稲村神社 (常陸太田市)
稲村神社 | |
---|---|
拝殿 | |
所在地 | 茨城県常陸太田市天神林町3228 |
位置 | 北緯36度31分39.4秒 東経140度30分03.8秒 / 北緯36.527611度 東経140.501056度座標: 北緯36度31分39.4秒 東経140度30分03.8秒 / 北緯36.527611度 東経140.501056度 |
主祭神 | 饒速日命 |
社格等 |
式内社(小)論社 旧郷社 |
創建 | (伝)第13代成務天皇年間 |
本殿の様式 | 神明造 |
例祭 | 5月1日 |
地図 |
稲村神社(いなむらじんじゃ、稻村神社)は、茨城県常陸太田市天神林町にある神社。式内社論社で、旧社格は郷社。
祭神
[編集]祭神は次の12柱。
歴史
[編集]創建
[編集]稲村神社の鎮座地一帯は、律令制以前の久自国造の本拠地であったとする説が知られる。この国造について、『先代旧事本紀』「国造本紀」[原 1]では、成務天皇の御世に伊香色雄命(物部連遠祖)三世孫の船瀬足尼命が初代久自国造に任命されたと見える。社伝では、この任命の際に船瀬足尼命が始祖の饒速日命を祀ったといい、その時に「天神」、または7面の神鏡が祀られていたので「七代天神」と称したという[1]。また、日本武尊が東征の際にこの地に天神七代の霊を祀ったともいう[1]。
稲村神社の南西には梵天山古墳群が残るが、その主墳の梵天山古墳は茨城県第2位の規模になり、これを船瀬足尼命の墓とする伝承がある[2]。
概史
[編集]国史では、嘉祥2年(849年)[原 2]に「稲村神」が官社に預かり、水旱に霊験を表した旨の記事が見える[1]。その後、元慶2年(878年)[原 3]に「稲村神」の神階が従五位下、仁和元年(885年)[原 4]に従五位上まで昇叙された旨が記載されている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では常陸国久慈郡に「稲村神社」と記載され、式内社に列している。ただし、これらの「稲村神」には他の論社もある[注 1]。
『新編常陸国誌』によると、元禄4年(1691年)徳川光圀が天神林村を通った際、天神七社の所在を質し、当時「七代天神」と称していた7塚を巡見した。そしてこれらを1社とするよう諭したので、元禄6年(1693年)に現在地に社殿を造営して合祀したという[1]。また、光圀は鳥居に「七代天神宮」の扁額をかけさせ、神器を奉納した[1]。江戸時代には社領として6石5斗余、除地として9石9斗3升を有した[1]。
明治に入って式内社の稲村神社に比定され、「七代天神宮」から社名を改めた[3]。また近代社格制度では郷社に列した。
神階
[編集]- 嘉祥2年(849年)4月7日、官社に預かる (『続日本後紀』)[原 2] - 表記は「稲村神(稻村神)」。
- 元慶2年(878年)8月23日、正六位上から従五位下 (『日本三代実録』)[原 3] - 表記は「稲村神(稻村神)」。
- 仁和元年(885年)5月22日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)[原 4] - 表記は「稲村神(稻村神)」。
境内
[編集]-
本殿
-
一の鳥居
現地情報
[編集]所在地
周辺
脚注
[編集]注釈
原典
出典
参考文献
[編集]- 境内説明板
- 「稲村神社」『日本歴史地名大系 8 茨城県の地名』平凡社、1982年。ISBN 4582490085。