楚漢戦争
| 楚漢戦争 | ||||||||
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| 衝突した勢力 | ||||||||
| 漢 |
楚 西魏 雍 塞 翟 |
斉 趙 代 燕 | ||||||
| 指揮官 | ||||||||
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劉邦 韓信 張良 蕭何 彭越 英布 張耳他 |
項羽 范増 季布 鍾離眜 龍且 魏豹 章邯他 |
田栄 趙歇 陳余 臧荼他 | ||||||
| 楚漢戦争 | |
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項羽が諸侯に与えた領地 | |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 楚漢戰爭 |
| 簡体字: | 楚汉战争 |
| 拼音: | Chǔ Hàn zhànzhēng |
| 注音符号: | ㄔㄨˇㄏㄢˋㄓㄢˋㄓㄥ |
| 発音: | チュハン ヂャンヂォン |
| 広東語拼音: | Co2 Hon3 zin3-zang1 |
| 日本語読み: | そかん せんそう |
| 英文: | Chu–Han Contention |
楚漢戦争(そかんせんそう)は、中国で紀元前206年から紀元前202年にわたり、秦王朝滅亡後の政権を巡り、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で繰り広げられた戦争。「楚漢争覇」「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれる。
戦争前の経緯
[編集]秦末の動乱
[編集]紀元前210年、秦の始皇帝が沙丘で病没すると、趙高らが政変を起こし、長子の扶蘇と将軍の蒙恬を死に追いやり、末子の胡亥を二世皇帝として即位させた。胡亥は愚昧で放蕩に耽り、権力を独占した趙高の悪政により税の取り立てはますます苛烈になり、兵役や労役は絶えることなく、民衆は塗炭の苦しみを味わった。秦の圧政は民の反秦感情を強烈に刺激し、ついに二世元年(紀元前209年)7月に中国史上初の農民反乱(陳勝・呉広の乱)が発生し、たちまち天下の有力者たちが相次いでこれに呼応した。後の楚漢両国の君主となる項羽は叔父の項梁に従い会稽郡で、劉邦は同胞に推戴されて泗水郡沛県で挙兵した。
陳勝と呉広が失勢の末に死亡した後、二世2年(紀元前208年)2月に項梁は楚の反乱軍指導者を召集して会議を開き、劉邦は軍勢を率いて項梁に帰順した。この時、既に燕・趙・斉・魏の勢力はそれぞれ自立して王を称していたため、項梁は范増の意見を受け、旧楚の懐王の孫である熊心を擁立して懐王(後の義帝)とした。
8月、秦軍の最高指揮官である章邯は魏王魏咎と斉王田儋を討ち取った後、項梁を定陶の戦いで戦死させた。さらに章邯は北上して趙を攻撃し、趙王趙歇を巨鹿に包囲した。
秦の滅亡
[編集]趙から救援の要請を受けた懐王は軍は二つに分け、一軍は北上して趙を救援し、もう一軍は西進して秦を討伐するよう命じた。趙への援軍は宋義・項羽・范増に率いさせ、秦討伐軍は劉邦に率いさせた。事前に懐王は褒賞として、先に関中を平定した者をその地の王とする懐王の約を諸将と結んだ。
