周勃

周 勃(しゅう ぼつ、? - 紀元前169年)は、中国の秦末から前漢初期にかけての将軍・政治家。泗水郡沛県の人。子に嫡子の周勝之・条侯周亜夫・平曲侯周堅らがいる。爵位は絳侯、諡号は武侯。前漢建国の功臣にして十八功侯の一人。
秦末の反乱において劉邦(高祖)に従い蜂起し、反秦戦争と楚漢戦争で幾度となく武勲を立て、漢王朝成立後は数度に渡って反乱平定に尽力した。呂氏の乱(諸呂の乱)を陳平や諸侯と共に阻止して文帝を擁立し、軍事と行政の最高官である太尉と丞相を歴任した。
生涯
[編集]先祖は巻県の人であったが、後に沛県に移住したと伝わる。周勃は薄曲(養蚕用の筵)を編む仕事で生計を立て、副業として葬儀の際に簫を吹いて挽歌を奏でていた。また、強弓を引ける兵士としても働いていた。
沛県で挙兵する
[編集]紀元前209年の秦末の反乱において劉邦が挙兵した時、中涓(侍従)として劉邦に従い、胡陵を攻撃し、方与を陥落させた。その後、雍歯反乱後の豊を攻撃し、碭の東で秦軍を打ち破った後、軍を返して留と蕭に至ると、再び碭を攻撃し、これを打ち破った。劉邦軍が下邑を落とした時には周勃は真っ先に城壁を登り攻め込んだ。この功績により五大夫の爵位を授けられた。その後、劉邦軍は蒙と虞を攻撃し、これを占領した。章邯の車騎部隊と交戦した時、周勃は功績を立てた。続いて魏の地を平定し、爰戚と東緡を攻撃し、栗まで進軍して、これら全てを占領した。劉邦軍が齧桑を攻撃した時、周勃はまたしても真っ先に城壁を登った。東阿の地で秦軍を破り、敗走する敵軍を濮陽まで追撃し、甄城を奪取した。次に都関と定陶を攻め、宛朐を急襲して占領し、単父の県令を捕らえた。夜襲をかけて臨済を占領し、寿張を攻撃し、そこから前進して巻に至り、その城を陥落させた。その後、雍丘城下で李由の軍を撃破した。開封を攻撃した時、周勃の軍は最も早く、かつ最も多くの兵を城下に集結させた。
項梁が敗死すると、劉邦は項羽と共に軍を率いて東方の碭に向かった。沛で挙兵してから碭に戻るまでにかかった期間は1年2ヶ月であった。周勃は虎賁令に任命され、劉邦に従い魏の地を平定した。
秦を滅ぼす
[編集]劉邦軍は城武で東郡の郡尉の軍を破り、さらに王離の軍を撃破した。長社を攻撃した時、周勃はここでも真っ先に城壁に登った。潁陽と緱氏を攻撃し、黄河の渡し場を遮断、尸郷の北では趙賁の軍を撃破、南下して南陽郡守の呂齮を破って武関と嶢関を陥落させ、藍田で秦軍を破り、咸陽に到達して秦を滅ぼした。
楚漢戦争
[編集]紀元前206年、項羽によって劉邦が漢王に封じられると、周勃は威武侯の爵位を賜った。周勃は劉邦に従って漢中に入り、将軍に任じられた。
三秦平定の戦いでは周勃はまず槐里と好畤を攻撃し、最大の軍功を挙げた。咸陽では趙賁と内史保を攻撃し、またしても最大の軍功を挙げた。北進して漆を攻撃し、その後、章平と姚卬の軍を破り、西進して汧を平定した。その帰途で郿と頻陽を落とした後、章邯が籠城する廃丘を包囲した。他に西の県丞を破る、盜巴の軍を破る、上邽を攻撃して隴西郡を平定するなどの功績を挙げた。戦後、懐徳を食邑として賜った。
