丙子の乱
丙子の乱 | |
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戦争:丙子の乱 | |
年月日:崇徳元年12月2日(1636年12月29日) - 崇徳2年1月30日(1637年2月24日) | |
場所:朝鮮半島 | |
結果:清国の勝利、丁丑約条、朝鮮の明から清への服属 | |
交戦勢力 | |
清国 | 李氏朝鮮 |
指導者・指揮官 | |
ホンタイジ(皇太極) ドルゴン(多爾袞) |
朝鮮仁祖 |
戦力 | |
128, 000 | 不明 |
損害 | |
不明 | 不明 |
丙子の乱(へいしのらん、英語:Qing invasion of Joseon)は、1636年から1637年にかけて、清が李氏朝鮮に侵略して、制圧して服属させた戦い[1][2][3]。韓国では『朝鮮王朝実録』以来、敵対感が込められた呼称である丙子胡乱 (ピョンジャホラン、へいしこらん)が用いられたが、自国中心主義であるとして丙子戦争の呼称も使用されている[4]。胡の字は、古来より漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。中国では丙子之役と呼ばれている。
背景
17世紀初め、中国全土を支配していた明が衰えを見せ、後金が台頭してきた。1627年、後金は反後金親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入・制圧し(丁卯胡乱)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ[3]。
1636年、後金の太宗ホンタイジ(皇太極)は皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求した。しかし朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占めたため、仁祖は清を蛮夷と呼んで、自尊心と名分を掲げて拒絶した。これは丙子胡乱と三田島の恥辱を招いたために、後に韓国では最終判断として何よりも重要な国益が考慮しなければならない、安保損失を招く行為を自尊心という名分のために強行するのは愚かなことと批評されている[5]。
要求を拒絶された清は朝鮮が謝罪しなければ攻撃すると脅したが、朝鮮はこれを黙殺した。これに激怒したホンタイジは朝鮮侵攻を決意する。
清との戦いが決定的になると、朝鮮は隣国の日本に援軍を乞う事も検討したが、これは実現しなかった[6]。
経緯
1636年12月29日(旧暦12月2日)、ホンタイジは自ら10万の兵力を率いて当時都としていた盛京(瀋陽)を発ち、翌年1月5日(旧暦12月9日)には鴨緑江を渡って朝鮮に侵入した。義州府尹の林慶業は白馬山城を固めて清軍に備えたが、清軍はこれを避けて漢城に向けて進撃した。9日、朝鮮の朝廷は清軍侵入の事実を知ったが、10日には清軍がすでに開城を通過していた。朝鮮朝廷は急遽、漢城と江華島の守備を固め、宗室を江華島に避難させた。10日夜には仁祖も江華島へ逃れようとするが、清軍に道をふさがれ、やむなく1万3000人の将兵と共に南漢山城に逃れたが城を包囲され、40日余りの篭城の末に降伏、和議が結ばれた(三田渡の盟約)。
1637年2月24日(旧暦1月30日)、仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされた。仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、許しを乞わされた。
戦後
- 朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
- 朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
- 王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
- 清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。
- 内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
- 城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
- 清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
- 清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船50隻を送ること。
- 清国からの逃亡者を隠してはいけない。
- 昔の慣例に従い日本と貿易を行うこと。
- 清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。
ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。
李氏朝鮮は、この和議により初年度に黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが、毎年朝貢品目は減った[8]。また『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には、婚姻のため8歳から12歳の6人の女を送ったり[9]、その翌年には10人の侍女を送った記録があるが、これらの婚姻は取り消されている[10]。清に捕虜として約50万人も連行された。清に連れて行かれた朝鮮女性は性奴隷にされ、本妻から虐待を受けたりもした[11]。
