羅城門

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羅城門(らじょうもん/らせいもん)は、古代日本都城の正門。朱雀大路の南端に位置し、北端の朱雀門と相対する。後世に「羅生門(らしょうもん)」とも[1]

概要[編集]

古代都城を取り囲む城壁である「羅城(らじょう)」に開かれた門である[1]。中国では都市周囲に羅城が巡らされたが、日本では羅城の実態はほとんど無く、京域南面中央に羅城門が置かれるとともに、その両翼に羅城が築造されるのみであったと推測される[2][3]

羅城門の存在は平城京平安京で知られるが、いずれも現在までの発掘調査では建物規模などの詳細を明らかとしない。その他の都城では存在自体が明らかでなく、藤原京の場合には京域南端が丘陵にかかるため、存在しなかったものと推測される[3]

読み[編集]

「羅城門」の元々の読みは、呉音で「らじょうもん」、漢音で「らせいもん」であったとされ、『拾芥抄』では「らせい門」と見える[4]。転訛した俗称として、『宇治拾遺物語』では「らいせい門」と見えるほか、『延喜式』では「らいしょう(頼庄)」、『拾芥抄』では「らしょう」と見える[5]。これに関連して、現在も平城京羅城門跡付近では「来生墓」の墓地名称の遺存が、平安京羅城門跡付近では「来生」の小字名の遺存が知られる[5]

中世頃からは「らしょう」の読みが一般化したものとされ[5]、当字で「羅生門」とも表記されるようになった[4][1]

一覧[編集]

平城京羅城門[編集]

平城京 羅城門跡碑
奈良県奈良市

平城京の羅城門は、現在の奈良県大和郡山市観音寺町・奈良市西九条町の羅城門橋付近に位置する(位置)。

文献上では、『続日本紀』において雨乞い・外交使節送迎など様々な儀式が行われたことが見える[6]

遺構は、現在では佐保川の流路内(西側堤防下)に位置するため、中心部分は大きく破壊されている[7]1969-1971年昭和44-46年)の発掘調査では、基壇の西端部分が検出された[6]。規模については、従来は平城宮朱雀門と同様の桁行5間・梁間2間と推定復元されていたが、近年の条坊での発掘調査結果を基に桁行7間で京内最大と復元する説も挙げられている[3][6]。また羅城については、羅城門付近のみとする説、京南辺全体とする説があるが[3]2005年平成17年)に700メートル東方でも掘立柱構造の羅城が認められている[6]。また『続日本紀』によれば門前に「三橋」があったことが知られ、これは現在も付近の小字名として遺存する[7]

なお郡山城では、天守台の石垣のうちに平城京羅城門の礎石と伝わる石の遺存が知られる[5][7]

平安京羅城門[編集]

平安京羅城門 復元想像図
平安京 羅城門跡碑
京都府京都市

平安京の羅城門は、現在の京都府京都市南区唐橋羅城門町に位置する(位置)。

文献上では、『日本紀略』において弘仁7年(816年8月16日夜に大風で倒壊したと見えるほか、その後に再建された門も『百錬抄』によれば天元3年(980年7月9日の暴風雨で倒壊したと見え、以後は再建計画が上がるも実際に再建されることはなかった[5][3][8]。ただし『今昔物語集』「羅城門上層ニ登リテ死人ヲ見シ盗人ノ語」によれば、倒壊以前にはすでに荒廃しており、上層では死者が捨てられていた(後世の芥川龍之介の『羅生門』の題材)[1]。『小右記』では、11世紀前半頃に藤原道長法成寺建立に際して礎石を持ち帰ったと見え、当時には礎石のみの状態であった[5][4][8]。そのほか、羅城門の鬼に関する謡曲「羅生門」などの様々な怪奇譚が知られる。

遺構については、数回の発掘調査が実施されているが、現在までに確認には至っていない[3][8]。規模について、『拾芥抄』などでは桁行7間・梁間2間で二重閣とするが、裏松固禅の『大内裏図考証』では桁行9間とする[3]。また羅城については、『延喜式』では城壁ではなく「垣」と見え、基底部幅6尺とする[9][4]。『大内裏図考証』で京域周囲に黒線が引かれることなどから、京域周囲には別に土塁・溝の存在も推測され、現在残る「唐橋」の地名は羅城門前の溝に架けられた橋に因むとされる[2][4]

なお、東寺蔵の木造兜跋毘沙門天立像(国宝)や三彩釉鬼瓦(国の重要文化財)は、元は平安京羅城門にあったものと伝えられる[8]。毘沙門天像の安置について、『雍州府志』では唐の西蕃侵攻平定の故事に因むとするが、同書では「八臂毘沙門天像」とあって東寺のものとは異同しており、詳細は明らかでない[5]。また三彩釉鬼瓦については、大内裏の豊楽殿跡出土のものと同笵であることが判明している[8]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]