関中制圧後、漢軍が東征した際には周勃が嶢関を守備した。漢軍が曲逆を陥落させた時、周勃は最大の軍功を挙げた。戻って敖倉を守備した後、項羽の軍を追撃した。紀元前202年の決戦の垓下の戦いでは柴武と共に後方に布陣し、項羽が敗死すると、東進して楚の泗水郡と東海郡を平定し、合わせて22県を得た。帰途では雒陽と櫟陽を守備した。戦後、灌嬰との共同の食邑として鍾離を賜った。
反乱の平定
[編集]臧荼
[編集]紀元前202年7月、燕王の臧荼が反乱を起こした。劉邦は親征軍を率いて征討に向かい、周勃は将軍として従軍し、易水のほとりで反乱軍を打ち破った。周勃の兵士は馳道上で敵軍と戦い、多くの軍功を挙げた。
紀元前201年、正月丙午の日、絳侯に封ぜられ、食邑8,180戸(『史記』高祖功臣侯者年表では8,100戸)を領した。
韓王信
[編集]紀元前200年の冬、匈奴に降った韓王信が代の地で反乱を起こした。周勃は将軍として討伐に向かい、まず霍人を降伏させた。樊噲と協力して霍人から雲中郡まで進軍して武泉に到達すると、そこで匈奴の軍勢を打ち破り、さらに転進して銅鞮で韓王信の軍を撃破した。周勃は軍を返し、太原郡の6つの城邑を降伏させた。晋陽城下で韓王信の軍と匈奴を攻撃し、いずれも撃破して晋陽を奪還した。その後、硰石で韓王信の軍を打ち破り、敗走する敵軍を北へ80里追撃した。帰途に楼煩の3つの城を攻め落とし、平城下で匈奴の騎兵と戦った。周勃が率いる兵士は馳道で敵軍を迎え撃ち、多くの戦功を挙げた。
陳豨
[編集]紀元前197年8月、陳豨が韓王信に唆され、反乱を起こした。陳豨は代王を自称し、趙と代の地で略奪を働いた。劉邦は陳豨征討へ親征し、将軍の周勃に代を平定するよう命じた。周勃は太原郡を経由して馬邑に至ると城を破壊して占領した。周勃率いる軍勢は陳豨の将軍の乗馬絺を討ち取り、さらに楼煩で韓王信・陳豨・趙利の連合軍を撃破した。陳豨の将軍の宋最と雁門守将の圂を捕らえ、勢いに乗じて雲中郡守の遬・丞相の箕肆・将軍の勲を捕虜とし、雁門郡の17県、雲中郡の12県を平定した。さらに霊丘で陳豨を追撃して討ち取り[1]、その丞相の程縦・将軍の陳武・都尉の高肆を捕虜とし、代郡の9県を平定した。
盧綰
[編集]紀元前195年2月、燕王の盧綰が謀反を起こした。劉邦はまず樊噲に討伐軍の指揮を執らせたが、病床の劉邦のもとに「樊噲が呂氏と結託し、陛下の崩御後に劉如意と戚夫人を殺害しようとしている」との密告が入ったため、劉邦は激怒し、陳平に命じて周勃を樊噲の後任の将軍とし、樊噲を斬首せよと下した。
周勃と陳平は急行している途中で協議し、「樊噲は陛下の古くからの友人で数多くの功績があり、しかも呂后の妹である呂嬃の夫である。樊噲を一時の怒りで処刑すれば、後悔されるに違いない。生け捕りにして陛下の御前に送り、陛下ご自身の手で処分される方が良い」と結論した。陳平は軍営に到着すると、壇を築いて皇帝の使者として節を示し、樊噲を招致した。陳平は現れた樊噲を即座に拘束し、囚人護送用の檻車に載せ、長安へ送還した。なお、樊噲を載せた檻車が長安に到着する前に劉邦は崩御した。
周勃は樊噲に代わって将軍を務め、薊を攻め落とし、盧綰の大将・丞相・郡守・太尉・御史大夫を捕らえ、渾都を殲滅した。その後、上蘭と沮陽で盧綰の軍を撃破し、敗走する敵を長城まで追撃した。功績の総括として、盧綰の二つの軍を破り、主要な城邑を3つ陥落させ、5郡(上谷郡、右北平郡、遼西郡、遼東郡、漁陽郡)と79県を平定し、丞相と大将各1名を捕虜とした。