清の支配体制に組み込まれた朝鮮は、清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建てた。清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回に及び、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、三跪九叩頭の礼により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。逆に朝鮮から清への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。このような清と朝鮮のこのような関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた[12]。
朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側は高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している[13]。
丁丑約條には、以後朝鮮は清に対して臣下となること (事大の礼を尽す) 、(2) 明の年号から清年号に変えること(3) 人質として王子を出すこと、 (4)軍船と人員の提供、(5) 年貢、(6)新旧の城壁を修理したり、伸縮したりすることを許さないと朝鮮の国防政策制限などの項目がある[7][3]。朝鮮日報によると攻城戦が戦争の基本だったので、国防放棄宣言だったと指摘している。清の太宗(ホンタイジ)は朝鮮に定期的に使者を送り、「朝鮮が国防に手をつけられないようにせよ」との遺言を残すほど国防放棄させることに執着した[14]。 丁丑約條を結ばされた68年後の1705年の朝鮮実録に崩れた都城の塀の修理に清の許可の必要性を巡って、朝鮮の宮廷は揉めてたことを朝鮮日報は韓国のTHAADへの中国に対する韓国国内の対応と似ていると指摘し、中国に対する三不宣言は現代の丁丑約條だと批判している。1705年当時、現代の副首相に相当する朝鮮の右議政は「築いた後で発覚したらどうするのか」と心配し、同格の左議政が「ゆっくり築けば気付かれずにできている」と小細工を提案、現代の国防長官に相当する兵曹判書は「他の意見をあまねく聞いてから決めよう」と結論延期した。朝鮮日報は「戦闘に必要な山城もなく、宮廷警備や都を警備する塀を修理するため言った言葉だ。」として現在の韓国の中国への態度そのものだと悲観した[1]。
丙子の乱を描いた作品
- 映画
- テレビドラマ
脚注
- ^ a b 朝鮮日報 2017/11/17【コラム】中国が帰ってきたのがそんなにうれしいのか (社会部=鮮于鉦 部長)[1]
- ^ “【コラム】中国、我が歴史のトラウマ(1)=韓国 | Joongang Ilbo | 中央日報”. japanese.joins.com. 2019年2月6日閲覧。
- ^ a b c 小項目事典,世界大百科事典内言及, ブリタニカ国際大百科事典. “丙子胡乱(へいしこらん)とは”. コトバンク. 2019年11月20日閲覧。
- ^ 「壬辰倭乱」を「壬辰戦争」に、来年から高校教科書で(1) 中央日報 2011年09月25日
- ^ “[핫이슈 지소미아 종료 D-3…한국이 얻을 국익은 대체 무엇인가?]” (朝鮮語). news.naver.com. 2019年11月20日閲覧。
- ^ 文甲植 (2015年6月28日). “【コラム】「韓国の物は信じられない」という韓国人の心理”. 朝鮮日報: p. 2 2015年7月3日閲覧。
- ^ a b “【コラム】中国が帰ってきたのがそんなにうれしいのか-Chosun online 朝鮮日報”. archive.is (2017年11月18日). 2019年11月20日閲覧。
- ^ 崇德二年正月二十八日。歲幣以黃金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、茶千包、水㺚皮四百張、靑皮三百張、胡椒十斗、好腰刀二十六把、蘇木二百斤、好大紙一千卷、順刀十把、好小紙一千五百卷、五爪龍席四領、各樣花席四十領、白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹、米一萬包爲定式。
同、3月 — 『仁祖実録』34卷 15年 正月 28日 (戊辰)○淸人減歲幣細麻布一百匹、諸色紬七百匹、諸色木綿布四千一百匹、蘇木二百斤、茶一千包、佩刀二十把。 — 仁祖 46卷, 23年(1645 乙酉 / (順治) 2年) 閏6月 5日(乙酉) - ^ 辛卯/備局抄啓婚媾女子六人。 右議政申景禛, 以妾孫女,爲養女年八歲, 前判書李溟妾女年八歲, 工曹判書李時白養女年八歲, 前僉知李厚根妾女年十二歲, 前判書沈器遠妾女年十一歲, 宗室之女一人, 亦在其中, 上命去之, 遂以平安兵使李時英妾女, 充其選。 — 『仁祖実録』35卷, 15年 11月 27日
- ^ 擇各司婢子之在諸道者十人, 入送瀋陽, 以淸國曾有侍女之請故也。 — 『仁祖実録』37卷, 16年 7月 8日
- ^ “【コラム】中国、我が歴史のトラウマ(1)=韓国 | Joongang Ilbo | 中央日報”. japanese.joins.com. 2019年2月6日閲覧。
- ^ 『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』小学館、2001年、ISBN 4094023763
- ^ 陳舜臣 『中国の歴史(六)』 講談社〈講談社文庫〉、1991年、343-344頁。
- ^ “【コラム】中国が帰ってきたのがそんなにうれしいのか-Chosun online 朝鮮日報”. archive.is (2017年11月18日). 2019年11月20日閲覧。