分の記述を維持しようと悪あがきする人の方が、心が狭くて余裕が無いように私には見えるのですが・・・(この点を議論していって喧嘩になるのは避けたいですが、少なくとも「お互い様」の要素があることはご理解いただきたいと思います)-Dwy 2007年10月14日 (日) 05:54 (UTC)
おーたさんに同意です。誰も出典のない記事を載せるようには書いていません。Dwyさんはいささか空回りしているように見受けられます。
>「誰が見ても変な記述はいきなり除去してよいが、変でないものにはタグをはるようにする」
誹謗中傷やトンでも理論は殆どの人が削除に支持を示すでしょう。そして誹謗中傷は特に削除すべき例のひとつであり、そのことに異を唱える人は少ないでしょう。しかしあなたはそう言った物を変か変でないかの2者にまとめ別方向へ進めようとしています。それが他の方のブーメランや樹海とかの話になるのでしょう。
そして検証可能性にはテンプレやノートへの移行といった手法が明示されています。この方法もルールとして明記されておりルールに基づいた手法です。このルールに基づいた方法を用いても何ら問題はありません。即時削除を行う方は、上記の誹謗中傷以外の即時削除と削除しない(テンプレすらはらない)記事の境目が不明瞭で、そのことを指摘されると逆ギレする方がいます。個人の好き好きで削除を決めていると言われる方も言いますが、他の方がそれを行い自身の判断と食い違ったとき、個人の好き付きではなく”自分の好き好き”であることが露呈してさらにキレる方がいます。
さらに自分が提示した物が出典が無いもしくは全く関係のない出典の場合、リバートでは飽きたらずわざわざ拡大して提示したり…。即時削除を唱える方はいささかゴーイングマイウエイ的なノリであることが否めません。Wikipedia内も実社会と同じくルールとやり方が重要なんですが。--220.152.28.71 2007年10月14日 (日) 08:15 (UTC)
一つ一つ反論しようと思ったのですが、結局同じことの繰り返しにしかならないので、やめておきます。かわりに質問させてください。おーたさんや220.152.28.71さんは、「検証可能性」のルールをどうしたいのでしょうか?ここのところが今ひとつはっきりしないので、議論がかみ合わないのだと思います。
なお、「逆ギレする方」の話は、直接的にはこのページの議論の対象外であることを指摘させていただきます。(「逆ギレする人がいるから、それに対応するためにこのルールの修正(あるいは徹底)が必要」のようなことなら別かもしれませんが、そういう場合は、ルールをどうしたいのか具体的に主張していただけるとありがたいです。)--Dwy 2007年10月14日 (日) 11:07 (UTC)
上から読んでくとAlbum氏が「極論からすべてのケースに対応させようとした」行為について述べられていたのに、Dwy氏が途中からトンチンカンなことを言い出したように見えるのですが。
出典の議論を記事の正しさの議論にしたりとか…、ほとんどの方が素人というWikipediaの特徴をわかってかわからずか「専門家でないため」議論禁止というか無意味と言い出したり…。出典のない記事の推奨などしていないのにそのような話で進めたり…。Dwy氏が分からぬ方向へ持って行っているのですから、それを他の人に聞いても答えは出ないでしょう。
なお、”ルールに逆らってまで自分の記述を維持しようと悪あがきする人の方が”とのことですがルールに逆らうような発言は見あたらず、直接的には今回の議論の対象外であることを指摘させていただきます。--222.228.158.33 2007年10月15日 (月) 03:17 (UTC)
(Dwyさんへ)IPユーザーに問いかけをしても無意味です。たとえ何らかの回答があったとしても、「あれは自分ではない」と言われればそれまでですので。別記事において「ログインしてくださいませんか」というHatukanezumiさんの要請(Wikipedia:コメント依頼/Album#コメント3冒頭部)を無視しておられるところをみると、よほどの事情があるのか、そうでなければ本当に別人がたまたま同一IPから書き込んだものだと思いましょう。IPユーザーの参加は良いことだということになっていますし(個人的には記事執筆に限るとしたほうが良いと思っていますけれど)。--FXECG 2007年10月15日 (月) 04:50 (UTC)
IPユーザーは意見を言ってはいけないのでしょうか?IPユーザーで参加不可の箇所にはルール通り参加しない(できない)でいます。また、WikipediaはIPユーザーなどへ広く門戸を開いているところが良いところであり、そこに賛同しているだけです。IPユーザーと言うだけで意見を言ってはいけないような記載は問題があります。ご自身の個人的な見解もお門違いですね。--222.228.158.33 2007年10月15日 (月) 06:26 (UTC)
意見を言ってはいけないとどこで言いましたか? どんどん言ったり書いたりしてください。ただ、質問などをされても、それに答えるかどうかは別です。同一のIPから複数回書き込みがあるというだけではそれらが全て同一人物のものだとは断定することができません。だからDwyさんに対して、まともな議論にならないかもしれないということを伝えたかったのです。私には、とくに222.228.158.33さんの仰るように、意思をもってIPユーザーを選択している人の真意を推し量るのは難しいと感じています。(Dwyさんへ)私の独り言ですので無視されて結構です。(議論中の皆様へ)本ノートの議論から外れた話をしてすみませんでした。--FXECG 2007年10月15日 (月) 09:29 (UTC)

