諏訪頼篤 (美濃守)

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諏訪 頼篤(すわ よりあつ、寛文元年6月26日1661年7月22日) - 宝暦3年5月19日1753年6月20日))は、江戸時代旗本

高島藩初代藩主・諏訪頼水の次男・諏訪頼郷による分家。諏訪頼常(頼郷の子)の長男。通称は午之助、七左衛門。官位は従五位下肥後守、後に美濃守。室は正木時清(内藤能登守家臣)の娘。子に頼均(婿養子、内藤信有3男)、頼均室、忠林盛恭諏訪盛就養子)、頼弼江原寅親室。

経歴[編集]

寛文6年(1666年)7月11日、父の没後に跡を継ぎ、寄合に列する。元禄11年(1698年)1月11日、小姓組頭となり、領地武蔵国本庄領、上野国藤岡領計500石を武蔵国賀美郡児玉郡、上野国新田郡に移される。12月25日、布衣を着ることを許される。正徳4年(1714年)8月15日、京都町奉行となり丹波国氷上郡内500石を加増された。

享保8年(1723年)7月24日に江戸北町奉行となり、享保16年(1731年)9月15日、田安館に仕え、上野国新田郡、山田郡内500石を加増され都合1,500石となる。元文3年(1738年)12月8日に職を辞し、寛保2年(1742年)4月4日に致仕し、養子の頼均が継いだ。養老料300俵を賜る。宝暦3年(1753年)に93歳で没した。

次男(長男は養子頼均)で実子の忠林は、諏訪忠虎の養嗣子となり高島藩主となる。

関連項目[編集]