高山城 (大和国)

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高山城
奈良県
城郭構造 山城
築城主 鷹山氏
遺構 土塁曲輪、土橋
指定文化財 未指定[1]
位置 北緯34度45分25秒 東経135度43分10秒 / 北緯34.75694度 東経135.71944度 / 34.75694; 135.71944
地図
高山城の位置(奈良県内)
高山城
高山城
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高山城(たかやまじょう)は、奈良県生駒市にある日本の城跡。

概要[編集]

高山城は、奈良県生駒市の北部、黒添池の南に位置する標高217メートル、比高40メートルの山城である[2]

戦国時代大和国人鷹山氏の居城であり、大和国と河内国の国境に位置していた。

城は3つの曲輪から構成されており、2006年、文化財保護の観点から遺構を避けるような形でハイキング道が設置された[2]

沿革[編集]

鷹山城(高山城)のある大和国添下郡鷹山荘[注釈 1]は、大和の軍勢が北河内に展開する際に通過したり、また奈良から京都へ向かう僧が山城国相楽郡に抜けるために度々通るなどする(「鷹山越」)、交通の要衝であった[4]

この地を押さえる国人・鷹山氏は鷹山城を居城としていたが、城の築城時期は不明である。源頼光の流れを受けるともされる鷹山氏は[5]応永27年(1420年)に鷹山荘の下司職を得ていることが確認できる[6]嘉吉4年(1444年)には鷹山奥頼弘の名が見え、頼弘は興福寺一乗院官符衆徒となっている[4]

鷹山氏は筒井氏越智氏などと比べると小さな勢力だったが、応仁の乱1467 - 1477年)を経て力をつけ、西軍において越智氏・古市氏に続く主力勢力と見なされていた。そのためか応仁の乱の終息する文明9年(1477年)11月、西軍の総大将だった足利義視美濃への下国前、一時期鷹山を御座所とした[7][8]

その後、明応7年(1498年)には鷹山氏の味方勢力である古市澄胤が鷹山城に拠って戦っているが、この時近郊の竹林寺が焼かれるなどしている[注釈 2][11]。なお、鷹山城の存在が確実に見えるのはこれが最初である。

16世紀中頃の鷹山氏当主・鷹山弘頼は河内国守護畠山氏の家中に入り、北河内の軍勢の動員を期待され、また安見宗房とともに南山城の守護代に任じられるなど大和国外へと勢力を伸ばした[12]。しかし天文22年(1553年)、畠山氏における権力争いの中、安見宗房との対立から弘頼は自刃[13]。弘頼の子・藤政は畠山氏から離れ、鷹山は宗房の所領になったものと見られる[14]永禄2年(1559年)には宗房と敵対する三好氏の家臣・松永久秀が大和に侵攻し、鷹山は焼き討ちにあった[15][14]。この時に焼け落ちたものか[注釈 3]元亀3年(1572年)、鷹山藤逸により高山八幡宮が再建された[17]

この後、鷹山氏は筒井順慶定次に仕え、天正13年(1585年)の定次の伊賀転封にともない鷹山を去ることとなる[18]。鷹山城の正確な廃城時期は分からないが、鷹山氏当主はこの時まで鷹山城に在城していたとされる[19]

構造[編集]

高山城は標高217メートル、比高40メートルの丘陵上にある山城で、南北に延びる尾根に沿って約200メートルにわたり主要な曲輪が連なっている。大きく分けて三つの部分からなっており、北から順にそれぞれ中心曲輪群1、曲輪2、曲輪3とする[2]

中心曲輪群1

標高217メートルの最高所にある曲輪とそれを中心とする曲輪群。高山城全体の主郭といえる。北側に低い土塁がみられ、その先の鞍部には自然地形と判別しづらい緩い堀切がある[20]

曲輪2

九頭龍王を祀る十三重塔が設置されており、2006年に整備されたハイキング道の終点に当たる[21]
中心曲輪群の南に隣接するように位置し、中心曲輪群との間に堀切などは見えず遮断はされていない。そのため中心曲輪群の南側の守りを固める役割を担い、一体となって運用されたと見られる。また曲輪2の南側斜面は断崖状の急傾斜となり、要害性が高い[21]

曲輪3

曲輪2から南にやや離れた位置にある。北側・東側には土塁が巡るが、周囲は自然地形ばかりではっきりとした堀切の跡が見られない、城郭としては不完全な形態となっている[22]

高山城のこの構造は、明応7年(1498年)の古市氏の入城の際、臨時の駐屯地として形作られたものである可能性がある。そうであれば防御のための厳重な堀の必然性もなく、高山城に明瞭な堀切がないこととも合致する[22]