呂氏の乱
[編集]劉邦は臨終に際し、呂后から後任人事を問われた際、「蕭何の後は曹参が丞相を継ぎ、次は王陵が適任である。ただし王陵は剛直にすぎるので、陳平に補わせよ。陳平だけでは重任に耐えられない。周勃は重厚で実直だが、学に乏しい。しかし、劉氏の天下を安んじる者は必ずや周勃である。周勃を太尉とせよ」と遺言した。
劉邦の崩御後、呂后は重臣たちが幼帝に従わないことを危惧して粛清を画策したが、酈商が諫めたため断念した。周勃は燕を平定して帰還すると、即位した恵帝に仕えた。
紀元前189年、太尉の官職が設置され、周勃が太尉に任命された。
紀元前187年、恵帝が崩御し、呂后が前少帝の摂政として政務を執り仕切るようになった。呂后は一族の者を王に封じようとし、群臣を集めて議した。右丞相の王陵は「白馬の盟[2]」を掲げて強硬に反対したが、左丞相の陳平と周勃らは「高皇帝(劉邦)は劉氏の子弟を王とされました。太后が天子の執務を代行される中、呂氏の兄弟を王とされるのも、何ら問題はないと考えます」と答え、呂后は大いに喜んだ。朝議後、王陵は陳平と周勃に対し、「高皇帝と血盟を交わした時、諸君はその場に居なかったのか。太后が呂氏を王にしようとしているのに、諸君はその私心に迎合し、高皇帝との誓約を破るのか。地下の高皇帝に何の顔があって会えるというのか」と責めたが、陳平と周勃は「朝廷で太后に面と向かって反論し諫めることでは、我々は君には及ばない。しかし、漢の社稷を全うし、劉氏の後継を安定させることでは、君もまた我々に及ばないのだ」と返した。この件で王陵は失脚した。
新王朝ではやはり呂氏が専権し、劉氏の天下に禍いが及んだため、陳平をはじめ多くの臣が密かに憂慮していた。陸賈は常々周勃にこの件について話していたが、周勃はいつも冗談で応じて誤魔化した。陸賈は陳平を訪ね、呂氏に対抗するためには文官の筆頭である陳平と武官の筆頭である周勃が互いに結束を高めるべきと説得した。陳平は陸賈の言葉に従い、周勃に五百金を贈って長寿を祝い、盛大に酒宴を設けて共に酒を酌み交わすと、周勃もまた同じように報いて親交を深めた。この二人が深く結びつくことで、呂氏の陰謀は次第に衰えていった。
紀元前180年、呂后が崩御すると、呂王呂産は相国として南軍(皇宮守備軍)を、趙王呂禄は上将軍として北軍(長安守備軍)を統率し、呂氏は権勢を背景に、劉氏から皇帝位を簒奪するクーデターを計画した[3]。当時、周勃は太尉でありながら北軍の軍営に入ることさえできず、陳平は丞相でありながら政務を執ることもできなかった。
同年8月庚申の日の早朝、御史大夫の曹窋は、「(呂氏の計画を知った)斉王劉襄と灌嬰が呂氏一族を討伐しようとしている」という報告を呂産が受けた場に居合わせていたため、呂氏がクーデターを実行に移すことを察知し、直ちに陳平と周勃に伝えた。周勃は即座に行動を開始し、符節(許可証)を管理していた紀通と協力し、「皇帝の命により太尉の北軍入りを許可する」という偽りの詔勅を伝えさせた。同時に酈寄と劉揭を呂禄のもとへ遣わし、「皇帝は太尉に北軍を統率せよと命じられている。貴方は将軍の印を返還し、速やかに封国に戻るべきだ」と説得させた。呂禄は酈寄を信頼していたため、北軍の軍権を周勃に譲渡した。周勃は全軍に「呂氏に味方する者は右袒(衣の右の肩を脱ぐ)、劉氏に味方する者は左袒(衣の左の肩を脱ぐ)せよ」と号令をかけると、軍中の兵は全員左を脱ぎ[4]、こうして周勃は北軍を掌握した。