項羽率いる諸侯連合軍は鉅鹿の戦いで秦軍主力を大敗させ、章邯を降伏させた。劉邦は数ヶ月の転戦を経て関中に入り、高祖元年(紀元前206年)10月[1]に秦王子嬰を降伏させた後、配下の進言を受けて函谷関を守備するよう命じたが、この行動は諸侯軍を停留させることなり、配下の曹無傷の讒言も加わって大いに項羽の不興を買った。項羽は諸侯軍を率いて函谷関を陥落させ、12月に関中に入ると劉邦を討伐しようとしたが、項伯の取り成しにより調整された鴻門の会で劉邦の釈明を受け、これを赦した。その後、項羽は咸陽を破壊し、子嬰を殺害して完全に秦を滅亡させた。
項羽による十八王封建
[編集]秦滅亡後、項羽は懐王に義帝の尊号を送り、上書して功臣への封爵を仰ぐと、義帝は「約の通りに(劉邦を関中王と)せよ」と返答した。そもそもこの約は明らかに劉邦に有利な前提もあって項羽は激怒し、軍功と軍事力を背景に政治上の主導権を握り、自ら諸侯を各地に王として分封した。18人の王は以下の通りである。
項羽自身は彭城(現在の江蘇省徐州市)を都に定め、西楚の覇王を名乗った。
- 漢中 - 劉邦
- 雍 - 章邯
- 塞 - 司馬欣
- 翟 - 董翳
- 関中地域を三分割し、秦の降将である章邯・司馬欣・董翳の3人をそれぞれ王に封じ、劉邦の東進を阻止する障壁とした。合わせて「三秦」と呼ばれる。
- 常山 - 張耳
- 代 - 趙歇
- 趙王であった趙歇を趙の北辺の代に国替えし、項羽に付いて関中にまで従軍した趙の宰相の張耳を常山王として、趙の旧領を与えた。陳余は項羽と共に従軍しなかったため、南皮を与えられたに過ぎなかった。
- 九江 - 英布
- 衡山 - 呉芮
- 臨江 - 共敖
- 遼東 - 韓広
- 燕 - 臧荼
- 元の燕王の韓広を遼東に移し、項羽に協力した燕の将軍臧荼を燕王にした。
- 膠東 - 田巿
- 斉 - 田都
- 済北 - 田安
- 元の斉王の田巿を移して膠東王にして、項羽に協力した斉の将軍田都を斉王にした。そして項羽と親しい斉の王族の田安を済北王として、斉を三分した。また、田巿の擁立者であり、斉の実質的な支配者であった田栄は項羽に協力しなかったので、何も与えられなかった。
- 西魏 - 魏豹
- 河南 - 申陽
- 殷 - 司馬卬
- 韓 - 鄭昌
- 韓王成が劉邦と親密だったことから、項羽は彼を抑留し、自分の部下の鄭昌を立てて韓王とした。
このように項羽の封建の基準となったものは、秦の滅亡に対する功績というよりも、あくまでも自分との関係が良好か否かであり、故にその結果は不公平なものとなり、諸侯に大きな不満を抱かせることとなった。
大将軍韓信
[編集]封建後、劉邦は封地へ赴くことを望まず、項羽への反逆を考えた。これに対し、秦の記録から知識を得ていた蕭何が、「今、項羽と戦えば百戦百敗。漢中で力を蓄えてから三秦の地を奪還すべき」と進言し、これを劉邦は容れて漢王の立場を受け入れた。劉邦は項羽から3万の兵を与えられたが、辺境に行くことを望まない兵たちは次々と劉邦の下から逃亡した。
高祖元年(紀元前206年)4月、劉邦は封国へ向かう途中、張良の計略に従って通ってきた桟道(蜀道の険)を焼き払い、敵軍の奇襲を防ぐとともに項羽に東進の意思がないことを示して油断させた。韓信もこの時期に楚を離れて劉邦に身を寄せたが、当初は無名であり、後に罪を犯して斬刑に処されそうになったが、夏侯嬰に救われた。夏侯嬰は韓信の軍事的才能を知って劉邦に推薦し、劉邦は韓信を治粟都尉に任命した。しかし、韓信は重用されないことに不満を抱き去ったため、蕭何が月夜に韓信を追いかけて連れ戻し、今度は蕭何の説得までも受けた劉邦はついに韓信を大将軍に任命した。蕭何には丞相として兵糧や物資の補給を担当させ、戦争の準備を任せた。
