高志航

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高 志航
Gao Zhihang.jpg
外国語 Gao Zhihang
渾名 空軍戦魂、東北飛鷹
生誕 1907年5月14日
清の旗 遼寧省通化市(現吉林省管轄)
死没 1937年11月21日(満30歳没)
中華民国の旗 中華民国 河南省周家口
所属組織 Flag of Fengtian clique.svg 東北空軍
Republic of China Air Forces Flag (1937).svg 中華民国空軍
軍歴 1923年 - 1937年
最終階級 上校(大佐に相当)、死後少将
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高志航
各種表記
繁体字 高 志航
簡体字 高 志航
拼音 Gao Zhihang
和名表記: こう しこう
発音転記: ガオ ヂーハン
ラテン字 Kao Chi-Hang
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高 志航(こう しこう、1907年5月14日 - 1937年11月21日)は、中華民国空軍の軍人、エースパイロット(撃墜数5)。原名高銘久、字は子恒遼寧省通化市(現吉林省管轄)出身。日中戦争では中国軍戦闘機隊の指揮官として活躍し、日本軍機を初めて撃墜したことで知られる。最終階級は上校(大佐に相当)、死後少将。 同時期に活躍した楽以琴劉粋剛李桂丹とともに中国空軍の「四大金剛」と称されている[1]

生涯[編集]

1907年5月14日、通化県高麗墓子(現:通化市通化県大都嶺郷繁栄村)にある貧農の家庭にて、8人兄弟の長男として生まれる。父は高景文、母は李春英。小学校には農作業を手伝っていたため、9歳から入学した。13歳の時、奉天中法中学に入学。17歳にて卒業し[注釈 1]、貧しい家計を支えるため東北陸軍軍官教育班に入隊。当初砲術を学んだ。その後フランス留学班に抜擢されイシー=レ=ムリノーの民間航空学校、続いてフランス陸軍航空学校で飛行機の操縦を学ぶ。この時期に名前を「高志航」に改めた。卒業後は陸軍軍曹に任官され、ナンシーにある陸軍航空隊第21戦闘飛行隊で実習を行った。1927年1月に帰国後、張学良軍の少尉に任官。東北航空処飛鷹隊隊員、東北航校の教官を務め、少校に到る。

満州事変後、フランス留学時の友人の紹介で国民政府軍航空隊に任官となるが、事故が原因で第一次上海事変には参加できなかった。搭乗員を続ける為に当時設立間もない中央航校高級班で訓練を受けるが、奉天閥出身の為冷遇され、訓練の結果は肄業(単位不十分のまま卒業)扱い[2]、階級も空軍の組織系統を整理する名目として中校から上尉へ降格された[3]。しかしその後の戦技披露で優秀さが認められ、杭州筧橋中国語版にある中央航空学校第8大隊隊長に抜擢、中央航校駆逐機班の教官となった。1934年春、中校に昇進するとともに空軍第4大隊長を命じられ、第21、第22、第23中隊(戦闘機隊)を統括する。1935年イタリアにて1年間視察をした。帰国後、教導総隊副総隊長に就任。総隊長・毛邦初中国語版の支援のもと、南昌にて戦闘機搭乗員の錬成に当たり、劉粋剛柳哲生楽以琴董明徳鄭少愚羅英徳等の優秀な搭乗員を育て上げた。

1937年8月14日第二次上海事変の勃発とともに、高は台風の荒天の中を第4大隊の全機を率いて杭州の筧橋飛行場へ進出した。第4大隊の配備機種はカーチス・ホークⅢ英語版で、高の乗機は「Ⅳ-1」号機[4]であった。第4大隊は到着すると同時に、台湾から渡洋爆撃に出撃してきた九六式陸上攻撃機の編隊を迎撃。高は最初に1機を撃墜、続いてもう1機を大破させた[5]。続いて8月15日、空母「加賀」の八九式艦上攻撃機隊を迎撃、高は1機を撃墜した。しかし2機目を射撃中に右腕を射抜かれて負傷し、1ヶ月間の入院療養を余儀なくされた[6][7]

9月中旬、日本軍による首都南京への空襲を聞いて戦線復帰した高は、復帰当日に水上偵察機1機を撃墜した。このとき高は、ホークⅢ胴体下部の爆弾架を取り外すことを提案し、改修を施した機体で出撃していた[8]9月22日、南京上空で日本海軍の戦爆連合17機を迎撃し、九六式艦上戦闘機1機を撃墜した[9][7]

中ソ不可侵条約締結により、10月頃からソ連製の航空機が中国空軍へ供与されるようになった。高志航と第4大隊は中国北西の蘭州へ赴き、ソ連製戦闘機(ポリカルポフI-16I-152)を受領して1ヶ月間の慣熟訓練を受けた。11月22日朝、高は13機の戦闘機を率いて蘭州を出発、周家口飛行場へ到着した[10]。折しも正午頃、周家口飛行場へ木更津海軍航空隊の九六陸攻11機が来襲した。高はI-16に乗り込むがエンジンがかからず、粘ってエンジン始動を繰り返しているところへ爆弾が落下したため被爆、戦死した[11][7]。享年30。