(インデント戻します)コメント依頼/AlbumでのHatukanezumiさんの要請後には222.228.158.33さんは書いていないんじゃないか?オイラはかまわず書いているけどね。ということはコメント依頼/Albumの件と今回の件は全く関係がない。なのに何故か持ち出してきている…。Albumさんといいあなたといい、ルール以前に学ぶべき事があるのではないですか?

それと”本ノートの議論から外れた話をしてすみませんでした”と思うのなら最初からしないことです。--220.152.28.71 2007年10月15日 (月) 11:47 (UTC)

ああ、分かりました。上でご発言されているのに、誰も相手にしなかったので喰ってかかっているわけですね。”出典のない記事を書いて良い”なんて(誰もそんなことは言っていないのに)言ったと嘘まで付いた。けど誰も釣られなくて悔しかった、と言うことですね。全然関係のない記事を出典とされた方はいるみたいですが。--220.152.28.71 2007年10月15日 (月) 12:00 (UTC)

(Dwyさんの「結局、ルールをどうしたいんですか?」との問いに対して)

えーと。私がこの議論に加わった9月29日に

野良猫さんの「今の方針に「4.記述の除去を求める側は、記事に告知タグを貼り付け、除去理由を要約欄やノートに示し、問題の程度に応じた猶予期間をおいて意見を募るべきです。」という感じの一文が入れば良いだけのことじゃないでしょうか。」というご意見に賛同します。

と私は書きました。それ以上のことを、主張してはおりません。

今のWikipediaの優良記事にしたって、全ての記述にいちいち出典が付いているワケじゃありません。示されている参考文献に書かれている範囲内で、すべての記述が収まっているのかどうか、怪しいところも少なからずあります。もちろん、ゆくゆくはそのような曖昧さを無くして、かっちりと出典がついた記事に育て上げていくのだという方針にはおそらく誰も反対はしないでしょう。ただ、実運営上、誰かが誤りを指摘しないかぎりはそのまま置いておくことにしてあるだけです。

さて。とある記事で「変だな」と思った記事にぶち当たったときにどうするか。とりあえず、ノートで問題を提起しても良いし、要出典タグを付けて様子を見るのもよいし、「どう考えてもこれは変でしょう」と考えるならばその記述を削除しても良いでしょう。ただ、その削除に対してリバートがかかったり反対意見の表明があったときにどうするのか?というのがこの議論の趣旨だと私は理解しています。

一番良いのは、その記述が誤りであることを出典などを使って示すことです。しかし、記述が変なことは確信できるんだけどその記述が誤りであるという証明ができないということも、ままあります。その場合、相手に出典を要求してそれが出来ないなら削除するという手段が取れるとAlbumさんなんかは主張されてきたワケです。それに対して私は、出典を要求するにしてもちょいと余裕をもった方が良いし、「この記述は変だ」という感覚がコミュニティの中で共有できているか意見を募って確認することもしておいた方がいいんじゃないの?と言いたいだけです。

専門知識がある人が応じてくれれば、適切な文献を示して議論を収束させてくれるかもしれない。専門知識をもつ人が現れずに意見が割れたままであれば、その旨を記録しておいて置くしかない。専門家知識をもつ人は現れないものの、コミュニティの大方の意見が「変だ」という見解で一致するなら、その旨を記録して削除すればよい。逆に「変じゃない」が大勢を占めれば要出典タグを貼ったまま置いておくしかない。

