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風外本高

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風外 本高ふうがい ほんこう、俗名:東泰二、安永8年(1779年) - 弘化4年6月22日1847年8月2日))は、江戸時代後期の曹洞宗僧侶

略歴

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安永8年(1779年)に伊勢国度会穂原村押渕(現在の三重県南伊勢町)に、東孝助の次男として生まれる。幼名は泰二。天明6年(1786年)に地元の圓珠院で安山泰穏につき出家し、ついで松坂にある薬師寺の大愚霊智に学ぶ。19歳のとき但馬国龍満寺玄樓奥龍に師事して、その法嗣となる。風外本高の名前も、この時市から与えられた。興聖寺宇治市)にも従って移動。

34歳で出雲国徳林寺開山となり、文政元年(1819年)に摂津国圓通院も開き、次いで54歳のとき三河国香積寺25世となった。後に摂津国烏鵲楼に引退した。

一方で池大雅の書画に私淑し、落款が蛸に似ていたため「たこ風外」と呼ばれた。弘化4年(1847年)6月22日に遷化。

著作リスト

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  • 『鉄笛倒吹評頌弁解』
  • 『碧巌録耳林鈔』 - 風外が門下に行った『碧巌録』の講義を弟子が編集したもの。駒澤大学図書館には江戸期の写本も残っているが、広く知られるようになったのは明治14年(1881年)曹洞宗大学林のテキストとして刊行された後である。
  • 『烏鵲楼高閑録(うじゃくろうこうかんろく)』(国書刊行会、2004年) - 風外の言行録。高閑は風外の別号。現在は駒澤大学図書館と香積寺の写本が知られているが、原本の所在は不明。
  • 『三方鼎足談』 - 神道、儒教、仏教の3つの教えについて、文盲太郎が鈍鐵和尚に問いかける形式で書かれる。巻頭口絵には風外が描いたと思われる、神道、儒教、仏教の代表者が肩を組んで微笑む姿の絵が掲載され、この本の内容を象徴している。

絵画作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
玄樓頂相 長興寺 (田原市)
五百羅漢 紙本著色 4幅 161.1x108.3(各) 永平寺 元は襖絵で、画面が連続しないことから本来は大部な屏風絵か。明治時代に香積寺より献納され、画風からも描かれたのは香積寺時代の作品と考えられる[1]
天台石橋羅漢図 永平寺
獅子図 總持寺 1833年(天保4年)
達磨慧可図 紙本墨画淡彩 1幅 136.2x62 総持寺
十六羅漢図 興聖寺 (宇治市) 1835年(天保6年)
虎図 興聖寺 (宇治市) 1841年(天保12年)
天台石橋出没隠顕五百尊図 永昌寺 (出雲市) 1839年(天保10年)
出山釈迦図 洞光寺 (松江市) 1839年(天保10年)
出山釈迦図 大運寺 (名古屋市) 1837年(天保8年)
釈迦三尊十六羅漢図 3幅対 豊川稲荷 1837年(天保8年5月)
群仙図 4幅 永住寺(新城市 1836年(天保7年)
武陵桃源図 豊田市美術館 1838年(天保9年)

弟子

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諸嶽奕堂總持寺独住1世)、原坦山(曹洞宗大学林総監)、久我環渓(永平寺61世)、横山雲南(黄仲祥、南画家)

脚注

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  1. ^ 福井県立美術館企画・制作・発行 『大永平寺展―禅の至宝、今ここに―』 2015年10月23日、第75図。

参考文献

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外部リンク

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