再びの動乱と義帝殺害
[編集]高祖元年(紀元前206年)5月、斉の宰相・田栄は項羽の封建に不満を抱き、斉王田都を攻撃して楚へ敗走させた。田市は項羽から膠東王に封じられていたが、田栄は田市を斉王に立て、膠東へ赴くのを制止していた。しかし、田市は項羽を恐れるあまり逃げ出して膠東へ向かおうとしたため、怒った田栄によって殺害された。続いて田栄は済北王田安を攻めて殺害した。こうして田栄は斉の地を併合し、自ら斉王を名乗った。また、彭越に将軍の印を与えて楚を攻撃させた。項羽は蕭公角に彭越の討伐を命じたが、彭越に大敗を喫した。
7月、項羽は韓王成が秦の滅亡に功績がなかったことを口実に韓に戻ることを許さず、侯に格下げした上に范増に命じて殺害させた。このため、韓王成に仕えていた張良を劉邦の下へと走らせることになった。また、事前の張良の策により、この時期の項羽は劉邦への警戒よりも斉の田栄に目を向けていた。
高祖2年(紀元前205年)10月[1]、南皮侯に封じられていた陳余も項羽の封建に不満を抱いており、田栄から援軍を借り受けて常山王張耳を攻撃した。張耳は敗走し、劉邦を頼って漢に赴いた。陳余は趙歇を迎えて趙王に立て、功績により陳余は代王に封じられたが、自身は趙歇の下で宰相となり、夏説を代の相国に任じて代わりに統治させた。
同月、項羽は義帝を辺境の郴へ流した上で、九江王英布・衡山王呉芮・臨江王共敖に密命を下して殺害させた。
楚漢戦争
[編集]還定三秦
[編集]遡り、高祖元年(紀元前206年)8月に劉邦は韓信の計略を用いて関中に侵攻を開始した。漢軍は陳倉で雍王章邯を奇襲し、最終的に廃丘に包囲した。同月、塞王司馬欣と翟王董翳が漢に降伏した。その後、劉邦は配下の将軍たちに命じて隴西・北地・上郡を平定させた。こうして廃丘以外の三秦の地は漢の支配下に入った。また、この時期に張良が漢に入り劉邦に仕えるようになった。
三秦をほぼ平定した劉邦は薛欧・王吸を武関から出撃させ、王陵と連携して沛県にいた父の劉太公や妻の呂雉ら家族を迎え入れようと図ったが、楚軍に阻まれて失敗し、後に劉邦の家族は項羽に捕らえられて人質としての生活を強いられることとなった。
韓王信による韓平定
[編集]劉邦麾下の韓王信[2]が韓の10余りの城を攻略し、韓王鄭昌を降伏させた。
高祖2年(紀元前205年)10月、劉邦は韓王信を韓王に封じた。劉邦は櫟陽に遷都し、軍を進めて陝に至り、いよいよ東進の準備を本格化させた。
項羽による斉平定と反乱
[編集]項羽は漢・趙・斉・梁(魏)などが全て反旗を翻している状況で、鎮圧のために九江王英布に出兵を求めたが、英布は老弱の兵しか差し出さなかったため、幾度も使者を送って詰問した。
高祖2年(紀元前205年)12月、項羽は田栄を攻め破り、敗走した田栄は平原の民に殺され、斉は項羽に降伏した。同年2月[1]、項羽は田假を新たに斉王に立てた。しかし、項羽はこの戦いで大規模な虐殺を行い、通過する地をことごとく残滅していたため、斉の人々は結束して再び項羽に反旗を翻し、戦火を鎮めることはできなかった。
殷・西魏・河南が漢に降伏する
[編集]項羽は配下の陳平に命じて反乱を起こした殷を平定させ、殷王司馬卬は再び楚に降った。しかし、間もなく劉邦が東進してくると、攻撃を受けた司馬卬は漢に降った。項羽は激怒し、殷を平定した将吏を誅殺しようとしたため、陳平は恐れて出奔し、劉邦のもとに身を寄せた。また、西魏王魏豹と河南王申陽も漢に降った。
彭城の戦い