「変だな」と思った記事に対して関連する知識がないのに出典要求などで削除を求めたものの、却って議論を拗らせてしまった例が最近、モンゴメリ関連の記事でもありましたよね。出典要求はしてよいし、するべきですけれど、あの件はもう少し他の方々の意見を聞いて対処すべき事例だったと思います。--おーた 2007年10月18日 (木) 15:24 (UTC)

いちいち同じことを繰り返して反論しても意味がありませんから、おーたさんが賛成しておられる野良猫さんのご提案(’’「4.記述の除去を求める側は、記事に告知タグを貼り付け、除去理由を要約欄やノートに示し、問題の程度に応じた猶予期間をおいて意見を募るべきです。」’’)についてだけコメントします。
  • 「即除去」で問題ないことも多いし、場合によってはむしろ「即除去」が適切・必要なこともある。「即除去」を一律に禁止あるいは非推奨とするようなルール変更には反対。
  • 「除去理由を要約欄やノートに示し」と言うが、検証可能性のルールでは「出典の提示がない」以外の理由は不要であることを認識すべき。それ以外の理由を書くことは、ジンボ氏が「ある物事が信用できるかどうかの判断を避けることは、本当に便利なのです」と言っている「判断」を、敢えて行うことになる。
  • 「猶予期間をおいて意見を募るべきです」の部分についても、同様の趣旨から、「物事が信用できるかどうか」についての意見は求めるべきでない。意見を募るとすれば「適切な出典が示されているかどうか」についての意見ということになるが、出典が全く提示されていない場合には、意見を募るまでもなく結論は明らかである。
  • 無用の摩擦を避ける手段として、タグ貼付等の手段を示唆することは有益かもしれない。
  • しかし、タグ貼付等を推奨するような記述があると、「なんでいきなり削除するんだ!」のような不毛な論争を却って誘発してしまう虞もある。あくまで無用の摩擦を避けるのが目的なのだから、新たな火種とならないよう、表現には充分留意する必要がある。場合によっては、記述を除去された側に引導を渡して、出典の提示に誘導するような記述も検討する余地があると思う。(例えば、「除去された記述の復活には、適切な出典の提示が不可欠です。また、他人の行為は善意に取るのがWikipediaのルールです。自分の記述を除去されたら気分が悪いでしょうが、記述を復活させたいなら、除去した人の行為を非難するのではなく、出典を提示することを考えましょう」のような)--Dwy 2007年10月22日 (月) 13:21 (UTC)
即時削除が正しいのであれば、何故ルールに即時削除以外の方法が載っているのでしょうか。なぜ要出典タグがあるのでしょうか?それはそういった他人との軋轢を生まない方法が必要だからですよね。
Albumさんのように他人の記事は即時削除するが自分は出典無しの記事を張り、削除されれば拡大して貼り付けるような輩がいると、とてもウィキペディアをより良い方向へ持って行っているとは言い難く、軋轢を必ず生じさせる方の存在を考えると何かしらの対策も必要でしょう。
ウィキペディアも通常の社会と同じで人との接し方、方法を考えて行動することが求められるのに、人との接し方に欠ける人間が用いるとAlbumさんのコメント依頼にあるような状況を招くのです。そういった対処も必要でしょう。--220.152.28.71 2007年11月1日 (木) 08:43 (UTC)

その3[編集]