また、同盟的な軍勢による築城は主郭中心の求心性を求めた構造でなく、曲輪が分立的に集合する横並びの構造となる。同盟的関係の古市氏が高山城に入城していることや、鷹山弘頼が率いた河内衆も同盟的関係にあったものと考えられることから、鷹山氏の権力構造は同盟的構造によるものと見なせ、高山城の城郭構造もそれを反映したものであると考えられる[22]

所在地[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 延久2年(1070年)の「興福寺雑役免帳」に「鷹山庄」の名が見られる。また高山惣、高山庄、高山郷、高山村など、古くから鷹山村とともに併称されてきた[3]
  2. ^ 「尋尊大僧正記」明応7年(1498年)8月6日条(『大乗院寺社雑事記』)に「古市ハ高山城ニ在之、合戦、秋篠・宝来衆ト也、所々焼之、」とある[9][10]。それに続けて「竹林寺炎上歟云々、以外事也、名文殊也、行基菩薩之御骨舎利在之所也」とあり、興福寺大乗院門跡である尋尊行基の墓所である竹林寺の炎上を「以ての外」と嘆いている[9]
  3. ^ 文明6年(1474年)の戦火で焼失したともされる[16]

出典[編集]

  1. ^ 「高山城跡」生駒市公式HP
  2. ^ a b c 千田 2006, p. 56.
  3. ^ 生駒市誌編纂委員会 1985, p. 291.
  4. ^ a b 生駒市教育委員会 2020, p. 170.
  5. ^ 生駒市誌編纂委員会 1985, p. 89.
  6. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 29 奈良県』 角川書店、1990年、662頁。ISBN 4-04-001290-9 
  7. ^ 「尋尊大僧正記」文明9年(1477年)11月14日条(『大乗院寺社雑事記』)。
  8. ^ 生駒市教育委員会 2020, pp. 170–171.
  9. ^ a b 生駒市教育委員会 2020, p. 155, 関連資料117.
  10. ^ 日本歴史地名大系30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。 
  11. ^ 生駒市教育委員会 2020, p. 172.
  12. ^ 生駒市教育委員会 2020, p. 175; 小谷 2015, p. 320.
  13. ^ 生駒市教育委員会 2020, pp. 175, 189–190; 小谷 2015, p. 321.
  14. ^ a b 小谷 2015, p. 322.
  15. ^ 「享禄天文之記」永禄2年10月12日条に「弾正殿鷹山へ勢遣焼払」とある。
  16. ^ 生駒市教育委員会 2020, p. 2; 野口 1974, pp. 101, 105.
  17. ^ 生駒市教育委員会 2020, pp. 2, 175; 小谷 2015, p. 322.
  18. ^ 生駒市誌編纂委員会 1985, p. 90; 生駒市教育委員会 2020, p. 1.
  19. ^ 「鷹山氏系図写」(生駒市教育委員会 2020, p. 76)。
  20. ^ 千田 2006, pp. 56–57.
  21. ^ a b 千田 2006, pp. 57–58.
  22. ^ a b c 千田 2006, p. 58.
  23. ^ 村田ほか 1980, p. 321.

参考文献[編集]

  • 生駒市教育委員会編 『生駒市遺跡分布調査概報』 生駒市教育委員会〈生駒市文化財調査報告第7集〉、1988年。doi:10.24484/sitereports.252 
  • 生駒市教育委員会編 『生駒市古文書調査報告書Ⅲ 北地区(高山町)』 生駒市教育委員会〈生駒市文化財調査報告書第26集〉、2008年。 
  • 生駒市教育委員会編 『興福院所蔵 鷹山家文書調査報告書』 生駒市教育委員会〈生駒市文化財調査報告書第38集〉、2020年。 
  • 生駒市誌編纂委員会編 『生駒市誌(通史・地史編)V』 生駒市役所、1985年。 
  • 小谷利明 「文献史料からみた私部城」、交野市教育委員会編 『私部城跡発掘調査報告』 交野市教育委員会、2015年。doi:10.24484/sitereports.17362 
  • 千田嘉博 「奈良県高山城の構造」 『文化財学報』 23・24号、2006年http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN0000711X-20060300-1007 
  • 野口省吾 「大和高山の宮座(一)―奈良県生駒市高山町―」 『ソシオロジ』 18巻3号、1974年。doi:10.14959/soshioroji.18.3_90 
  • 村田修三ほか編 『日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山』 新人物往来社、1980年。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]