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築地電軌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
築地電軌
6号電車
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
愛知県名古屋市南区稲永新田757[1]
設立 1916年(大正5年)3月21日[1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、バス事業、信託事業 他[1]
代表者 社長 渡辺甚吉[1]
資本金 410,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1935年(昭和10年)4月1日現在[1]
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路線概略図 

市買収(1937年3月)直前の路線


名古屋市電築港線
uSTR KDSTaq STR+r
堀川口駅
STR
築地電車前電停
uLSTRq uKHSTeq STR
築港電停
STR
0.0 築地電停
uBHF STR
0.2 築地学校前電停
umKRZo DSTq STRq STRr
鉄道省:名古屋港線
名古屋港駅
uhKRZWae WASSERq WASSERq WASSERq
中川運河
uBHF
0.9 中川堤防電停
uBHF
1.2 築三町電停
uBHF
1.5 荒子川東電停
uhKRZWae WASSERq WASSERq WASSERq
荒子川
uBHF
1.7 荒子川電停
uBHF
2.1 本社前電停
uBHF
2.5 稲永電停
uBHF
3.1 大宮司電停
uBHF
3.7 西ノ割電停
uBHF
4.2 多加良浦電停
uBHF
4.7 弁天裏電停
uBHF
5.2 中学前電停
uBHF
6.0 明徳橋電停
7.3 下之一色電停
下之一色電車軌道

築地電軌株式会社(築地電軌株式會社、つきじでんき)は、かつて名古屋市南西部で路面電車バスの運営を行っていた企業株式会社)である。略称は「築電」。

概要

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1898年明治41年)に開業した名古屋電気鉄道を、1922年大正11年)に市営化し名古屋市電は発足した。市電を運営する名古屋市電気局(名古屋市交通局の前身)は1930年昭和5年)に市営バスの運営も開始し、1935年(昭和10年)から1938年(昭和15年)にかけて名古屋市内の路面電車・バスの買収・統合を進めていった。この築地電軌も買収・統合の一環として市に買収された事業者の一つである。

築地電軌は、電気軌道(路面電車)の運営、信託事業、海水浴場遊園地・娯楽施設の運営、土地建物の売買・賃借などを目的として1916年(大正5年)に設立された。1917年(大正6年)には中核事業である電気軌道を、名古屋市電に接続する築地から稲永新田の間に敷設した。その後電気軌道は延伸され、1926年(大正15年)に下之一色電車軌道に接続する下之一色まで到達し、名古屋南部に循環線が形成された。また、開始時期は不明だがバスの運営も行っていた。

運営していた軌道線は大半が専用軌道で、田園地帯をのんびりと走っていたという。沿線の人口が少ないため利用客が少なく業績は振るわず、主に臨港地帯の工場への通勤者や漁師が利用客であったが、夏になると沿線にあった多加良浦海水浴場へ向かう海水浴客で賑わった。また、庄内川付近で採取された砂利を市内へ輸送することもあったという。

1937年(昭和12年)3月、築地電軌の軌道・バス事業は名古屋市に買収され、名古屋市電気局(後の名古屋市交通局)に移管された。バス路線は市営バスの路線網に組み込まれ、軌道線は名古屋市電の路線網に組み込まれた。市営化後築地線と命名された軌道線は、旧下之一色電車軌道線との連絡が図られたり、築地口(旧・築地) - 稲永町(旧・稲永)間が複線化されたりするなど設備の改善がなされた。そして、稲永町 - 下之一色間は1969年(昭和44年)2月19日まで、築地口 - 稲永町間は1971年(昭和46年)11月30日まで運行が続けられた。

年表

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  • 1914年(大正3年)10月21日 - 南区西築地 - 下之一色町間の軌道敷設特許を、名古屋電気鉄道が取得。
  • 1916年(大正5年)3月21日 - 名古屋電気鉄道から特許を譲受け、築地電軌株式会社設立。
  • 1917年(大正6年)6月16日 - 築地 - 稲永新田間 (2.5km) 開業。
  • 1918年(大正7年)3月28日 - 稲永新田 - 下之一色町間の特許が失効(後に同区間の特許を再取得)。
  • 1925年(大正14年)7月1日 - 稲永新田 - 明徳橋間 (3.6km) 開業。
  • 1926年(大正15年)5月31日 - 明徳橋 - 下之一色間 (1.2km) 開業。
  • 1937年(昭和12年)3月1日 - 軌道事業・バス事業を名古屋市に譲渡[2]。会社は解散

鉄道事業

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保有路線

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路線データ

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1935年12月末現在

停留場一覧

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築地 - 築地学校前 - 中川堤防 - 築三町 - 荒子川東 - 荒子川 - 本社前 - 稲永 - 大宮司 - 西ノ割 - 多加良浦 - 弁天裏 - 中学前 - 明徳橋 - 下之一色