[編集]高祖2年(紀元前205年)4月、洛陽まで進軍した劉邦は、項羽の義帝殺害を非難し、逆賊を征伐するという大義名分を掲げた。劉邦は檄文を発布して各諸侯王と連合して計56万の連合軍を率い、項羽が斉に滞留している隙に二路に分かれて楚を攻撃した。一軍は曹参・灌嬰が率いて定陶を攻撃し、龍且と項佗を撃破した。もう一軍は劉邦自らが率い、外黄で楚の将軍である程処と王武を撃破した。また、彭越が3万の兵を率いて帰順してきたので、劉邦は彭越を魏の相国に任じ、梁の地を攻撃させた。劉邦軍は曹参・灌嬰の軍と合流し、碭県と蕭県を攻撃し、彭城を陥落させた。
項羽はこれを知ると、配下には引き続き斉を攻撃するよう命じ、自らは精兵3万を率いて魯県から胡陵を経て出撃した。当時、劉邦と諸侯軍は増長して軍律が乱れ、連日城内で宴会を開き、略奪を行い、女に乱暴するという状態だった。項羽はこの連合軍の虚に乗じ、彭城の西に回り込んで、早朝に急襲をかけた。項羽の突然の攻撃に連合軍は対応できず、散り散りに敗走した。項羽は執拗に追撃し、連合軍10万人を殺害し、さらに10万人を睢水に沈めた。劉邦は急いで残存兵を率いて態勢を整え、西へ逃れて残軍と合流した。
劉邦の大敗を目にした諸侯は次々と項羽に再び服属して漢に敵対するようになり、劉邦の連合構想はたちまち瓦解した。一方で項羽は圧倒的寡戦を制して勝利したものの、斉の戦況は不利であり、楚軍は田横に撃退された。斉は楚軍が去った後も特に楚を攻撃せず、中立を保った。
下邑の謀議
[編集]下邑で駐屯していた呂沢のもとに逃げ延びた劉邦は今後の事を臣下と謀議し、張良は項羽を打倒するためには英布・彭越・韓信の存在が最重要であると進言した。劉邦は張良の提案を受け、自ら進んで英布の説得を申し出た随何を送った。随何は策を用いて英布を漢に帰順させることに成功し、項羽はやむなく項声・龍且に軍を率いさせて英布を攻撃させ、九江を占領した。
京索の戦い、成皋の戦い
[編集]高祖二年(紀元前205年)6月、劉邦は櫟陽に帰還した。漢軍は包囲中の廃丘を水攻めし、章邯は十か月に及ぶ抵抗の末に自害した。手勢を回復させた劉邦は項羽の攻撃に備え、関中から東の滎陽へ駐屯した。当時、関中では大飢饉が起こり、人々は互いに食い合うほどであったため、蜀や漢中に食糧を求めに行くよう命じた。
項羽が劉邦を追って滎陽に至ると、劉邦は漢軍の騎兵将軍に灌嬰を任命し、滎陽の東で楚軍を打ち破った。さらに滎陽の南の京県と索亭で楚軍を撃破し、項羽を滎陽以東へ撃退した。この京索の戦いの後、漢軍は戦線を安定させ、楚軍は防衛線を突破して関中へ進攻する勢いを失った。以後、楚漢両軍は滎陽・成皋一帯で一進一退の攻防を繰り返すようになり、楚漢戦争は膠着状態に入った。
千里包抄
[編集]劉邦は韓信の方略に従い、諸侯を再び従えて項羽に対して戦略的包囲網を敷くことを計画し、まず酈食其を遣わして西魏王魏豹に再び漢に帰順するよう説得させたが失敗に終わった。そこで武力行使に打って出ることを決意し、自分が滎陽・成皋で項羽を引きつけている間に、別動軍を韓信・曹参・灌嬰らに率いさせ、諸侯平定の東征を命じた。
韓信による西魏平定
[編集]西魏への進攻を命じられた韓信は、一部の兵力で陽動を行い、主力軍を即製のいかだ(木罌缶)を用いて密かに渡河させ、安邑を奇襲して占領した。
高祖2年(紀元前205年)9月、劣勢となった魏豹は東に逃れたが、漢軍に追撃されて捕虜とされた。漢軍は同地の52城を全て平定して西魏を滅亡させ、その地に河東郡・太原郡・上党郡を置いた。劉邦は魏豹を処刑せずに庶民への降格だけで許し、滎陽での守備を命じた。
韓信による代・趙・燕平定