北軍は掌握したものの、南軍は依然として呂産の手中にあった。周勃と陳平、劉章は連携して行動し、衛尉に「呂産を決して殿門(未央宮の門)に入れるな」と命じた。呂産は呂禄が北軍を失ったことを知らず、未央宮に入り反乱を起こそうとしていたが、衛尉に阻まれ、行き来を繰り返していた。
周勃は呂氏と正面から戦っても勝てないことを懸念し、とりあえず劉章に千人余りの兵を与えて少帝弘の護衛を命じた。劉章は未央宮門に入ると宮中の庭で呂産と出くわしたため、これを追いかけて呂産を斬殺した。劉章から報告を受けた周勃は立ち上がって劉章に拝礼し、「呂産が除かれた以上、天下は安定した」と祝った。その後、周勃は呂氏一族の全面的な掃討を命じ、老若男女問わず一律に処刑した(呂氏の乱)。
文帝迎立
[編集]呂氏誅滅後、周勃と陳平を中心とする漢の大臣たちは評議を重ね、少帝弘や諸王(劉太、劉武、劉朝)は恵帝の実子ではなく、呂后が他者の私生児を勢力強化のために偽装したものと断じ、恵帝の子とされた者たちを全員誅殺した。後の時代に外戚によって王朝が脅かされることを危惧した大臣たちは、人格と外戚を重視して新帝を擁立することを決定し、結果、呂氏の乱で功績のあった斉王劉襄と淮南王劉長は外戚の問題を理由に候補から外れ、代王劉恒が皇帝に擁立された(文帝)。
丞相に二度任命される
[編集]文帝元年(紀元前179年)10月、文帝は周勃を右丞相に任命した。また、後任の太尉には大将軍の灌嬰が任命された。文帝は詔書を発布し、呂氏の乱の経緯を詳述して功臣を大いに表彰した。周勃の功績は第一位とされ、10,000戸の加封と金5千斤を賜った。この賞賜は陳平と灌嬰の3倍であり、周勃は文帝治世初期における臣の頂点となった。なお、周勃は賞賜を文帝の叔父の薄昭に全て贈った。
1ヶ月余りして周勃はある者に、「あなたは厚い褒賞を受け、尊い地位に就き、寵遇されています。このまま時が経てば、やがて身に災いが及ぶでしょう」と忠言され、恐れを抱くようになった。しばらくして文帝が国政に精通するようになると、あるとき文帝は周勃に「1年間の裁判件数」を尋ねたが、周勃は「存じ上げません」と謝罪した。さらに文帝が「1年間の穀物の収支」を問うと、周勃はまたも知らないと謝罪し、汗を流して自らを恥じた。文帝が今度は陳平に同じ質問をすると、陳平は「陛下が裁判の事をお尋ねならば廷尉に、財政収支をお尋ねならば治粟内史にご確認ください」と答えた。さらに文帝が「それぞれに担当がいるなら、卿は一体何を掌っているのか」と尋ねると、陳平は「宰相の務めとは、上は天子を補佐して陰陽を調え、四季の流れに順応させ、下は万物を育み、外は四夷と諸侯を鎮撫し、内は百姓を親しみ従わせ、卿大夫たちがその職責を全うできるようにすることでございます」と答え、文帝は陳平は称賛した。
周勃は恥じ入り、「なぜ事前にああした答え方を教えてくれなかったのか」と陳平を責めると、陳平は「あなたは丞相の職にありながら、その職責をご存知なかったのですか? 陛下がもし長安の盗賊の数をお尋ねになったら、あなたは無理にでも数を作ってお答えするおつもりだったのですか?」と笑って返した。周勃は自分の能力が陳平にはるかに及ばないことを悟り、病を理由に丞相の辞任を願い出た。文帝はその願いを聞き入れ、以後、陳平が単独で丞相を務めることとなった。