接続路線

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輸送・収支実績

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年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1917 174,060 8,904 6,134 2,770
1918 374,472 14,842 12,365 2,477 利子3,750
1919 517,456 19,736 13,361 6,375
1920 550,270 25,383 17,537 7,846
1921 499,128 26,353 19,245 7,108
1922 515,572 27,703 21,360 6,343
1923 524,486 29,764 20,927 8,837 償却金210 382
1924 588,098 36,409 25,863 10,546
1925 809,933 47,204 30,767 16,437
1926 1,194,152 70,772 45,097 25,675
1927 1,312,645 71,579 49,936 21,643 2,700
1928 1,390,684 72,112 45,771 26,341 6,668
1929 1,429,463 25,448 81,346 50,456 30,890 遊園地2,614 7,406
1930 1,367,016 43,521 78,659 54,542 24,117 遊園地2,646 9,252
1931 1,289,824 7,376 61,290 50,210 11,080 10,226
1932 1,182,185 3,720 58,578 52,187 6,391 10,124
1933 1,227,459 53,884 48,256 5,628 自動車5,813 雑損1,000 10,405
1934 1,138,621 49,210 45,527 3,683 自動車12,121 雑損償却金7,071 8,342
1935 1,087,206 47,231 43,332 3,899 自動車遊園地11,241 7,161
1936 1,090,059 46,963 40,754 6,209 自動車7,790 償却金6,800 6,757
1937 271,595 11,641 14,321 ▲ 2,680 自動車遊園地668 1,641
  • 鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

保有車両

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市営化時、電車11両と貨車10両が名古屋市電気局に移管された。

1-3
開業時の車両で名古屋電気鉄道から譲り受けた名電1号形。定員26人。移管後、1938年(昭和13年)4月18日廃車届。
4-7
自社発注の丸屋根型車両。定員40人。移管後、車両番号を12-15に改番。
8-11
元・名古屋市電SSA形(名古屋電気鉄道時代の車両)。定員34人。移管後、8号は1937年(昭和12年)9月17日廃車届。
101-110
貨車。荷重4t。移管後、1937年(昭和12年)に廃車。

出典:和久田康雄『日本の市内電車 1895-1945』54-55頁、58-59頁。

バス事業

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築地電軌のバスは、築地口 - 荒子川 - 錦町間と、築地口 - 荒子川 - 飛行場間の5.0kmで運行されていた。市営化によって市に移管された車両は4台であった。沿線には錦町遊郭飛行場(名古屋飛行場)があり、運輸成績は良好であった。

未成線・計画路線

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築地電軌には、築地 - 下之一色間の営業路線のほか、いくつかの未完成路線(未成線)や計画路線が存在する。なお、営業路線の稲永新田 - 下之一色間は特許が失効していた時期があり、その期間は未成線であった。

小碓町 - 千年町
南区(現・港区)小碓町の明徳橋付近から東海通を東へ進み、堀川の西岸千年町字裏畑に至る、6.0 km の区間である。1920年(大正9年)10月4日1921年(大正10年)4月18日、同年10月1日1924年(大正13年)3月20日の4回にわたって特許が申請されたが、名古屋市電の敷設計画と競合するため1925年5月29日に不許可となった。
下之一色 - 東枇杷島間ほか
下之一色から庄内川東岸を北上し岩塚町・中村町を経て名古屋鉄道東枇杷島駅に至る 8.6 km の路線と、岩塚町で分岐して東へ向かい烏森町を通り、国有鉄道関西本線東海道本線中央本線と交差、西日置町で名古屋市電水主町停留場に連絡する 4.8 km の路線、中村町から分岐して東進し、則武町を経て菊井町で名古屋市電菊井町停留場に連絡する 2.9 km の路線、合計3路線が1924年3月20日に申請された。1925年5月29日に不許可となった。
下之一色町 - 熱田新田間
下之一色町字松蔭で既設線から分岐して東へ進み、南区(現・中川区)中野新町を経て熱田新田に至る 5.3 km の路線で、1926年12月22日に特許が申請された。1928年(昭和3年)4月18日に中野新町までの 2.7 km に変更した上で再度申請し、変更区間の特許が1929年(昭和4年)2月6日に許可された。だが、着工できずにいたため1933年(昭和8年)3月14日に特許は失効した。同年3月29日に下之一色町 - 中野新町間の特許を再度したが、7月11日に不許可となった。
下之一色 - 八田町間ほか
下之一色から八田町へ向かう 3.8 km の路線と、稲永新田付近の臨港地帯を通る3路線 5.8 km の敷設特許を1928年9月17日に申請した。八田町では関西本線八田駅と連絡する計画であった。1933年7月11日に不許可となる。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 2月27日許可「軌道譲渡」『官報』1937年3月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 『電気事業要覧. 第19回 昭和3年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献

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  • 名古屋南部史刊行会編集 『名古屋南部史』 名古屋南部史刊行会、1952年
  • 名古屋市交通局編 『市営五十年史』 名古屋市交通局、1972年
  • なごや市電整備史編集委員会編 『なごや市電整備史』 路面電車全廃記念事業委員会、1974年
  • 名古屋市交通局編 『名古屋を走って77年 市電写真集』 名古屋市交通局、1974年
  • 鈴木兵庫編集 『名古屋市電買収以前の各私鉄私バスの乗車券』 鈴木兵庫、1988年
  • 原口隆行著 『日本の路面電車 3』 JTB、2000年
  • 井戸田弘著 『東海地方の鉄道敷設史 2』 井戸田弘、2006年
  • 今尾恵介(監修)日本鉄道旅行地図帳』 7号(東海)、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790025-8 
  • 和久田康雄『日本の市内電車 1895-1945』成山堂書店、2009年。ISBN 978-4425961511 

外部リンク

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