戦死後少将へ特進、漢口商務会大礼堂にて追悼会が催され、蒋介石周恩来らが参列した。高志航の率いた第4大隊は、のちに後任の李桂丹によって「志航大隊」[7]と称さるようになった。

年譜[編集]

劉紹唐編、「民国人物小伝第2冊」(伝記文学出版社・1977年)p136、中華民国国防部後備指揮部・國民革命忠烈祠HPなどより翻訳。

  • 1925年 - 東北陸軍軍官教育班砲兵科卒業
  • 1926年
    • 9月 - 陸軍航空戦闘学校入学
    • 11月 - 夜間爆撃第21団見習飛行員
  • 1927年 - 帰国、少校。東北空軍飛鷹隊隊員
  • 1928年 - 敉平蒙変での功績により中隊長
  • 1929年 - 訓練中の事故で右足を負傷
  • 1930年 - 東北航空教導隊受訓、教育班教官となる
  • 1931年10月 - 軍政部航空署第4隊飛行員
  • 1932年2月 - 中校
  • 1933年
    • 2月 - 中央航空学校1期高級班肄業、上尉に降格
    • 6月 - 航空学校教官
    • 12月 - 兼任暫編駆逐隊隊長
  • 1934年7月 - 第6隊隊長
  • 1935年8月 - イタリア留学
  • 1936年
    • 4月 - 帰国、教導総隊附
    • 7月 - 第6大隊隊長
    • 12月 - 第4大隊隊長
  • 1937年8月14日 - 戦闘中に負傷、入院。大隊長代理を王天祥中国語版に任せる。同日空戦の功により上校
    • 9月 - 戦線復帰
    • 10月 - 蘭州にて乗機をI-16に換装
    • 11月22日 - 周家口飛行場に進出、戦死

家系・親族[編集]

高家の本来の祖籍は山東省だが、代に戦乱を逃れて遼寧省に移住し、奉天城の付近で農業を営んでいた。清朝末期になって、高志航の叔母に当たる人物が軍高官と結婚したため一家は城内に居住し、高志航の祖父はそこで料理人として生計を立てるようになった。だが叔母の恩恵はほとんど無く、一家は貧しいままであった。父・高景文は双子の弟とともにそこで鉄くずの売り買いを行っていたが、ある時一人城を飛び出して通化市に向かい、通化県大都嶺郷繁栄村に落ち着いた。30歳で李春英と結婚し、高志航ら三男一女を儲ける。その後、奉天城内の親戚が亡くなりその遺産が入ってきたため、三棵楡樹村(現:同県三棵楡樹郷)の農地を購入しそこに移住した[12]

兄弟[編集]

  • 次弟:高銘徳
  • 三弟:高銘新
  • 四弟:高銘魁
  • 五弟:高銘礼
  • 六弟:高銘義
  • 姉:高銘蘭
  • 妹:高銘梅

配偶者[編集]

  • 邵文珍 1924年結婚。だが1927年に自殺し、子は無し。
  • ワカリア(ベラルーシ人)1928年結婚、1931年離婚。高麗良、高友良の2人の女児。
  • 葉容然 1932年結婚。長男高耀漢(新生報経済記者)、長女高憶椿。

栄典[編集]

史跡[編集]

  • 2002年8月14日、「八·一四」空戦から65周年を記念し、彼の旧家が「高志航烈士記念館」として一般公開された。
  • 現在、台湾台東県北東に、彼の名にちなんで「志航基地」が存在する。ただし、この基地の管轄は志航大隊の後任に当たる第455戦術戦闘機連隊ではなく、教導部隊である第737戦闘訓練連隊(第7大隊)。

関連作品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 13歳のときに中学に入学せず(もしくは入学したが中途退学)入隊したという文献と、中学卒業後入隊したという文献がある。弟である高銘魁の証言によると、中学は卒業した、とするのが正しいようである。

脚注[編集]

  1. ^ “空中骁将”李桂丹 中華人民共和国国防部
  2. ^ 劉紹唐編、民国人物小伝第2冊 伝記文学出版社1977年 p136
  3. ^ 抗戦時期著名空軍英雄 - 高志航
  4. ^ 中山、149,176頁。
  5. ^ 中山、181-183頁。
  6. ^ 中山、196頁。
  7. ^ a b c d 『第2次大戦 世界の戦闘機隊』、313頁。
  8. ^ 中山、251-252頁。
  9. ^ 中山、253頁。
  10. ^ 中山、278頁。
  11. ^ 中山、283-284頁。
  12. ^ 高铭魁:回忆胞兄高志航民国春秋2011-08-03 17:11:05

参考文献[編集]

  • 中山雅洋 『中国的天空(上)沈黙の航空戦史』 大日本絵画、2007年。ISBN 978-4-499-22944-9
  • 秦郁彦 / 航空情報編集部 『第2次大戦 世界の戦闘機隊』― 付・エース列伝、酣灯社、1987年。ISBN 978-4873570105
軍職
先代:
なし
空軍第4大隊長
初代:1936.12 - 1937.11.21
次代:
李桂丹