偶然このノートを見つけたのですけど、もう議論が4年も止まってる様で、残念です。
4年ぶりのコメントとして、一応、項3を新設します。
私も偶然に似た様な懸念を感じて井戸端でぶつけたりしたのですが、どうにも「ストン」と納得出来る回答が得られず、モヤモヤしています。
基本的にノートを立てられたTomos氏や、それに賛意を示してるみっち氏、おーた氏、220のIPユーザ氏と同じ様な感覚を持っている一方、Album氏やDwy氏の意見に私の危惧が具現化されてる様に感じます。
まぁ、ここで議論されているのは、「出典が有るか無いか」と言う比較的単純な構図なので、それだけを見れば、Album氏やDwy氏の意見にも十分に理が有るとは思う物の、この議論で見落とされているのでは無いか?と思うのは
  • 中立点が何処に有る上での話なのか
  • 論争の有る中立点上に両論併記が出来る出典が有るのだけれども、それぞれに信頼性の違いが有った場合
の二点かかなと思います。
例えば、地底人がいるとする説はデタラメだと常識的には思うのですが、これは科学と似非科学の間での中立点となって、人類学や生物学を説明するページで地底人を扱うのは中立点として相応しくないと思う訳で、この点では、Dwy氏やAlbum氏の主張が正しいと思いますが、ジャンルが大衆文化であるページ、例えばオカルト系を扱うページなどに於いて、この中立点を否定するのはいささか宜しくないと思う訳で、ケースバイケースでは「地底人がいる」説も両論併記で用いられても良い場面が有ると思いますし、少なくとも(信頼性が低かろうとも)出典を用意する事も可能なのでは無いかなと思います。
この時に、この議論での「見直そう」派が懸念する事は、「明らかに間違いなのだから削除だ」と、中立点の存在を認めない方向にルールをかざして動く人がいると言う懸念なのだろうと勝手に私は思ってます。
現に、最近見かける議論のゴタゴタの中で、単純化した例として左派と右派の思想的な勢力争いを挙げるならば、当然、一方の主張だけが「唯一正しい」し「この主張を裏付ける出典こそが唯一信頼性を満たしている」のだと言い、「他方の出典は信頼性に難が有るから、両論併記は認められない。百科事典では信頼性が第一なのだ」と中立点の存在そのものを排除しようとする訳ですよね。
この様なケースでは、やはり私は中立性と言う「誰がどの様な立場で読んでも有る程度納得出来て気持ち良く読める百科事典」と言う観点は、とても大切だと思いますし、信頼性を犠牲にするとか、中立性を犠牲にするとか、他方が優先されてはいけない問題だと思ってます。(もちろん中立点上の論争認知度は考慮されるべきで、多くの人で賛否両論が有る問題と、少数派が否定説をとる場合、または偶然にもその編集者一人だけが否定説を主張する場合などで対応が分かれるのは当然なのですが)
一方、素人で様々な思想を持った人が多く参加する場なので、中立性も検証可能性も等価と見るならば、どちらの点も多少は寛大な視点で「皆で協力してブラッシュアップしようよ」な面が有っても良いと思ってますし、該当ページで(まぁ、これも争いの元になるかもですが)中立点として相応しいかどうかに問題が無ければ、Tomos氏が述べてる様な形を明確な落とし所として明示しておけば、かなり左派と右派の紛糾は無くなってスムーズな執筆が可能になるのでは無いかな・・と思っている次第です。
なので、出典が無い記述は削除されても文句を言えない・・は強く反対するものでは無いのですが、少なくともルールでギリギリでも許される範疇に有る出典が付されている両論併記は、勝手に一方の主張を削除してはいけないし、また原則として排除を試みる論法もいけず、問題を感じた場合にはノート議論に於いて記述量のバランスや記述方法、記述位置などで落とし所を探る方向性を示せる方針なりガイドラインなりが出来ると良いなと考えます。(と言うか、三原則それぞれに「これこそが一番大切なのだ」的な記述が有る事が問題なのかも知れません。)
もちろん、この様な姿勢は以下の様な場合にも適用出来ると思います。それは、今、有る一つの論点が一つの視点だけで述べられている記事が有る場合です。例えばそれが右派的な記事ならば、左派は様々なルールを持ち出して(多分最終的には、出典の信頼性が無い、か、特筆性が無い辺りに行くのかな?)排除を試みると思うのですけど、上記のルールに沿えば、出典が付されている以上、排除は不可となり、更に、右派から見て「信頼できない出典」だったとしても、左派が出典さえ示せれば、両論併記は出来る・・となり、争いも減ると思います。(そもそも排除出来ると思ってしまうから暴力的な議論になってしまうのかなと感じていますので)
後は、後々の人がそれぞれの出典についてブラッシュアップして、より信頼性の高い出典に差し替えて行けば良いだけだと思うのですよね。
いずれにせよ、排除を強行したい勢力が議論をループさせてノートがとんでもない事になってたりするのを少しでも減らしたいです。
