美乃家セントラル・ステイション
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(美乃屋セントラル・ステイションから転送)
美乃家セントラル・ステイション | |
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出身地 | 日本 東京都 |
ジャンル | R&B、ファンク、ソウル・ミュージック、ポップス、ニューミュージック |
活動期間 | 1976年 - 1980年 |
レーベル | 日本フォノグラム |
共同作業者 | 大橋純子 |
メンバー |
佐藤健(キーボード) 小田健二郎(キーボード、シンセサイザー) 土屋潔(ギター) マーティー・ブレイシー(ドラム) 六川正彦(ベース) 後藤輝夫(サックス) |
旧メンバー |
見砂和照(ドラム) 土屋昌巳(ギター) 滝本大助(ギター) 福田郁次郎(ベース) 高杉登(パーカッション) |
美乃家セントラル・ステイション(みのやセントラル・ステイション、1976年 結成 - 1980年 解散)は、日本のポップバンドである。ヴォーカリスト・大橋純子のバックバンドとして結成され、佐藤健や土屋昌巳が在籍したことで知られる。
略歴
[編集]1973年(昭和48年)当時、ヤマハ音楽振興会のポプコンに関する業務を行う部署として「L.M制作室」があった。L.Mはlight musicの略称で、軽音楽である。室長は後年に編曲者作曲家として活躍する萩田光雄で、船山基紀や佐藤健が在籍していた。佐藤は20歳の大橋と出会い[1]、1974年6月に大橋は22歳で歌手デビューする。
1976年(昭和51年)に佐藤は、大橋のバックバンドとして美乃家セントラル・ステイションを結成する。第一期メンバーは、佐藤、見砂和照、小田健二郎、土屋昌巳(のちに一風堂結成)、滝本大助、福田郁次郎、高杉登である。この年に美乃家は大橋とともに各地の大学で学園祭に招かれ、大橋が「学園祭の女王」と呼ばれることに貢献した[2]。1977年4月に発売した大橋のサード・アルバム『RAINBOW』以降、「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」とクレジットされる[2]。
1979年(昭和54年)に第二期美乃家が始動する。メンバーは見砂と土屋らが脱退し、佐藤、小田、土屋潔、マーティー・ブレイシー、六川正彦、後藤輝夫である。1980年(昭和55年)4月に発売したアルバム『HOT LIFE』を収録し、年内に解散した[2]。解散後の1981年(昭和56年)に発売した大橋のアルバム『Tea For Tears』のアレンジを萩田が手掛けた。[2]
ディスコグラフィ
[編集]アルバム
[編集]- 『RAINBOW』(1977年4月発売) - 1994年にCD化
- 『CRYSTAL CITY』 (1977年11月発売) - 1994年にCD化
- 『沙浪夢 SHALOM』 (1978年6月発売) - 1994年にCD化
- 『FLUSH』 (1978年12月発売) [3]- 1994年にCD化
- 『FULL HOUSE』 1979年6月発売) - 1994年にCD化
- 『Motions & Emotions』 (ベスト盤、1979年11月発売)
- 『HOT LIFE』 (1980年4月発売) - 1994年にCD化
シングル
[編集]- シンプル・ラブ/今シルエットのように (1977.04.05)
- ミスター・スマイル/ラヴィン・スプーンフル (1977.09.05)
- クリスタル・シティー/FUNKY LITTLE QUEENIE (1978.01.05)
- FUNKY LITTLE QUEENIE/SIMPLE LOVE(英語盤) (1978.01.25)
- スターライト・トレイン/センチメンタル・レディ一 (1978.04.25)
- ラプ・マシーン (1978.08.05)
- A面曲「たそがれマイ・ラブ」は美乃家セントラル・ステイションの演奏ではない。
- サファリ・ナイト (1978.11.25)
- B面曲「火のように水のように」は美乃家セントラル・ステイションの演奏ではない。
- ビューティフル・ミー/9月になったら (1979.06.25)
- あなたにはわからない/メルヘンの終り (1979.11.25)
- カナディアン・ララバイ/WELCOME TO MUSIC LAND (1980.04.05)
脚注
[編集]- ^ 大橋純子公式サイトの大橋自筆記事「Junkoの自伝的プロフィール」の記述を参照。
- ^ a b c d 大橋純子公式サイトの大橋自筆記事「アルバムレビュー日本フォノグラム編」の記述を参照。
- ^ B面収録曲は美乃家セントラル・ステイションの演奏ではない