Template‐ノート:和暦/利用実態調査/1331

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説明[編集]

  • 事象の説明を書く。
  • 記事の引用は変更してはいけない。
  • 検証したら年号と月日、検証に使った資料を書く。
  • 明治5年までは、記入する年号と月日は旧暦とする。なお、改元年は、参照した資料に応じて旧元号でも新元号でも可。
    • 月日を特定できる場合のみ、西暦も可。その場合「(西暦)」と注記する (特にユリウス暦の場合は「(ユリウス暦)」と注記する)。
    • その他の和暦または西暦の日付がわかるときは、同様に記入してよい。
  • 1873年 (西暦) 以降は、記入する年号と月日は西暦 (グレゴリオ暦) とする。
  • 年や日付に異説がある場合、両方を記入する (どちらかを除去することはしない)。
  • 見出しの年号や月日は記事に書いてあったものなので、正しいとはかぎらない。

略記できる資料[編集]

以下の資料は略記する。ページ番号は不要。

新国史
『新・国史大年表』第3巻 一二八二〜一四五五、日置英剛編、国書刊行会、2008年、初版。

記載[編集]

(1331年)[編集]

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1331年(元弘元年、元徳3年) 元弘の変
鎌倉時代 2010-12-02T02:26:24Z
1331年(元弘元年、元徳3年)の元弘の変では2度目の討幕の密議を六波羅探題に密告し、後醍醐天皇が隠岐に流された後に持明院統後伏見上皇に請われて院評定衆に加わっているが、〔…〕、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている。
吉田定房 2010-01-30T22:58:26Z
現存の京都御所はもとは里内裏の一つで、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言い1331年(元弘元年、元徳3年)、北朝光厳天皇が最初に使用した内裏である。
京都御所 2010-10-25T17:44:04Z
1331年(元弘元年、元徳3年)の元弘の乱においては、本庄系の熊谷直経より早く鎌倉幕府側として出陣し、翌年には楠木正成の籠もる千早城の攻略に向かった。
熊谷直氏 2009-02-16T16:36:13Z
しかし、直清も武勇に優れた武将であり1331年(元弘元年、元徳3年)から始まる元弘の乱で活躍した。
熊谷直清 (新庄熊谷氏) 2009-02-16T17:24:55Z
南北朝時代1331年(元弘元年、元徳3年)、北朝光厳天皇土御門東洞院殿で即位してからは、この御殿が内裏に定められた。
皇居 2010-11-29T12:21:35Z
1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。
東勝寺合戦 2010-01-19T05:05:06Z

8月[編集]

--> 1331年(元弘元年、元徳3年)8月、後醍醐天皇が笠置山で挙兵、これに応じて楠木正成も河内で挙兵して、元弘の乱が始まる。
東勝寺合戦 2010-01-19T05:05:06Z

(1332年)[編集]

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大覚寺門跡となっていたが、元弘の乱隠岐配流された後醍醐天皇に伴い1332年(元弘2年、正慶元年)に還俗した上で越中国射水郡二塚(現・富山県高岡市二塚)にある現在の気多社(悪皇寺宮)に流されて、皇子は幽閉された。
恒性皇子 2010-03-21T08:51:59Z
build_y = 1332年(元弘2年、正慶元年)
千早城 2010-10-28T13:20:01Z
1332年(元弘2年、正慶元年)正成は赤坂城の詰めの城として千早城をその背後の山上に築いた。
千早城 2010-10-28T13:20:01Z
1332年(元弘2年、正慶元年)虎關師錬が景陽山神賛寺と改め後醍醐天皇の勅により官寺となり、後に伊勢国安國寺
総見寺 (名古屋市) 2010-05-05T21:08:59Z
1332年(元弘2年、正慶元年)
即位灌頂 2010-07-18T15:29:40Z

(1333年)[編集]

