居杭

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耳引から転送)
伊勢門水『狂言画』。居杭(井杭)は子役が演じている。

居杭』(いぐい、井杭)は、狂言の演目の一つである[1][2][3]。「小名狂言」、あるいは「雑狂言」(大蔵流では「集狂言」)に分類される[3][4][5]。題名は主人公の名と同一であるが表記が流派によって異なり、大蔵流では『居杭』、和泉流では『井杭』である[1][2][3][4]。居杭(井杭)という人物が、清水寺の観音様に「隠れ頭巾」を授かり、姿を消して周囲の人々を翻弄する話である[1][2][3]

1593年文禄2年)に、戦国武将である豊臣秀吉前田利家徳川家康が演じた狂言『耳引』(みみひき)であると推定されている[6][7][8]

略歴・概要[編集]

なにかと頭を叩かれる人物・居杭(井杭)が題名にもなった主人公であるが、このネーミングは「出る杭は打たれる」から来たと推測されている[9]。居杭(井杭)が授かる「隠れ頭巾」は、被ると透明人間になる設定である[10]。「隠れ頭巾」を授ける千手観音を本尊とする清水寺は、謡曲田村』『熊野』『花月』にも歌われている霊場である[10]

現在、居杭(井杭)を子役が演じる少年設定が多いが、中には成人設定の場合もある[3][5][9]。もともとは成人設定で、「鬼山伏狂言」に分類されていたものであり、現在の上演とは趣が異なる[4][9]。居杭(井杭)が成人設定だった時代には、亭主(何某)に寄生して生活する人物として描かれていたという[11]。市井の占い師である「算置」が登場する本作は、狂言の演目のなかでも珍しいものとされる[3]。本作における「算置」は、亭主(何某)とともにからかわれ、笑われる存在であるが、本作の主眼は「算置」の存在をあざ笑うことではなく、陰陽道算術算道といった呪術世界である、という評価がある[12]

作者、成立年代はともに不詳である。大蔵流は玄恵(生年不詳 - 1350年)の作と伝えるが、傍証は存在しない[13]。記録に残る本作のもっとも古いものは、1464年(寛正5年)に成立した『糺河原勧進猿楽日記』に記載されている『カクレミノ』という作品で、これは本作の古名であると推測されている[14]

『文禄二年禁中能番組』によれば、グレゴリオ暦1593年11月27日にあたる文禄2年旧暦10月5日から3日間、後陽成天皇を前に豊臣秀吉が開催した「禁中御能」で、秀吉は自ら居杭を演じ、算置に前田利家、有徳人(主人、現在の亭主あるいは何某にあたる役)に徳川家康をキャスティングして、『耳引』という狂言を上演している[6][7][8]。この『耳引』は、現在の『居杭』であるとみなされている[6][7][8]

1576年(天正6年)の現存する最古のテキストである『天正狂言本』[15]、いわゆる「天正本」や、1642年(寛永19年)に書写された大蔵虎明能狂言集、いわゆる「虎明本」では、場面が二段構成であった[16]

須田国太郎は、二世茂山千作(1864年 - 1950年)が1946年(昭和21年)2月17日、京都の金剛能楽堂で行った『居杭』をデッサンし、描き残している[17]。同上演では、居杭は成人設定であった[17]。『狂言 - 鑑賞のために』(1974年)には、井杭を子役だった当時の野村耕介(のちの五世野村万之丞)、亭主を四世野村万之丞(現在の七世野村万蔵)、算置を六世野村万蔵が演じた和泉流『井杭』の白黒写真が掲載されている[9]

登場人物[編集]

シテ、アド、小アドの割当は公演の都度、流動的である[18]。大蔵流でも「亭主」を「何某」(なにがし)とする公演もある[18]

  • シテ : 居杭(大蔵流)[5] / 井杭(和泉流)[9]
  • アド : 亭主(大蔵流)[5] / 何某(和泉流)
  • 小アド : 算置

あらすじ[編集]

かわいがるあまりとはいえ、なにかと頭を叩く癖がある亭主(何某)。その家に出入りする居杭(井杭)は、それが嫌で嫌で、清水寺に願をかけてみると、千手観音から不思議な力をもつ「隠れ頭巾」を授かる。頭巾を被ると姿が視えなくなる。亭主(何某)は突然いなくなった居杭(井杭)を探し回るが見つからず、通りがかりの算置に居杭(井杭)の居場所を占ってもらう。算置はなかなかの腕前でさまざまなことを言い当てるが、居杭(井杭)をみつけることはできない。透明人間になった居杭(井杭)は、算木を隠したり、耳を引っ張ったり叩いたりと、亭主(何某)と算置にさまざまないたずらを仕掛ける。互いに相手がやってとぼけていると思い込んだ亭主(何某)と算置が、ついにつかみ合うまでの大喧嘩になってしまう。最終的には居杭(井杭)が姿を現し、追い込まれる(あるいは逃げ出していく)。

テアトログラフィ[編集]

おもな公演記録である[18]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 居杭デジタル大辞泉コトバンク、2012年9月7日閲覧。
  2. ^ a b c 井杭・居杭大辞林 第三版、コトバンク、2012年9月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 居杭油谷光雄日本大百科全書、コトバンク、2012年9月7日閲覧。
  4. ^ a b c 杉森、p.66.
  5. ^ a b c d 居杭、大蔵流山本会、2012年9月7日閲覧。
  6. ^ a b c 杉森、p.77.
  7. ^ a b c 文禄二年禁中能番組日本芸術文化振興会、2012年9月7日閲覧。
  8. ^ a b c 東北芸術工科大学伝統館 薪能東北芸術工科大学、2012年9月7日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 吉越、p.42-43.
  10. ^ a b 丘、p.76.
  11. ^ 杉森、p.76.
  12. ^ 福井、p.72-74.
  13. ^ 大曽根、p.89.
  14. ^ 南北朝期・室町初期における狂言作品成立の可能性名古屋女子大学、2012年9月7日閲覧。
  15. ^ 『定本 酒吞童子の誕生 もうひとつの日本文化』、2020年9月15日発行、高橋昌明、P150
  16. ^ 杉森、p.78.
  17. ^ a b c 居杭須田国太郎大阪大学附属図書館、2012年9月7日閲覧。
  18. ^ a b c 居杭/井杭、日本芸術文化振興会、2012年9月9日閲覧。

参考文献[編集]

  • 杉森美代子『狂言研究 考察と鑑賞』桜楓社、1969年。 
  • 吉越立雄、羽田昶『狂言 - 鑑賞のために』保育社〈カラーブックス〉、1974年1月。ISBN 4-586-50302-5 
  • 大曽根章介『研究資料日本古典文学 第10巻 劇文学』明治書院、1999年12月。ISBN 4-625-51110-0 
  • 福井栄一『鬼・雷神・陰陽師 古典芸能でよみとく闇の世界』PHP研究所PHP新書〉、2004年4月15日。ISBN 4-569-63598-9 
  • 丘眞奈美『京都の「ご利益(りやく)」徹底ガイド』PHP研究所〈PHP文庫〉、2007年5月2日。ISBN 978-4-569-66788-1 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]