陸賈

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陸 賈(りく か、拼音:Lù Jiǎ、生没年不詳[1])は、中国政治家説客外交官の人で、の高祖劉邦に仕えた。

生涯[編集]

若い頃に儒学を修めた。劉邦に太中大夫として仕え、酈食其らと同じく説客として外交を担当した。

劉邦が項羽を破って天下統一すると、緑林の英雄であり儒家嫌いで知られた劉邦に対して、儒教の教典である『詩経』や『書経』を盛んに引用し、その素晴らしさを褒め称えた。しつこい陸賈に対して、劉邦が怒って「私は馬上で天下を取ったのだ。詩経や書経にかまっておられるか」と叱り飛ばすと、陸賈はすぐさま迎首し、「馬上で天下をお取りになっても、馬上で天下をお治めになれましょうか」と言った。さらに「もしもが天下を統一したあと、仁義に則り古代の聖王を見習っていたら、陛下が天下をお取りになれたでしょうか」と続けたので、ついに劉邦も陸賈の言い分の正しさを認め、『新語』の編纂を命じた(『史記』「酈生陸賈列伝」)。

劉邦が死に、呂雉による専横が始まると病と称し、引退して、好畤で余生を送った。引退後、南越趙佗から賜った宝を千金で売り渡し、その金を5人の息子に分け与え独立させ、楽士を数人引き連れ息子たちの元へ訪れるという、年2回巡業の旅に出ていた。

呂雉が死に、専横の呂氏を討つために陳平の家へ突如として現れ、陳平に助言して日頃から陳平と仲が良くなかった周勃を引き合わせ、自らも陳平から資金を貰い呂氏討伐の策を練った。

その後、陳平らが呂氏を討つと多額の褒美を得ることになり、文帝の代に太中大夫として再び漢に仕え、南越などの国へ再び説客として回った。のちに天寿を全うした。

代の司馬貞が引用する代の江徴の『陳留風俗伝』では春秋時代陸渾中国語版、おなじく『新唐書』宰相世系表第十三下によると、宣王の年少の公子の末裔とされ、おなじく『元和姓纂』によると、陸遜は、その後裔と記されているが、いずれも真偽の程は不詳である。

脚注[編集]

  1. ^ 紀元前240年頃 - 紀元前170年頃か?[独自研究?]

陸賈を題材とした作品[編集]