増田宗太郎

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増田 宋太郎(ますだ そうたろう、嘉永2年2月23日1849年3月17日) - 明治10年(1877年)9月)は、中津藩下士増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人、渡辺重名(しげな)の娘。父は福沢百助の妻のいとこ。

略歴

渡辺重石丸(渡辺重名の孫で栄太郎の従兄弟にあたる。)に師事して国学水戸学を学び、尊王攘夷思想をもっていた。福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があったが、明治3年(1870年)、福澤が帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた(同学の同士に、獅子文六の父親の岩田茂穂がいた)。福沢邸に乗り込むものの、議論する内に福沢の価値観に魅せられ、その後、慶應義塾へ入学。異説には、福澤は来客した服部五郎兵衛と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗したとの説もある。

慶應義塾で学んだのち、民権運動に開眼し、中津帰郷後、英学を教える一方、「田舎新聞」を創刊する。

維新後は攘夷思想を改め自由民権運動にも参加。西南戦争に薩軍側として従軍、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し、故郷へ帰る隊もある中、西郷に付き従った。司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。

太平洋戦争中は、西洋思想を日本に広めた福沢が貶められ、それを暗殺しようとした増田の評価が高まり、生家跡地には神社まで建立されたという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。