--Toshi999 2011年10月25日 (火) 11:31 (UTC)
えーと、書いていらっしゃることは、中立的観点の方針を丁寧に読めばわかることじゃないかと思うのですね。中立的観点のほうには、左派と右派という対立構造じゃなくて、支配的な説とごく少数説や相手にされていない説の扱いも書かれてますし。
今のウィキペディア日本語版で大事なのは、中立的観点も大事であり、守らなければならない方針であるということを再認識するということだと思います。これまでは、検証可能性すら十分守られていなかったけれど、ある程度は情報源が示されるようになってきた。そこで、どの情報源は使えるのかみたいなところでの議論も増えてきました。そういう時期が日本語版にも来たのかなと。
検証可能性というのは、事実ひとつひとつに対しての方針です。対して、中立的観点は、記事全体に対しての方針です。記述内容に対立点があるような項目の場合は、検証可能性を満たしているけれども中立的観点を満たしていない記事は、好ましい記事ではなく、中立的観点に沿って書くならば、いくらか情報量を減じてでもバランスをとる必要がある、ということになるのだと思います。
ただ、論争となる場合と言うのは、取るに足らない意見を、当然扱うに足ると思っている人が出てきた場合や、一方を正しいと信じて疑わない場合、一方の主張を推し進めることが目的になっているような利用者の場合なども考えられます。そういう場合は、中立的観点の無理解という理由で、少なくとも第三者的な編集者が党派的な判断ではないと思えるような審議によるブロックに至るということも考えないといけないでしょう。--Ks aka 98 2011年10月25日 (火) 12:14 (UTC)
基本、私もKs aka 98さんと同じ認識なのですけれど、でもそれがコンセンサスになっていない所に問題を感じてまして、更に井戸端でも書きましたけれども「第三者的な編集者が党派的な判断ではないと思えるような審議」がシステマティックに担保されていない以上、やはり現状の方針やガイドラインに余りにも曖昧さが多い部分を見直す方法が現実的なのかなぁ・・と思うのですよねぇ・・。
例えば、井戸端で例にしたノート:平清盛_(NHK大河ドラマ)などを見ると、私から見るとTruesight氏が見かねて中立的立場で仲裁に入った様に見えますが、そのままミイラ取りがミイラになって「勢力の片方」の位置づけになってしまい、一方、その後に参戦した J Stalin氏も恐らくは客観視点で自分が正しいと思う方法で仲裁に入ったのだろうけれども、やっぱりミイラ取りがミイラで「勢力の片方」になってしまっているし、それは私自身にも言える事で、ノートキムテヒでは客観・中立で仲裁に入ったつもりが、今は論争の主役に位置づけられていますし、これもまた井戸端で色々物議を醸しつつ、「第三者的な編集者が党派的な判断ではないと思えるような審議」が得られないのでグダグダが進行中な訳でして、まぁ、自分の議論スキルの無さを棚に上げるのは余り宜しくないとは思いつつ、もう少しルールが具体化されれば楽になれるのにな・・と感じております。
結局、客観・中立そのものに絶対的な基準が無い以上、多かれ少なかれ「第三者的な中立派」が有り得ない事態は往々に考えられると思いますし、特に「信頼性>中立性」と言う大小関係を標榜する管理者アカの人も見かけますので、(例え本人が一般編集者と変わらないと前置きしても)信任を受けた立場の人の言は影響力が(特に初級・中級者に)強く、益々第三者も賛否が分かれたりしやすく混乱の元になってる気がしてます。(実際、私もまだまだ不慣れなので、自信が持てない事柄は管理者アカの人にアドバイスや指摘を貰うのが、方針の正しい理解や、又は客観・中立を担保した厳しい指摘を貰う上で望ましいと思ってしまいますし)
ただ、Ks aka 98さんなどはWikipediaに於ける活動時間が膨大なのでしょうから、弁証法的な視点(長い目)で見れるのだろうし、そう言う面は強く納得も出来るのですが、それはそれ、これはこれとして、やはり「もうちと面倒無しに物事をスムーズにする運用方法は無いの?」と性急な解決方法を求めたい欲求が抑え切れない面はやはり出てきてしまいます。
中立的観点無理解と言うよりも、やはり「検証可能性(信頼性)>中立性」と偏る人が多いのと、現状のルールがそう受け取られても仕方ない記述になっている事に、私の懸念所は集約されるのかな・・と思ってます。
--Toshi999 2011年10月25日 (火) 13:10 (UTC)
