萩元晴彦
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萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7日 - 2001年(平成13年)9月4日)は、日本のテレビ制作者・音楽プロデューサーである。
来歴[編集]
テレビ草創期の名プロデューサー[編集]
長野県飯田市出身。1937年に一家で上京し、自由学園に学ぶが、1945年には長野県南安曇郡烏川村(現安曇野市)に疎開する。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て1953年に早稲田大学文学部露文科卒業後、ラジオ東京(現 TBSテレビ)に入社。「神これを癒し給う・心臓外科手術の記録」「三元宇宙中継/東京・ベルリン・ローマ 今語ろう世界の若者たち」など数々の作品を制作後、1970年にTBSの仲間25人と共に同社を退社。日本初の独立系テレビ番組制作会社・テレビマンユニオンを創立し、初代社長に就任する。
旅番組のさきがけである『遠くへ行きたい』や、日本初の3時間ドラマ『海は甦える』などをプロデュースしたが、特にクラシック音楽に関する番組を数多く制作。『オーケストラがやって来た』、TBS創立30周年記念番組『カラヤンとベルリンフィルのすべて』などを手がけた。
遺作は、病身で勝負に打ち込む棋士・村山聖を描いたドラマ『聖の青春』(2001)。萩元が大崎善生の原作に惚れ込んで、出版元の講談社と直談判。ドラマ化権を獲得し、村山の地元の放送局・中国放送での制作・放送にこぎつけた。
同年9月、脳梗塞で死去。葬儀は、萩元とゆかりの深い(後述)カザルスホールで行われた。音楽葬の形をとり、今井信子・堀米ゆず子らの弦楽演奏、小澤征爾・井上道義指揮による新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏を織り交ぜながら進行した。
世界的指揮者・小澤征爾との友情[編集]
指揮者・小澤征爾とはTBS時代からの親友。かつて小澤がNHK交響楽団と対立し、日本の音楽界から孤立したいわゆる「小澤事件」の際、萩元は小澤に日本武道館で第九を指揮する番組企画を持ちかけた。これが、初期TBSの名ドキュメンタリーと言われる「現代の主役・小澤征爾"第九"を揮る」である。
その後も二人の「撮る」「撮られる」関係は続き、『北京にブラームスが流れた日〜小澤征爾・原点へのタクト〜』(1978)、『クラシックスペシャル 先生聞いてください・斎藤メモリアルコンサート』(1984)、『赤い夕日〜小澤征爾,故郷の指揮台に立つ〜』(1994)など数々の番組で小澤を記録しつづけた。
1997年には長野オリンピックにおける開会式・閉会式の総合プロデューサーを務めたが、この際にも萩元は親友の小澤に協力を依頼。世界各地をテレビ中継でつなぎ、小澤指揮のもと同時に第九を合唱するという企画を実現させた。
音楽プロデューサーとして[編集]
クラシック番組に長年携わってきた経験が評価され、サントリーホールが開館の際に、オープニングシリーズ総合プロデューサーとして企画制作にあたった。
また、1987年には新しくオープンしたカザルスホールの総合プロデューサーに就任した。
その他[編集]
- テレビマンユニオンをともに立ち上げた、村木良彦・今野勉との共著『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』はテレビ論を語った名著として、いまも語り継がれている。
- 旧制松本中学時代には、野球部のエースとして甲子園(第29回全国中等学校優勝野球大会)に出場している。
- 父・萩元隼人は労働運動家で日本社会党→左派社会党公認で長野4区から総選挙に出馬したこともあるが、1953年の総選挙公示直前に急死し身代わりとして母の萩元たけ子が立候補。トップ当選し、衆議院議員を1期務めた。
受賞[編集]
- 1954年 民放祭賞(ラジオ社会報道番組部門)
- 1966年 民放祭賞(テレビドキュメンタリー部門)
- 1966年 芸術祭奨励賞
- 1967年 ギャラクシー賞
- 1971年 放送批評家懇談会第15回期間選奨
- 1972年 放送批評家懇談会第20回期間選奨、テレビ大賞審査委員会優秀番組賞
- 1974年 放送批評家懇談会第30回期間選奨
- 1975年 放送批評家懇談会第33回期間選奨、テレビ大賞審査委員会特別賞
- 1976年 芸術選奨文部大臣賞(放送部門)、放送批評家懇談会第35回期間選奨、テレビ大賞審査委員会優秀番組賞
- 1978年 テレビ大賞審査委員会優秀番組賞、映画テレビプロデューサー協会特別賞
- 1980年 ギャラクシー選奨
- 1983年 ギャラクシー賞制定20周年記念特別賞
著書[編集]
共編著[編集]
出典[編集]
- 「郷土歴史人物事典 長野」第一法規 1978年