しかし、紀元前178年10月に陳平が没したため、再び周勃は丞相に任命された。
列侯の封国帰還問題
[編集]賈誼が提言した改革案の一つに「令列侯之国(列侯を封国へ赴かせる)」という政策があった。当時、列侯の多くは長安に居住しており、各自の封国に物資を輸送する費用は甚だしく、封国を直接治めることができないため、地方の安定にも悪影響を及ぼしていた。そこで文帝は列侯に各自の封国へ帰るよう詔を発した。この政策は列侯たちの私益を損なうものであったため、文帝が賈誼を公卿に抜擢しようとした時、周勃は灌嬰・張相如・馮敬らと共に、賈誼は権力を独占して政治を乱そうとしていると讒言した。結局、文帝は賈誼を長沙王の太傅に左遷することになったが、列侯の封国帰還政策そのものが廃止されることはなかった。
紀元前177年10月、文帝は改めて詔令を発布し、「以前より諸侯に各自の封国へ赴くよう詔を出したが、まだ出発していない者がいる。丞相(周勃)は朕が敬愛する人物である。率先して範を示すがよい」と命じ、これにより周勃は丞相の職を免じられ、封国の絳侯国へ帰国した。文帝は太尉の灌嬰を丞相に任命し、軍権を丞相に統轄して太尉を廃止した。
晩年
[編集]封国に戻ってから一年余りが経ったが、周勃は誅殺されることを恐れ、常に鎧を身に纏い、家人には客に対して武器を持って応対するように命じていた。後に周勃が謀反を企てているという告発文が文帝に届いたため、周勃は投獄され、取り調べを受けることになった。周勃は恐怖のあまり、どう弁明すればよいか分からず、獄吏は次第に周勃を虐待するようになった。周勃は獄吏に賄賂を贈ると、獄吏は木簡の裏に「公主を証人に立てよ」と書いて周勃に見せた。公主とは文帝の娘のことで、その婿は周勃の長男・周勝之であり、したがって獄吏は公主の力を借りるよう周勃に助言したのである。
薄昭と薄太后は周勃が無罪だと考えていたため、朝の挨拶に訪れた文帝に薄太后は頭巾を投げつけ、「絳侯(周勃)はかつて皇帝から賜った印璽を帯び、北軍を率いていた。その時に謀反を起こさなかった者が、小県に身を置いている今になってどうして謀反を起こすというのか」と叱りつけた。文帝が周勃の供述調書を目にすると、すぐに誤りを認めて謝罪し、周勃を釈放して爵位と封地を回復させた。
周勃は釈放された後、「私はかつて百万の軍勢を指揮したことがあったが、獄吏にこのような力があるとは知らなかった」と述べた。こうして周勃は無事に封国へ戻り、晩年を送った。
紀元前169年に死去し、武侯と諡された。
人物・逸話
[編集]質朴で剛直、篤実な人柄であったと伝えられる。学問を好まず、学者や遊説の士を召し出した時には、賓客の礼を取らずに上座に座り、「さっさと俺に分かるように話せ」と言うなど、武骨で教養に欠けていたと思われる逸話が残っているが、「経書などを引用せず、直言せよと命じた」という良い方に捉える解釈もある。
優れた軍事的能力に対し、浅学で鈍知であったことは複数のエピソードから読み取れるが、劉邦からは「大事を担うに足りる」と信頼され、周勃自身も託された使命を完遂した。
陳平への疑念