[編集]続いて代・趙への進攻を命じられた韓信は、高祖2年(紀元前205年)後9月[1]に代の相国の夏説を捕虜とし、代を滅ぼした。
高祖3年(紀元前204年)10月[1]、韓信と張耳は趙を滅ぼすため、太行山脈を越えて井陘の隘路を進軍した。趙王趙歇と陳余は漢軍の進攻に対して20万と号する大軍で備えたが、韓信は川を背にした背水の陣を敷いて趙軍に大勝し、陳余を討ち取り、趙歇を処刑した。同時期に劉邦も自ら趙を攻撃し、朝歌・安陽・邯鄲・鄴を陥落させた。こうして漢は趙を一挙に滅ぼした。続いて韓信は趙の降将である李左車の献策を採用し、戦わずして燕王臧荼を降伏に追い込み、燕を帰順させることに成功した。
12月、劉邦は滎陽に帰還した。同月に英布も随何と共に滎陽に入った。
滎陽の戦い
[編集]項羽は漢が構築した敖倉から滎陽へ食糧を輸送するための甬道(補給路)を繰り返し攻撃し、これにより漢軍は食糧不足に陥ったため、劉邦は項羽に和議を持ちかけた。項羽自身は和睦に乗り気だったが范増が反対し、和議は拒否された。劉邦は范増が最大の障害と考え、陳平に四万斤の金を物資として与え、項羽と范増の関係を離間するよう命じた。范増はまんまと陳平の謀略にかかった項羽に激怒し、隠退を申し出て帰郷の途につくと、その途中で病没した。
范増は排除したものの滎陽包囲の打開は行き詰まり、現状を打破するために劉邦は灌嬰と靳歙に命じて楚軍の兵糧輸送路を攻撃させた。さらに劉邦は二軍を梁の彭越と合流させ、楚軍の後方にある重要拠点の魯県を攻撃させた。一方で灌嬰と靳歙という二つの精鋭軍を移動させたため、滎陽では依然として項羽との厳しい対峙を余儀なくされた。
高祖3年(紀元前204年)7月、項羽は滎陽に猛攻をかけ、進退窮まった劉邦は包囲からの脱出を試みた。陳平が策を講じ、その囮役に将軍・紀信が名乗り出たため、劉邦は自身に扮した紀信を東門から出撃させ、楚軍が紀信に気を取られている間に数十騎で西門から出て脱出に成功した。紀信は激怒した項羽によって火刑に処された。
彭越による楚攪乱
[編集]劉邦は滎陽を脱出した後、南の宛・葉で英布と共に兵を集め、兵力を回復させた劉邦は再び成皋に入って楚軍に備えた。
同時期、彭越が黄河を渡って楚の東阿を攻撃し、将軍・薛公を殺害したため、項羽は彭越討伐のために東進したが、討てずに敗走させるにとどまり、以後、彭越は楚軍の兵糧補給路を断つ遊撃戦を展開した。
滎陽陥落
[編集]高祖3年(紀元前204年)8月、滎陽防戦の指揮は周苛・樅公・韓王信・魏豹に任されていたが、周苛と樅公は魏豹が再び裏切る可能性があるとしてこれを誅殺した。項羽は劉邦が再び成皋に軍を置いたことを知ると、西進して滎陽を陥落させ、周苛・樅公を処刑、韓王信を捕虜とし、さらに成皋を包囲した。劉邦は夏侯嬰と共に急いで成皋から脱出し、項羽は成皋を陥落させると西進を図ったが、漢軍が鞏県で交戦してこれを防ぎ、楚軍を進めさせなかった。その後、劉邦は使者を自称して韓信の陣営に駆け込み、その軍を接収し、斉進攻の準備を韓信に命じた。
韓信の軍を得て勢いを盛り返した劉邦は項羽と一戦交えようとしたが、鄭忠の進言を受けて防戦に徹することにし、盧綰と劉賈に2万の兵を与えて彭越を救援させ、楚の物資集積所を焼き払わせた。また、南燕で楚軍を撃破して睢陽・外黄など17城を攻略した。
斉が楚に援軍を求める
