竹原春朝斎

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竹原春朝斎
IzumiMeishoZue Hakuzosu.jpg
ヒト
性別男性 編集
国籍日本 編集
竹原 編集
生年月日不明な値 編集
死亡年月日14 1 1801 編集
竹原春泉斎 編集
職業画家 編集
読み仮名たけはら しゅんちょうさい 編集
弟子竹原春泉斎 編集
活動地大阪 編集
活動期間(開始)1764 編集
活動期間(終了)1801 編集
主要作品都名所図会摂津名所図会 編集
時代江戸時代 編集
コレクション所蔵者Vanderbilt University Fine Arts Gallery 編集
作者の著作権状態著作権保護期間満了 編集

竹原 春朝斎(たけはら しゅんちょうさい、生年不詳 - 寛政12年11月30日1801年1月14日[1]〉)は、江戸時代中期から後期の大坂浮世絵師

来歴[編集]

大岡春卜の門人で坂本朝汐斎に学ぶ(安永版『難波丸綱目[2]』)。姓は竹原、本姓は松本、名は信繁。俗称は門次。春朝斎と号す。伏見屋四郎兵衛町に住んでいた。明和から寛政期に活躍しており、名所図会の絵師としてよく知られている。

明和5年(1768年)刊で増谷(升屋)自楽作の浮世草子『加古川本草綱目』5巻5冊の挿絵を皮切りに、明和6年(1769年)頃刊行の『上難波宮祭礼行列記』、半井金陵作『世間化物質気』など、大阪の版元升屋大蔵(彦太郎)の画工を務める。狂歌本の例としては、安永6年(1777年)刊行の絵入り本『狂歌寝さめの花[3]』一冊(芥河貞佐・玉雲斎貞右編)があげられる。

安永7年(1778年)に刊行された『浪花のながめ[4]』(白緑斎梅好作)は大坂名所、旧跡、名物案内の図に「俗に近き異物」を選び、簡潔な説明や狂歌を添えて三十三景を描く。その絵は柔和な人物・風俗描写と写実的な風景画からなるもので、後の名所図会の先駆をなす重要な作である。更に2年後の安永9年(1780年)、秋里籬島とコンビを組み『都名所図会』を発表、本格的な風景版画の領域を開拓し、非常な人気を博した。以降もこのコンビで、天明7年(1787年)刊行の『拾遺都名所図会[5]』、寛政3年(1791年)刊の『大和名所図会[6]』、寛政8年(1796年)の『和泉名所図会[7]』、寛政9年(1797年)『東海道名所図会』(北尾政美らと合作)、寛政8年と10年(1796年1798年)『摂津名所図会』など続々と出版している。

名所図会の他にも浮世草子や狂歌本などに幅広く挿絵を描き、天明5年(1785年)刊行の高田政度作の往来物『大成百人女用袋』一冊や、寛政4年(1792年)刊行の自画作の咄本『あくびどめ』3冊などがある。没年不詳だが、寛政末年あたりとされている。

門人に春朝斎の子の竹原春泉斎がいる。上方発生の風景画は従来過小評価されがちであるが、春朝斎は名所図会が流行する端緒を作り、それが後に江戸へも普及して谷文晁の『日本名産図会』などを生み、さらに葛飾北斎歌川広重らが出現する土壌を作り上げたといえる。

脚注[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]