[編集]陳平が劉邦に帰順してきたときに、彼が重用されたことに対して、灌嬰とともに「陳平はかつて魏や楚から離れただけでなく、兄嫁と密通したことがあり、さらに賄賂を受け取っている人物なので信用しない方がいい」と訴えたが、陳平の抗弁を聞いた劉邦は陳平を重用し続けた。なお、後にこの3人は共に呂氏の乱を平定した。
竇氏への配慮
[編集]文帝の時代、竇皇后と生き別れの弟・竇少君が再会し、文帝は竇氏兄弟を厚く賞賜し、竇長君と竇少君は貧しい身分から一転して高貴な外戚となった。周勃は灌嬰らと相談し、「二人は出自が卑しいため、師や賓客は選んでつけなければ、再び呂氏の悪事を真似て乱を起こすかもしれない」と不安視した。そこで周勃らは徳行高く品行方正な士人を選び、二人の側に置いた。これにより竇長君と竇少君は謙虚で礼節をわきまえた君子となり、驕慢に振る舞うことはなかった。
袁盎との交流
[編集]周勃が丞相を務めていた頃、朝議が終わると、文帝はいつも恭しく周勃を見送るなどへりくだっていた。これに対して袁盎は呂氏が専横を極めていた時期に周勃は事態を正すことができなかった点を指摘し、皇帝の謙譲は君臣の礼が失われることに繋がると進言した。文帝はこれ以降態度を改め、威厳を以て周勃に接した。周勃は袁盎を恨み、「私はお前の兄の袁噲と親交があったのに私を誹謗するとは」と責めたが、 袁盎は引き下がらず謝罪しなかった。
その後、周勃が謀反の誣告を受けて獄に繋がれた時、あえて周勃のために発言する者はいなかったが、ただ袁盎だけが周勃の無罪を主張し、周勃の釈放に大きく寄与した。後日、二人は親しい友となった。
評価
[編集]司馬遷は「質素で飾り気のない人物であり、その才能は凡人を超えるものではなかった。しかし、高祖に従って天下を平定し、将軍や丞相の位に就いた。諸呂が乱を起こそうとした時、国家の危機を救い、天下を再び正しい道に戻した。たとえ伊尹や周公であってもこれ以上の功績が挙げられようか」と称賛した。
前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第4位に列せられている。これは秦末から漢初に至る期間の功績によるものであり、その後の呂氏の乱の平定などを含むと、沛県から劉邦に付き従った最古参の臣下の中でも国家への総合的な功績は随一と言える。
以下は後漢の歴史家・文学家として名高い班固の詩文集『班蘭台集』に記載されている周勃を讃えた頌詩である。
懿懿太尉,惇厚朴誠,輔翼受命,應節御營,厯位卿相,土國兼併,見危致命,社稷以寧。
懿懿たる太尉、情け深く誠実で飾り気なく、補佐して天命を受けさせ、時節に応じて軍営を統率した、卿相の位を歴任し、領土と国家を併せて治め、危急に際して命を顧みず、国家を安泰ならしめた。
脚注
[編集]- ^ 『史記』絳侯周勃世家による。高祖功臣侯者年表、韓信盧綰列伝では樊噲軍の兵が討ち取っている。
- ^ 劉氏以外の者が王となるなら天下の者が共にこれを討つという劉邦との盟約。
- ^ 史書によるが、実際は呂氏が国家の権力を牛耳っていた構造に対する、呂后の死を契機とした劉氏および功臣のクーデターという見方も考えられる。
- ^ 故事成語「左袒する」の由来。
参考文献
[編集]- 『史記』巻五十七 絳侯周勃世家 第二十七s:zh:史記/卷057