[編集]靳歙は魯県で項冠を破った後、繒県・郯県・下邳・蘄県・竹邑を攻略し、彭城をほぼ包囲する勢いを見せていた。しかし、ここで予想外の事態が発生する。劉邦は韓信に斉への攻撃を命じた一方で、酈食其を高く評価し、斉への降伏勧告の使者として遣わせていた。9月、酈食其は見事使命を果たし、弁舌をもって斉王田広に漢への帰順を承諾させるが、斉に向けて進軍していた韓信は既に降伏したことを知ってなお、謀士の蒯通から「これでは弁士の功績が将軍の功績を上回ってしまうことになる」と唆されて独断で斉への攻撃を開始した。田広は激怒して酈食其を烹殺した後、韓信に敗れて臨淄を占領されると高密に逃れ、宿敵である項羽に救援を要請した。項羽はこれに応じ、 項佗・龍且・周蘭に20万の軍を与えて斉に向かわせた。劉邦はやむなく諸将を韓信の軍に送り、靳歙も進撃を断念せざるを得なくなった。
広武山での対峙
[編集]高祖4年(紀元前203年)10月[1]、劉邦は楚軍の兵力が手薄になった隙に乗じて、成皋への反攻を開始した。当初、成皋の楚軍は項羽の命令通りに堅守して戦おうとしなかったが、劉邦が数回にわたり陣前で罵倒させると、ついに怒りに駆られて出撃してきた曹咎を汜水のほとりで自害させ、再び成皋を奪回した。漢軍は勢いに乗じて将軍・鍾離昧を滎陽の東で包囲したが、敗戦の報を聞いた項羽が睢陽から引き返してくるとそれ以上の攻撃はせずに広武山(現在の河南省鄭州市滎陽市北西部に位置する丘陵地帯)に駐屯した。戻った項羽は劉邦と広武山に臨んで数ヶ月にわたって対峙した。
韓信による斉平定
[編集]高祖4年(紀元前203年)11月、韓信率いる漢軍と楚・斉連合軍は濰水を挟んで陣を構えた。事前に韓信は上流を土嚢で堰き止め、敵軍を誘い出して川を半ば渡ったところで決壊させるという戦術を用いた。これにより龍且は戦死、周蘭は捕虜となり、連合軍は潰走した。さらに田広が討たれたため、田横は自ら斉王を称し、彭越のもとに身を寄せた。
同月に劉邦は張耳を趙王に封じた。韓信の名声は非常に高まり、韓信は劉邦に自らを仮の斉王にするように要請した結果、高祖4年(紀元前203年)2月[1]に劉邦は韓信を斉王に封じた。ここに至り、韓信は劉邦の将軍というよりも一つの独立勢力としての立場を築くことになった。
項羽は韓信こそが最大の脅威であると恐れ、武涉を韓信のもとに遣わして自分に味方するよう説得させたが、斉に駐留する将兵たちの多くは劉邦の側近であり、韓信自身も厚遇してくれた劉邦に背くのは忍びないとして武涉の説得を拒絶した。蒯通は韓信に対し、自立して天下を三分するべきだと説いたが、韓信は悩んだ末に劉邦への恩義を選び、蒯通は後難を恐れ、発狂した振りをして去った。
劉邦が矢で射られる
[編集]追い詰められていた項羽は、捕らえていた劉邦の父である劉太公を高台に立たせ、劉邦に「今すぐ降伏しなければ、お前の父を煮殺す」と宣言した。これに対し劉邦は「私とあなたは兄弟の契りを結んだ仲だ。私の父は即ちあなたの父でもある。どうしても自分の父を煮るというなら、私にも汁を一杯分けてくれ」と返答した。項羽は劉太公を煮殺そうとしたが、項伯の説得を受けて処刑を取り止めた。
後日、項羽は劉邦に「天下が数年も乱れているのは、我々二人のためである。我々で一騎打ちして勝負を決しようではないか」と申し出た。劉邦は笑ってこれを拒否し、「私は智で戦うことを選ぶ。力では戦わない」と返した。なおも項羽が勇士を召喚して挑んでくると、劉邦も騎射に優れた楼煩出身者を召喚し、三度にわたって項羽の兵を射殺した。今度は項羽自ら戟をもって挑むと、あまりの気迫に楼煩出身者は矢を引くことすらできず、陣営に逃げ戻って二度と出てこようとしなかった。劉邦は項羽が自ら出てきたことに驚き、広武山の峡谷を挟んで項羽と対話した。劉邦は項羽に対して十の罪状を並べ立てて非難したが、その時、項羽は伏せていた弩で劉邦を射た。矢は劉邦の胸部に命中し、負傷した劉邦は成皋に戻って療養することとなった。
