ユーリヒ公国
- ユーリヒ伯国/公国
- Grafschaft (Herzogtum) Jülich
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1560年ごろのユーリヒ公国(赤色)-
公用語 リプアーリ語 首都 ユーリヒ - 伯・公
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1003年ごろ - 1029年 ゲルハルト1世 1742年 - 1794年 カール・テオドール - 変遷
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初代伯ゲルハルト1世 1003年ごろ 公国に昇格 1356年 ベルク公国と統合 1423年 ベルク公国およびクレーフェ公国と統合 1521年 プファルツ=ノイブルク公と同君連合 1614年 フランスに併合 1794年
ユーリヒ公国(独:Herzogtum Jülich)またはフーリク公国(蘭:Hertogdom Gulik)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。公国はユーリヒを首都とし、その領域はラインラント低地のルーア川両岸に拡がっていた。公国の領域は現在のドイツ領ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部、そしてオランダ領リンブルフ州の一部にあたる。1423年にベルク公国と合併して以後、ユーリヒ=ベルク公国(Jülich-Berg)と呼ばれた。ユーリヒ公国の住民たちはオランダのリンブルフ地方の人々と言語的にも文化的にも近く、同じリンブルフ語方言を使っていた。
歴史
下ロレーヌに属するユーリヒ・ガウの最初の伯は、1003年の史料に初めて記述されるゲルハルト1世である。その孫のゲルハルト3世は1081年にユーリヒ伯を自称した。1219年にユーリヒ伯となったヴィルヘルム4世は、自領を大きく拡げて1234年にはユーリヒに都市法を適用したものの、ユーリヒ伯の勢力伸長を嫌うケルン大司教コンラート・フォン・ホッホシュターデンの侵攻のため、1239年にユーリヒの町は攻撃され荒廃している。
ヴィルヘルム4世の息子ヴァルラム伯(在位:1278年 - 1297年)もケルン大司教と敵対し、1288年に大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクとブラバント公ジャン1世の間で行われたヴォーリンゲンの戦いでは、後者のブラバント公を支援した。ヴァルラム伯の弟のゲルハルト7世はローマ王位をめぐる争いでナッサウ家のアドルフを支持して対立王であるハプスブルク家のアルブレヒト1世と敵対したが、アドルフが1298年のゲルハイムの戦いで落命した後もその所領を保持した。ゲルハルト7世はまた父や兄と同様にケルン大司教と敵対し、1314年には大司教の意志に反してヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世のローマ王戴冠式をアーヘン郊外で挙行するのに手を貸している。
ゲルハルト7世とケルン大司教の長い争いは、1332年にゲルハルトの3男ヴァルラムがケルン大司教に就任したことで終わった。ゲルハルト7世の長男で後継者のヴィルヘルム6世は、1336年にルートヴィヒ4世から辺境伯の称号を与えられ、1356年にはルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世により公爵に昇格することを認められ、ユーリヒ公ヴィルヘルム1世となった。その息子の公爵ヴィルヘルム2世はカール4世の異母弟であるルクセンブルク公・ブラバント公ヴェンツェル1世と凄絶な闘争を繰り広げ、1371年にはベスヴァイラーの戦いでヴェンツェルに大勝利を収めている。
この時期から、ユーリヒ公国の歴史はクレーフェ公国、ベルク公国、ゲルデルン公国、マルク伯領といった近隣諸国と深くかかわっていくことになる。ヴィルヘルム2世はゲルデルン公ライナルト2世の娘マリアと結婚し、マリアは異母弟のライナルト3世の死後にゲルデルン公爵位を継承した。夫妻の息子ヴィルヘルム3世は二つの公爵領を相続したが、その弟ライナルトが1423年に相続人のないまま死ぬと、ゲルデルン公国はその妹の孫であるアルノルト・ファン・エフモントに受け継がれ、ユーリヒ公国はユーリヒ公爵家の同族であるベルク公アドルフが継承した[1]。
1511年にユーリヒ=ベルク公爵家最後の当主ヴィルヘルム4世が死ぬと、二つの公爵領と付属のラーフェンスベルク伯領はその娘婿のクレーフェ公ヨハン3世が継承した。1521年よりユーリヒ=ベルク公国とクレーフェ公国は、ヨハン3世を共通の君主に戴く同君連合国家、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国になった[1]。
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン・ヴィルヘルムが1609年に相続人なく没すると、3つの公爵領の後継をめぐりブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントとプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒとの間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争が勃発した。1614年のクサンテン条約 (en) により、3公爵領はプファルツ=ノイブルク公とブランデンブルク選帝侯の間で分割されることになった。ユーリヒとベルクはフィリップ・ルートヴィヒの長男ヴォルフガング・ヴィルヘルムが手に入れた。1742年にプファルツ=ノイブルク家最後の当主であるプファルツ選帝侯カール3世フィリップの死後、傍系でプファルツ選帝侯位を継承したプファルツ=ズルツバッハ家のカール・テオドール(1777年よりバイエルン選帝侯も継承)が受け継いだ。
1794年、ユーリヒ公国はフランス共和国に占領され、フランス領ロール県 (en) の一部に組み込まれた。1801年のリュネヴィル条約により、ユーリヒは正式にフランス領となることが承認された。しかし1815年にナポレオンが失脚すると、ユーリヒはプロイセン王国領ユーリヒ=クレーフェ=ベルク県 (en) (1822年よりライン県 (en) に統合される)の一部となった[1]。ただし、シッタルト (en) とテーヘレン (en) の2都市はネーデルラント連合王国に併合された。
歴代ユーリヒ領主
ユーリヒ伯
- ユーリヒ家
1081年、ユーリヒ・ガウの伯はユーリヒ伯を称する。
- 1003年 - 1029年 ゲルハルト1世 - ユーリヒ・ガウの伯
- 1029年 - 1081年 ゲルハルト2世 - ユーリヒ・ガウの伯
- 1081年 - 1114年 ゲルハルト1世(3世)
- 1114年 - 1127年 ゲルハルト2世(4世)
- 1127年 - 1138年 ゲルハルト3世(5世)
- 1138年 - 1142年 ゲルハルト4世(6世)
- 1142年 - 1176年 ヴィルヘルム1世
