コンテンツにスキップ

サポヤイ・ヤーノシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Anaka Satamiya (会話 | 投稿記録) による 2023年6月4日 (日) 06:18個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Wikipedia:改名提案#議論終了後の対応(テンプレートは貼付後6か月経過した場合にはbotによって自動的に除去))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ヤーノシュ1世
I. János
ハンガリー王(対立王)
在位 1526年 - 1540年

出生 1487年2月2日
スピシュスキー城
死去 (1540-07-22) 1540年7月22日(53歳没)
セベシュ
配偶者 イザベラ・ヤギェロンカ
子女 ヤーノシュ・ジグモンド
家名 サポヤイ家
父親 サポヤイ・イシュトヴァーン
母親 ヤドヴィガ・チェシンスカ
テンプレートを表示

サポヤイ・ヤーノシュハンガリー語: Szapolyai János, Zápolya János, クロアチア語: Ivan Zapolja, スロバキア語: Ján Zápoľský, 1487年2月2日 - 1540年7月22日)は、ハンガリー王国対立王。即位以前はトランシルヴァニア領主であった。父はサポヤイ・イシュトヴァーン、母はチェシン公国の統治者プシェミスワフ2世の娘ヤドヴィガ

生涯

1487年、スピシュスキー城で生まれた。サポヤイ家(Zápolya)はザポリェ(Zapolje)を発祥地とし、トランシルヴァニアを基盤とする豪族で、サポヤイは1514年に起きたドージャ・ジェルジDózsa György)率いる農民反乱を鎮圧し、首謀者であるドージャを残酷に処刑した。

1526年モハーチの戦いラヨシュ2世が大勢の兵と共に戦死した後、空位となったハンガリー王に立候補した。ラヨシュ2世の姉アンナを妃とするハプスブルク家フェルディナント大公も立候補し対立した。サポヤイはハンガリー貴族のうちでもリーダーシップがあり、過去20年間政治的な経験があった(また、彼の政敵は多くがモハーチの戦いで戦死していた)。貴族の大多数はサポヤイに付き、わずかな貴族がフェルディナントに付いたにすぎなかった。11月にセーケシュフェヘールヴァールで即位、ヤーノシュ1世と称したが、オスマン帝国スルタンスレイマン1世の後ろ盾がなければフェルディナントに対抗し得ないと考えたが、それが仇となってヨーロッパ諸国から王として承認されなかった。

1540年、セベシュ(現在のルーマニアアラド県の都市)で死去した。死後、ハンガリー王国領の大部分が1541年オスマン帝国領ハンガリーとしてオスマン帝国に臣従する事となる。

1539年、妹バルバラの夫だったポーランド王ジグムント1世と、その再婚相手ボナ・スフォルツァとの間に生まれた娘イザベラと結婚した。翌年には一人息子ヤーノシュ・ジグモンドが生まれたが、サポヤイ自身はその2週間後に死んだ。夫の死後、未亡人となったイザベラは息子を擁してハンガリー王位の獲得に奔走し、1556年から1559年に死ぬまでハンガリー女王を称した。

脚註

参考文献

関連項目