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陸賈

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陸賈
前漢
太中大夫
出生 不詳
死去 不詳
拼音 Lù Jiǎ
主君高祖恵帝呂后文帝
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陸 賈(りく か、拼音:Lù Jiǎ、生没年不詳)は、紀元前2世紀、中国前漢時代に活躍した政治家外交官である。の人。二度南越への使者となり、漢への臣従を約束させた。太中大夫。著書に『新語』12篇・2巻、『楚漢春秋』9篇があった。

生涯

使者として活躍

陸賈の事績は『史記』とそれをほぼ踏襲した『漢書』を通じて知られる。楚漢戦争のとき客として劉邦の陣営にあり、弁舌で知られ、しばしば諸侯への使者になった[1]。なお陸賈の生没年は史書に明らかでないが、秦代に生まれ楚漢戦争の頃二十代になっていたとすると、生年は紀元前235年(秦始皇12年)から遠くないとされる[2]

二世皇帝2年(紀元前207年)9月、新たに立った秦王子嬰の下で𡸳関[3] を守る将を、酈食其とともに説得し、降伏を受諾させた。もっとも、劉邦はこの降伏を信じず、迂回攻撃して秦軍を大敗させた[4]

また、漢の4年(紀元前202年)、項羽(項羽)と劉邦が広武という山で対戦中に、項羽への使者となり、虜となっていた劉邦の父と妻を渡してもらうよう説いた[5]。しかしこの時は失敗し、続いて使者に立った侯公が和睦と父・妻の引き渡しに成功した[6]

漢の11年(紀元前196年)に、南越王の尉他(趙佗)に遣わされた[7]。無礼な態度をとった尉他に対し、王に任じる印を携えてきたことと、敵対すれば漢に滅ぼされることを陸賈は告げ、漢に従うよう説いた。尉他は態度を改めて謝った。尉他は陸賈と話して気に入り、値千人になる一袋の真珠と、また別に千金を贈った。陸賈は尉他を南越王に任命し、漢への臣従を約束させた[8]。劉邦は悦んで陸賈を太中大夫にした[9]

馬上天下を得るも

劉邦が項羽を破って天下統一した後、陸賈は儒教の教典である『詩経』や『書経』を盛んに引用し、褒め称えた。劉邦が「おれは馬上で天下を取ったのだ。詩書にかまっておられるか」と罵った。陸賈は「馬上で天下を取っても、馬上で天下を治められましょうか」と言った。さらに、呉王夫差と晋の智伯(智瑶)は武に頼ったために滅び、反逆で天下を得て殷と周を興した湯王武王の例からも文武の並用が長久の道であると説いた。さらに「もしもが天下を統一したあと、仁義に則り古代の聖王を見習っていたら、陛下が天下をお取りになれたでしょうか」と言った。劉邦は不快になったが、陸賈の言い分の正しさを認めた[9]。劉邦は、秦が天下を失い、自分が天下を得たわけ、また諸国の成功と失敗について書いてくれと陸賈に頼んだ。陸賈は国の存亡を解き明かした12篇の書を著し、1篇ができるごとに奏上した。劉邦はそのたびにほめ、左右の者が「万歳」と言った。これが『新語』である[10]

呂后を避け、呂氏討滅を工作

高祖(劉邦)の後、紀元前195年恵帝が即位すると、高祖の后で恵帝の母の呂后(呂雉)の権力が大きくなった。その頃、陸賈が親しくしていた朱建の母が死んだ。貧しい朱建は母の葬儀費用に難渋した。それを知った陸賈は、呂后のお気に入りで羽振りがよかった審食其の家を訪れ、朱建のために手厚くするよう助言した[11]。審食其がかつて朱建との交際を求め、断られていたことを知っていたからである。審食其は朱建の母のために百金を奉じ、立派な葬儀が出せるようにした[12]

その後、呂后の専横が始まると病と称して引退し、都の長安から北西に数十キロ離れた好畤に居宅をかまえた[13]。南越王から贈られた真珠を売り、代金を5人の息子に分け与え独立させた。息子たちには、従者を連れて年に2、3度訪れるから、そのとき10日間もてなすようにと約束させた。誰かの家で死んだら、その家の主である子に、陸賈が常に身につけている宝剣と車馬・従者を与える、という取り決めである[14]

後、右丞相の陳平の家を訪ね、考え込んでいた陳平の悩み事が、呂一族と幼主のことだ、と言い当ててみせた。そして、陸賈が親しくしている太尉周勃と結束を固めるべきだと助言し、互いを招いて親交を深めるようにした[15]。陳平は陸賈に奴婢100人、車馬50乗、銭500万を贈り、朝廷の公卿と交際させた。呂氏を討ち文帝を擁立するクーデター(呂氏の乱)の準備には、陸賈の力が大きかった[16]

