藤原俊憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

藤原 俊憲(ふじわら の としのり、保安3年(1122年) - 仁安2年4月10日1167年4月30日))は、平安時代後期の公家学者藤原南家少納言・藤原通憲(信西)の長男。藤原北家真夏流参議藤原顕業の養子。官位従三位・参議。

経歴[編集]

はじめ、文章博士藤原顕業の養子として儒官の道に進み、康治元年(1142年文章得業生となり、康治3年(1144年対策に及第して、大学権助に任ぜられる。のち、式部少丞六位蔵人刑部大丞を経て、仁平4年(1154年従五位下叙爵

若年より実父・信西譲りの才智をもって登用され、久寿2年12月(1156年1月)立太子して間もない守仁親王(のち二条天皇)の東宮学士に任ぜられる。翌保元元年(1156年)に発生した保元の乱後の除目右少弁に任官。その後は保元の乱で権力を掌握した父・信西の権勢をも背景として要職を歴任し、翌保元2年(1157年正五位下に昇叙し、さらにそれまでの東宮学士に加えて、五位蔵人・左少弁・左衛門権佐検非違使佐)を兼ねて三事兼帯となり、「希代」のことと評された[1]。保元3年(1158年正四位下・権左中弁に昇進する一方で、後白河天皇から二条天皇への譲位に伴い、後白河上皇の院別当と二条天皇の蔵人頭をも兼ねて、朝廷の橋渡し役も務めた。平治元年(1159年)4月に参議として公卿に列し、同年11月には従三位に叙せられる。

しかし、同年12月平治の乱が勃発。父・信西は殺害され、さらに乱後、戦乱を招いた責任によりその子息は悉く流罪に処せられる。俊憲も解官の上で越後国(後に阿波国に変更)に配流となり、これを契機に出家して法名真寂と称し、宰相入道と呼ばれた。翌永暦元年(1160年)には平安京に召還されるが、その後は政治の表舞台に立つことなく、仁安2年(1167年)4月10日死去。享年46。

人物[編集]

愚管抄』や『古事談』『続古事談』にその文才を物語る逸話がある。また、『玉葉』にも、かつて俊憲が「後白河院のもとでは戦乱が止まないであろう」と予言していたことが「聖人格言」として紹介されている[2]

著書として『新任弁官抄』『貫首秘抄』があり、また歌人としても『千載和歌集』(2首)・『新勅撰和歌集』(1首)にもその作が入選している[3]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 兵範記』保元2年10月23日条
  2. ^ 『玉葉』元暦元年7月9日条
  3. ^ 『勅撰作者部類』

参考文献[編集]

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
  • 木村真美子「藤原俊憲」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年