灌嬰による楚攻め
[編集]韓信は灌嬰に命じ、斉から南下させて楚の城邑のことごとくを降伏させた。項羽は急ぎ項声に奪回を命じたが、灌嬰は下邳で項声・郯公の軍を大いに破り、彭城を占領して項佗を捕虜とした。さらに苦・譙を攻撃し、脱走していた周蘭を再び捕虜とした。その後、灌嬰は劉邦の本軍と合流した。漢は東は彭城を制圧し、北は趙王張耳と斉王韓信が支配し、西は広武山で項羽と対峙するという、戦略的包囲網をほぼ完成させるに至った。項羽はもはや戦況を挽回する力を失っており、楚漢戦争の情勢は完全に漢側へ傾いていた。劉邦は負傷が癒えると、関中に戻って民衆を慰労し、関中から兵を集めて広武山へと戻った。
鴻溝の和約
[編集]高祖4年(紀元前203年)8月、漢軍は関中から兵力と兵糧を安定的に供給する一方で、楚軍の兵糧は尽き、項羽は漢との和議を成立せざるを得なくなった。また、劉邦も韓信や彭越を頼りとするには不確定要素が大きかったため、両国は天下を中央で二分し、鴻溝を境として東を楚、西を漢という条件で和約を締結させた。こうして長きにわたり対峙してきた楚漢両軍は一時停戦した。9月に前述の和議の交渉も務めた平国君侯公が楚に使者として赴き、項羽を説得して劉邦の家族の解放に成功した。
劉邦の家族が返還されると、張良と陳平は「楚軍は疲弊し食糧も尽きており、まさに天が楚を滅ぼそうとしている時です。この機に乗じて楚を討ち取るべきです」と進言し、劉邦はこれに従った。
固陵の戦い
[編集]高祖5年(紀元前202年)10月、劉邦は和約を反故にして東へ帰還中の項羽を奇襲した。彭越も楚の昌邑周辺の20余りの城邑を落とし、穀物10万斛以上を鹵獲して漢軍の軍糧に充てた。劉邦は楚軍を陽夏で撃破し、樊噲が楚の周将軍とその兵4,000人を捕虜とした。劉邦は敗走する項羽を追撃し、一方で劉賈を別働隊として寿春・城父を攻略させた。楚の令尹・霊常と大司馬・周殷が項羽から離反して漢に与し、周殷は九江を陥落させ、英布の軍と合流した。劉邦は陽夏の南で進軍を緩め、合流を約束していた韓信・彭越の軍と共同で楚軍を挟撃しようとしたが、固陵に到着しても両者の軍は現れなかった。項羽が反撃に転じて漢軍を大いに破ると、劉邦は自陣まで退却して深い壕を掘って守りを固めた。
劉邦が「なぜ韓信と彭越は来ないのか」と張良に尋ねると、「韓信と彭越にはまだ領地が保証されていません。彼らが来ないのは当然です」と返ってきたため、劉邦は使者を遣わして韓信と彭越に戦後の封地を約束すると、両者はすぐに進軍要請に応じた。間もなく灌嬰と靳歙が率いる騎兵軍が彭城から固陵へ向かってくると、項羽は包囲を防ぐために南の陳へと移動した。劉邦と霊常は固陵を攻撃して殿軍の鍾離眜を撃破し、陳へ向かった。
陳下の戦い
[編集]高祖5年(紀元前202年)11月、劉邦が西北から、灌嬰が東方から陳に籠城する項羽を挟撃した。陳公(陳県令)利幾が漢に降伏し、大敗した項羽は残兵を率いて東へ撤退したが、劉賈が城父を壊滅させて楚軍の補給を阻止し、英布と周殷が北上して追撃してきたため、項羽は南東へ進路を転じ、垓下へ逃れた。劉邦・劉賈・彭越・英布・周殷は項羽を追撃し、垓下で合流した。韓信も大軍を率いて垓下へ赴き、劉邦と合流した。劉邦は英布を淮南王に封じた。
垓下の戦い