- 1176年 - 1207年 ヴィルヘルム2世
- ユーリヒ=ハインバッハ家
- 1207年 - 1219年 ヴィルヘルム3世
- 1219年 - 1278年 ヴィルヘルム4世
- 1274年 - 1278年 ヴィルヘルム5世(ヴィルヘルム4世と共同統治)
- 1278年 - 1297年 ヴァルラム
- 1297年 - 1328年 ゲルハルト5世(7世)
- 1328年 - 1356年 ヴィルヘルム6世
1356年、ユーリヒ伯は公爵に昇格する。
ユーリヒ公
ユーリヒ公国は1393年から1423年までゲルデルン公国と、1423年からはベルク公国と同君連合となる。
- 1356年 - 1361年 ヴィルヘルム1世
- 1361年 - 1393年 ヴィルヘルム2世
- 1393年 - 1402年 ヴィルヘルム3世
- 1402年 - 1423年 ライナルト
- 1423年 - 1437年 アドルフ
- 1437年 - 1475年 ゲルハルト
- 1475年 - 1511年 ヴィルヘルム4世
- マルク家
1521年より、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国が成立する。
- 1511年 - 1539年 ヨハン
- 1539年 - 1592年 ヴィルヘルム5世
- 1592年 - 1609年 ヨハン・ヴィルヘルム1世
ユーリヒ公国は1614年よりプファルツ=ノイブルク公国と、1685年よりプファルツ選帝侯領と、1777年よりバイエルン選帝侯領と同君連合となる。
- 1614年 - 1653年 ヴォルフガング・ヴィルヘルム
- 1653年 - 1679年 フィリップ・ヴィルヘルム
- 1667年 - 1716年 ヨハン・ヴィルヘルム2世
- 1716年 - 1742年 カール・フィリップ
- 1742年 - 1795年 カール・テオドール
系図
- ユーリヒ伯
- ユーリヒ公
ゲルハルト1世 ユーリヒガウの伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルハルト2世 ユーリヒガウの伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルハルト1世(3世) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルハルト2世(4世) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルハルト3世(5世) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルハルト4世(6世) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィルヘルム1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィルヘルム2世 | ユッタ | エーバーハルト2世・フォン・ハインバッハ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィルヘルム3世 | マティルデ (リンブルフ公ヴァルラム3世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィルヘルム4世 | リヒャルデ (ゲルデルン伯ゲルハルト3世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルク伯家 | ヴィルヘルム(5世) | ヴァルラム | ゲルハルト5世(7世) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルガレーテ (ベルク伯アドルフ6世姉妹) | オットー4世 ラーフェンスベルク伯 | ヨハンナ (エノー伯ギヨーム1世娘) | ヴィルヘルム1世 | マリア =クレーフェ伯ディートリヒ7世(9世) | リヒャルデ =バイエルン公オットー4世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルガレーテ | ゲルハルト6世 ラーフェンスベルク伯 ベルク伯 | ヴィルヘルム2世 | マリア (ゲルデルン公ライナルト2世娘) | イザベラ =3代ケント伯ジョン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ (プファルツ選帝侯ループレヒト2世娘) | ヴィルヘルム2世 ベルク公 | マルガレーテ =クレーフェ伯アドルフ1世 | カタリーナ (バイエルン公アルブレヒト1世娘) | ヴィルヘルム3世 ゲルデルン公 | ライナルト ゲルデルン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨランド (バル公ロベール1世娘) | アドルフ ユーリヒ=ベルク公 | エリーザベト (バイエルン公エルンスト娘) | ヴィルヘルム ラーフェンスベルク伯 パーダーボルン司教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルハルト ユーリヒ=ベルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クレーフェ公家 | ヴィルヘルム ユーリヒ=ベルク公 | ジビュレ (ブランデンブルク選帝侯アルブレヒト・アヒレス娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨハン ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公 | マリア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ =英王ヘンリー8世 | ヴィルヘルム5世 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルブレヒト・フリードリヒ プロイセン公 | マリー・エレオノーレ | アンナ | フィリップ・ルートヴィヒ プファルツ=ノイブルク公 | ヨハン・ヴィルヘルム ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ | ヨーハン・ジギスムント ブランデンブルク選帝侯 クレーフェ=マルク=ラーフェンスベルク公 | ヴォルフガング・ヴィルヘルム プファルツ=ノイブルク公 ユーリヒ=ベルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホーエンツォレルン家 | プファルツ家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ a b c Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 15 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 549–550.
参考文献
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.