黒田善治
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黒田 善治 | |
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生誕 |
1871年4月20日 日本 茨城県 |
死没 | 1944年12月29日(73歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1891年 - 1921年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
黒田 善治(くろだ よしはる、1871年4月20日(明治4年3月1日) - 1944年(昭和19年)12月29日[1][2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級爵位は従三位勲二等功四級男爵[3]。
経歴・人物
[編集]茨城県平民坂本芳平の次男(兄に退役陸軍歩兵大佐・坂本左狂)として生まれ、1898年(明治31年)黒田久孝の養子となり、1900年(明治33年)12月に家督を継ぎ、襲爵する[3][4]。
1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業[1][5]。翌年、陸軍歩兵少尉、1898年(明治31年)大尉を経て、1909年(明治42年)5月に中佐・近衛歩兵第4連隊附となる[3][4]。この間、日露戦争の功により功四級金鵄勲章を賜る[3][4]。
その後は、1912年(大正元年)9月に佐倉連隊区司令官、1914年(大正3年)8月に陸軍歩兵大佐・歩兵第2連隊長、1916年(大正5年)8月に近衛歩兵第4連隊長を経て、1918年(大正7年)7月に陸軍少将・歩兵第10旅団長となり、シベリア出兵に従軍[1][5][6]。シベリアにて病に罹り、1921年(大正10年)4月に待命、同年10月に予備役に編入した[1][5]。
1928年(昭和3年)8月には隠居に伴い華族栄典を喪失した[7]。
栄典
[編集]親族
[編集]- 養父:黒田久孝(幕末の幕臣)
- 妹:野崎ゑい(男爵・野崎貞義の叔父善蔵の妻)[4]
- 長男:黒田孝雄(登山家、日本山岳会副会長を歴任)[3][10]
- 次男:佐藤忠雄(外科医・佐藤達次郎の養子)[3]
- 長女:鈴木よし (陸軍大将・鈴木宗作の妻)[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所編『人事興信録』第4版、人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。
関連項目
[編集]- 御宿町立御宿小学校 - 1902年に暴風雨で校舎が倒壊した後、1戸あたり1日5厘の日掛け貯金を募って再建された、というエピソードに感激した黒田が、「五厘」と儒教の「五倫」をかけて、「五倫黌」と書かれた扁額を寄贈した。このことから「五倫黌」の異名がある。
日本の爵位 | ||
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先代 黒田久孝 |
男爵 黒田(久孝)家2代 1900年 - 1928年 |
次代 栄典喪失 |