[編集]高祖5年(紀元前202年)12月、垓下に逃れた項羽が率いる兵は10万ほどであり、幾度の敗戦と食糧不足により士気は低下していた。劉邦は項羽との決戦に臨み、韓信を30万の前衛として正面に、孔藂を左翼、陳賀を右翼に、周勃と柴武を後衛に置き、自軍はその中央に入った。戦いが始まり、項羽の攻勢を前に韓信は一時後退したが、そこに陳賀と孔藂が両翼から同時に挟撃を仕掛け、楚軍の側面を撃破した。これに乗じて韓信も再攻勢をかけ、楚軍を大敗させた。項羽は敗走して自陣に籠城し、漢軍が幾重にもこれを包囲した。
夜になると四方の漢の陣から楚の歌が聞こえてきたため、項羽は「漢軍はすでに楚の地を全て占領したのか」と絶望し、悲壮な慨嘆を込めて自ら詩を詠んだ。これが「四面楚歌」と「垓下の歌」である。
項羽、烏江で死す
[編集]項羽は騎兵800人余りを率い、真夜中に包囲を突破して南へ疾走した。夜明けになって劉邦は項羽の脱出に気づき、灌嬰に5,000騎で追撃させた。項羽が淮河を渡ったとき、付き従うことのできた騎兵は100人余りだった。その後、項羽は農夫に騙されて湿地帯に迷い込むなどで追撃を受け、東城に至った時には僅か28騎となっていた。項羽は28騎を4隊に分けて漢軍に切り込み、漢の将を切り伏せると、山の東側に部下を集結させ、再び切り込んで都尉1人と100人近くの兵を討ち取った。この間、項羽が失ったのは2騎のみであった。項羽は東へ逃れ、河の渡し場では烏江の亭長が船を出して項羽を助けようとしたが、項羽は「天が私を滅ぼそうとしているのにどうして渡ることができようか」と笑って断り、愛馬の騅を亭長に与え、生き残った26人を下馬させて漢軍を迎え撃った。
最後の決戦において項羽は満身創痍になりながらも単独で漢軍数百人を殺したが、敵軍の中に旧知の呂馬童を見つけると、「聞けば漢は私の首に千金と一万戸の領地を懸けているそうだな。お前には旧知のよしみで恩賞をくれてやろう」と言い、自刎して果てた。王翳が駆け寄って首を得たが、周囲の漢兵たちも群がり、互いに項羽の死体を奪い合った。数十人の死者を出した結果、呂馬童・王翳・楊喜・呂勝・楊武の5人が項羽の首と両手足を分け合い、褒賞を5分して受けた。
項羽の死後
[編集]劉邦は楚軍を全滅させ、勝利を収めた。楚の旧領は次々と平定されていき、最後まで抵抗したのはかつて義帝の時に項羽が封じられていた魯だけであったが、漢軍が項羽の首を示すと魯の長老たちは降伏し、ここに楚は完全に平定された。劉邦は項羽を魯公として穀城に葬り、喪に服し、墓前に涙をそそいだ。
諸侯王の中では臨江王共尉のみが項羽に忠誠を尽くして漢に帰順しなかったため、漢軍は臨江の都である江陵を攻め落とし、共尉を処刑した。また、項伯ら残った項羽一族を誅殺することはせず、「劉」姓を賜って項氏4人を列侯に封じた。さらに項羽の右腕として劉邦を苦しめた季布や陳嬰も、諌められてこれを登用した。しかし同じく項羽の右腕として劉邦を苦しめた鍾離眜は韓信に匿われていたが、韓信に謀反の疑いがかけられたときに自決させられた。
劉邦は中国を統一した後、皇帝となり、紀元前202年に「漢」を国号として前漢王朝を樹立した。
関連作品
[編集]- 映画
- 項羽と劉邦/その愛と興亡 (1994年 中国・香港)
- 項羽と劉邦/White Vengeance (2011年 中国)
- 項羽と劉邦 鴻門の会 (2012年 中国)
- テレビドラマ
- 項羽と劉邦・背水の陣 (1991年 中国)
- 劉邦と項羽 (1997年 中国)
- 大漢風 〜項羽と劉邦〜 (2004年 中国)
- 項羽と劉邦 (2004年 香港)
- THE MYTH/神話 (2009年 中国)
- 項羽と劉邦 King's War (2012年 中国)
- 小説
- 戯曲
- 漫画
- ゲーム

