藤岡市助
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藤岡 市助(ふじおか いちすけ 安政4年3月14日(1857年4月8日) - 大正7年(1918年)3月5日)は、日本の工学者・実業家。日本に電気および電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。東京電気(後の東芝)の創業者でもある。
来歴[編集]
周防国岩国(現在の山口県岩国市)に岩国藩士藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。慶応元年(1865年)、藩校の養老館に入る。
- 在学中にウィリアム・エドワード・エアトン教授に学び、学生として1878年3月25日の銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。この日は電気記念日となっている。
- 1880年 電信技術の教科書「電信初歩」を書く。
- 1881年 名称が変わった工部大学校を首席で卒業。卒業論文は「測定器ガルバノメートルに就いて」。工部大学校の助手に就任する。この頃、芝浦製作所(現在の東芝の重電部門)創業者の田中久重に会う。
- 1882年 銀座大倉前で2000個のアーク灯を点灯する。
- 1883年 アーク灯用の発電機を設計製作。
- 1884年 工部大学校教授に就任。物理学、電信学を教える。フィラデルフィア万国電気博覧会を視察し、ニューヨークに立ち寄りトーマス・エジソンに会う。
- 1886年 帝国大学工科助教授に就任。同年に辞職し、山尾庸三の尽力で東京電燈を設立する。
- 発電機の交流直流論争において、岩垂邦彦が親交の深かったエジソンに逆らってもニコラ・テスラの交流に賛意を示したのに比べ、東京電燈の技師長であった藤岡がエジソンの直流側についたのも有名である(但し、藤岡の説得で財界シンジケートが組まれて資本投下をされていた為、後戻りできなかった事情も窺える)。
- 1890年 三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る。
- 1891年 工学博士を授与[1]
日本電気協会会長、東京電気社長、岩国電気軌道社長などを歴任。
同郷の先輩に江木千之がおり電球製造の後援者となる。
脚注[編集]
- ^ 「博士授与式」東京日日新聞明治24年8月25日『新聞集成明治編年史. 第八卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ “藤岡圭助 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2022年2月21日閲覧。