膨大な議論なのでざっと直近の話題しか読んでませんが、簡単にコメントします。まず中立的観点というのは実に難しいもので、結局のところ人それぞれの良識、常識に立脚しているものと思います。つまり極言すれば人の数だけ中立的観点も存在し、中立を守れといっても意見がかみ合わないケースも散見されます。このようなケースに対するWikipediaの回答が、わたしの理解によれば、両論を併記することにより、中立性を担保するものということです。つまり人それぞれの良識や常識への依存度を下げようというものであり、わたしとしては至極良く出来たものだと考えています。とはいっても、このルールをそれぞれの議論で杓子定規に適用していけばすべからく解決できるものではなく、やはり、根気強い議論による議論当事者達による合意が必要とされているのも事実であって、そうした議論はともすれば感情的なものともなり、執筆者のストレスを増大させるものです。ですので、こうした状態は軽減されるべきであるとする意見にも大いに首肯できます。しかし、薬に副作用があるように、ルールにてこれを改善せよとした場合には副作用がでるというリスクも考えなければいけません。こうしたリスクを鑑みてより優れたルールを作るという作業には、多大なエネルギーを必要とするものであることはあきらかです。そうしたことを考えたとき、現在のルールは最善ではないと思いますが、少なくとも実績があるもので、概してそれ程悪いものでもないかなと感じています(より優れたルールが提案されるのであれば、もちろんそれに反対する理由はありませんが)。--Truesight 2011年10月27日 (木) 12:14 (UTC)
Truesightさん、コメントありがとうございます。Truesightさんが仰られている「落とし所」は「中立的観点の方針」にやはり書かれている事だと思ってまして、私的には「とても正しい」と考えているのですが、問題は「それが正しい」と考えない人が猛威を振るっている点だと思ってここにコメントを付け始めました。
ではなぜ、それが正しいと考えない人が多いのかと言えば、一重に、以下の様なパワーバランスが有るからだと思っています。(以下、検証可能性と独自研究の排除は意味合い的にほぼイコールなので同一視)
  • 最上位
三本の柱 総論的には中立性の大切さは具体的だが、検証可能性に関しては信頼性までは言及されていない。(よって、乱暴に言えば中立性と普通に出版された二次出典さえ有れば執筆出来る)
  • 上位
五本の柱 ここで三原則と五本の柱を除くルールの全否定が再帰的に定義されており、また完璧さを求めていない事も言及されている。
  • 中位
方針 ここで中立性や検証可能性の具体的な説明がなされており、中立性は比較的誰でも理解しやすい事しか書かれていないが、検証可能性が厄介で「あらかじめ信頼できる情報源から公表、出版されている事実、視点、理論及び議論だけを収録してください。」と記述されており、更にこの方針では「何がダメか」を主眼に記述されているのだが、「信頼出来る情報源」がとても重視された表現なものだから、下記草案を込みで方針と理解する人が多い。更に存命人物の様に「厳守」を求める方針も有り、それもまた下記の「信頼出来る情報源」を組み込む。
  • 下位
ガイドラインや草案 ここで「信頼出来る情報源」が具体的に書かれているのだけれども、ここではピンキリな説明で「何なら良いか」と「何がダメか」の幅が広く、「普通に出版された二次出典」を否定して「高度な信頼性」を求める説明が多い。
と言う流れなので、例えば私などは、三原則と五本の柱がまずありきで有って、それ以下に「厳守」なんて書いて有っても余り気にしない(と言うと語弊が有りますが、要はポイントとして訴訟リスクが発生しない様にだけ注意すれば、三原則や五本の柱を蔑ろにしてまで厳守なんてすべき物では無いとさえ思っています。)のですが、やはり人によって、どうしても「信頼出来る情報源」がとても大切であると感じてしまう人が多いと思うし、上の流れを見ればそうなってしまうのもある面、必然かなとも思うのですよね。
そうなると、もはや三原則の等価性は失われて、中立性は後回し、まずは信頼出来る情報源だ!みたいな風潮が有って、それがまた、両論併記を嫌う連中の武器になってしまっていると言うか・・
そんな連中を説得する材料は、五本の柱から派生するWP:BURO程度しか無いのだけれども、それって攻撃力が5位の初期装備剣並で、現に私もTruesightさんも、「出典も有るんだからちゃんと両論併記しようよ」と言ってるのに中々通らず苦労してる訳じゃないですか。
まぁ、過去ログ議論を見ているとたまに見かける「スパゲッティー」なんですけど、私には今のルール体系がもはやスパゲッティにしか見えないんですよね。
またこれも過去ログで見かけた言葉なのですけど「何を重視するかは時代によってトレンドが有る」と言う部分を、きっとKs aka 98さんとかは経験してきてて、「ここで力んでも仕方無いってば」って話も出て来るのだろうけれど。
ぅーん・・・って感じです。
--Toshi999 2011年10月27日 (木) 17:58 (UTC)