再び南越への使者

以前に陸賈が説得した南越王趙佗は、呂后の時代に漢に反して皇帝を称した[17]文帝は即位の元年(紀元前179年)に南越王に使いをやることを決め、丞相の陳平に使者を選ばせた[18]。陳平は前に成功した陸賈を推した。文帝は陸賈をまた太中大夫に任命し、南越に行かせた[19]。陸賈が到着すると、趙他は謝罪の書状を送り、皇帝のように振る舞うことを止めると約束した[20]

天寿をまっとうして亡くなった[21]

著書

著作として『新語』と『楚漢春秋』があった。『楚漢春秋』については、『漢書』が陸賈の著作として記し[22]司馬遷が『史記』を書くときに参照したことを伝える[23]。『漢書』の目録では『楚漢春秋』が春秋(歴史書の意)、陸賈23篇が儒家、陸賈賦3篇が詩賦に分類されているが、『新語』はない[24]。陸賈23篇については、この中に『新語』12篇が含まれていたという説がある。『新語』全12篇は今に伝わるが偽作説がある[25]。賦3篇はまったく失われた。

系譜

代の司馬貞が引用する代の江徴の『陳留風俗伝』では春秋時代陸渾中国語版、おなじく『新唐書』宰相世系表第十三下によると、宣王の年少の公子の末裔とされ、『陸氏譜』と『元和姓纂』によると、陸遜は、その後裔と記されているが、いずれも真偽の程は不詳である。

脚注

  1. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻110頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻403頁。
  2. ^ 宮崎 (1965),p.135
  3. ^ 『史記』に武関、『漢書』に𡸳関。『史記』の誤りか(新釈漢文体系『史記』第2巻530頁訳注)
  4. ^ 『史記』高祖本紀第8、新釈漢文体系『史記』第2巻529頁。『漢書』高祖本紀第1上、ちくま学芸文庫版『漢書』第1巻22頁。
  5. ^ 『漢書』高祖本紀第1上、ちくま学芸文庫版『漢書』第1巻42頁。
  6. ^ 『史記』項羽本紀第7、新釈漢文体系『史記』第2巻490頁。『漢書』高祖本紀第1上、ちくま学芸文庫版『漢書』第1巻42 - 43頁。
  7. ^ 『史記』南越列伝第53、岩波文庫版『史記列伝』第4巻119頁。『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫版『漢書』第8巻20頁。
  8. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻、110 - 113頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻403 - 405頁。
  9. ^ a b 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻113頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻406頁。
  10. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻113 - 114頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻406頁。
  11. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻117頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻409頁。
  12. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻117頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻410頁。
  13. ^ 『史記』酈陸朱劉叔孫伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻114頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻406 - 407頁。
  14. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻114頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻407頁。
  15. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻114 - 116頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻407 - 408頁。
  16. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻116頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻408頁。
  17. ^ 『史記』南越列伝第53、岩波文庫版『史記列伝』第4巻120頁。『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫版『漢書』第8巻20頁。
  18. ^ 『史記』南越列伝第53、岩波文庫版『史記列伝』第4巻120 - 121頁。『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫版『漢書』第8巻20 - 21頁。
  19. ^ 『史記』南越列伝第53、岩波文庫版『史記列伝』第4巻121頁。『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫版『漢書』第8巻21頁。
  20. ^ 『史記』南越列伝第53、岩波文庫版『史記列伝』第4巻121 - 122頁。『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫版『漢書』第8巻23頁。謝罪の文は、『史記』と『漢書』で異なるところが多い。
  21. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫版『史記列伝』第3巻116頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫版『漢書』第4巻409頁。
  22. ^ 『漢書』芸文志第10、ちくま学芸文庫版『漢書』第3巻525頁。
  23. ^ 『漢書』司馬遷伝第32、ちくま学芸文庫版『漢書』第5巻521頁。
  24. ^ 『漢書』芸文志第10、ちくま学芸文庫版『漢書』第3巻554頁
  25. ^ 福井重雅『陸賈「新語」の研究』、第1節・第2節。

参考文献

  • 司馬遷著、吉田賢抗訳、『史記』第2巻(新釈漢文体系)、明治書院、1973年。
  • 司馬遷著、小川環樹今鷹真福島吉彦・訳、『史記列伝』第3、第4巻(岩波文庫)、岩波書店、1975年。
  • 班固著、小竹武夫訳『漢書』第1、第3、第4、第5、第8巻(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1997年から1998年。
  • 中央研究院漢籍電子文献資料庫」。
  • 福井重雅『陸賈「新語」の研究』、汲古書院、2002年。
  • 宮崎市定陸賈「新語」の研究」『京都大學文學部研究紀要』第9巻、京都大學文學部、1965年3月20日、85-136頁、NAID 110000056900 

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