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1333年(元弘3年、正慶2年) 鎌倉幕府滅亡
鎌倉時代 2010-12-02T02:26:24Z
〔…〕1333年(元弘3年、正慶2年) || 執権北条泰時
鎌倉幕府 2010-12-02T02:41:08Z
〔…〕1333年(元弘3年、正慶2年)に新田義貞が挙兵の際、社の前で兜(冠)の中に神霊を呼び必勝祈願したことから「冠稲荷」と呼ばれるようになった。
冠稲荷神社 2010-06-18T22:10:21Z
12代菊池武時後醍醐天皇綸旨に応じ1333年(元弘3年、正慶2年)阿蘇惟直少弐貞経大友貞宗をさそって鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって善戦空しく鎮西探題館内で戦死した。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
1333年(元弘3年、正慶2年)の2月には、千早城を攻撃し、戦闘中に右足を骨折する怪我を負い、親族の熊谷直村と家臣の西条直正も負傷した。
熊谷直氏 2009-02-16T16:36:13Z
1333年(元弘3年、正慶2年)、後醍醐天皇隠岐から伯耆国船上山に帰還し、全国の諸侯に参陣を呼びかけた。
熊谷直清 (新庄熊谷氏) 2009-02-16T17:24:55Z
鎌倉幕府が滅亡した1333年(元弘3年、正慶2年)の秋以後、〔…〕
御家人 2010-08-24T06:13:22Z
1333年(元弘3年、正慶2年) 南朝方に属する武将・北畠顕家陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向した。
根城 2010-10-28T13:07:26Z
Template:''main 1333年(元弘3年、正慶2年)、幕府は千早城へ百万と号する大軍を向け、これを攻め立てた。
千早城 2010-10-28T13:20:01Z
しかし、同時期から千葉介の継承を巡り、千田胤貞千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり1333年(元弘3年、正慶2年)に鎌倉幕府を打倒すると、対立は表面化、それぞれ、足利尊氏新田義貞双方に属し、〔…〕
千葉県 2010-11-23T13:49:43Z
1333年(元弘3年、正慶2年)に新田義貞軍と北条泰家軍とが戦った古戦場跡である。
多摩市指定文化財一覧 2010-10-07T11:37:05Z
やがて鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると1333年(元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。
島津氏 2010-11-20T20:21:49Z
画像:… 画像:… 東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。
東勝寺合戦 2010-01-19T05:05:06Z
1333年(元弘3年、正慶2年)、楠木勢は千早城で再挙し、幕府の大軍を相手に奮戦する。
東勝寺合戦 2010-01-19T05:05:06Z
〔…〕1333年(元弘3年、正慶2年) - 北条高政
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
1333年(元弘3年、正慶2年) - 新田義貞の鎌倉攻めにより片瀬諏訪神社下社、類焼。
片瀬 (藤沢市) 2010-11-27T11:43:35Z
1333年(元弘3年、正慶2年)、後醍醐天皇の倒幕軍に味方した足利高氏(尊氏)の京都の六波羅探題攻略のあと、新田義貞率いる軍が鎌倉を攻める。
北条貞顕 2010-07-20T05:44:49Z

2月2日[編集]

また楠木合戦注文でも吉野執行の名があり1333年(元弘3年、正慶2年)2月2日に楠木軍に打ち落とされたとある。
吉野城 2010-10-26T12:46:35Z

2月16日[編集]

1333年(元弘3年、正慶2年)2月16日、幕府方、二階堂道蘊(にかいどうどううん)は6万余騎を率いて吉野金峯山城(吉野城)へ押し寄せる。
吉野城 2010-10-26T12:46:35Z

3月[編集]

〔…〕、後醍醐天皇が隠岐に流された後に持明院統後伏見上皇に請われて院評定衆に加わっているが1333年(元弘3年、正慶2年)3月に鎌倉幕府に対して各地で発生している討幕の動きを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を提出していることや鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事などから、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている。
吉田定房 2010-01-30T22:58:26Z

5月22日[編集]

1333年(元弘3年、正慶2年)5月22日、自刃。
北条高時 2010-12-02T03:17:32Z
1333年(元弘3年、正慶2年)5月22日、鎌倉幕府滅亡に際し東勝寺で北条高時らと自刃。
北条貞顕 2010-07-20T05:44:49Z

6月[編集]

1333年(元弘3年、正慶2年)6月、後醍醐天皇の新政府は熊谷直清の功を熊谷氏の一番とし、本庄系熊谷直経の所領を半減させ、直清に与えた。
熊谷直清 (新庄熊谷氏) 2009-02-16T17:24:55Z