「アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン」の版間の差分
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1817年、[[摂政皇太子|摂政王太子]]ジョージ([[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])の長女[[シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ|シャーロット]](後に初代[[ベルギー]]国王となる[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド]]公子と結婚していた)が早世すると、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の次に王位継承者となる者が子孫を持たないという事態に陥った。摂政にも、次男[[ヨーク公]][[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|フレデリック]]にも子がなく、三男であるクラレンス公(後の[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]])は20年近く愛人[[ドロシー・ジョーダン]]と家庭生活を営んでいたのを断ち、初めて結婚相手を探した。 |
1817年、[[摂政皇太子|摂政王太子]]ジョージ([[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])の長女[[シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ|シャーロット]](後に初代[[ベルギー]]国王となる[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド]]公子と結婚していた)が早世すると、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の次に王位継承者となる者が子孫を持たないという事態に陥った。摂政にも、次男[[ヨーク公]][[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|フレデリック]]にも子がなく、三男であるクラレンス公(後の[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]])は20年近く愛人[[ドロシー・ジョーダン]]と家庭生活を営んでいたのを断ち、初めて結婚相手を探した。条件はプロテスタントの王女で、王室で引き取ることとなった10人の庶子達(全てドロシー・ジョーダンとの子)の良い養母となれる、家庭的な女性であった。 |
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1818年、53歳の王子は26歳のアーデルハイト公女と結婚し、生活費の安い[[ハノーファー王国]]で暮らし始めた。1819年、1820年と続けて女児を産むが育たず、夫妻はハノーファーを引き上げて[[ロンドン]]へ転居した。それ以後は子供が生まれず、傷心の公妃は夫の庶子たち |
1818年、53歳の王子は26歳のアーデルハイト公女と結婚し、生活費の安い[[ハノーファー王国]]で暮らし始めた。1819年、1820年と続けて女児を産むが育たず、夫妻はハノーファーを引き上げて[[ロンドン]]へ転居した。それ以後は子供が生まれず、傷心の公妃はかねてより仲の良かった夫の庶子たちをより一層可愛がるようになる。特に年少の四女オーガスタと五女アメリアには自ら家庭教師を手配し教育に気を配っていた。 |
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1830年、夫ウィリアムが即位し、王妃となった。 |
1830年、夫ウィリアムが即位し、王妃となった。 |
2020年10月20日 (火) 07:47時点における版
アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン Adelaide of Saxe-Meiningen | |
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イギリス王妃 | |
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在位 | 1830年6月26日 - 1837年6月20日 |
戴冠式 | 1831年9月8日 |
別称号 | ハノーファー王妃 |
全名 |
Adelaide Louise Theresa Caroline Amelia アデレード・ルイーズ・テレサ・キャロライン・アメリア |
出生 |
1792年8月13日 神聖ローマ帝国 ザクセン=マイニンゲン公国、マイニンゲン |
死去 |
1849年12月2日(57歳没) イギリス、ミドルセックス |
埋葬 |
1849年12月13日 イギリス、ウィンザー、聖ジョージ礼拝堂 |
結婚 | 1818年7月11日 |
配偶者 | ウィリアム4世 |
子女 |
シャーロット エリザベス |
家名 | ザクセン=マイニンゲン家 |
父親 | ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク1世 |
母親 | ルイーゼ・エレオノーレ・フォン・ホーエンローエ=ランゲンブルク |
アデレード・ルイーズ・テレサ・キャロライン・アメリア・オブ・サクス=マイニンゲン(Adelaide of Saxe-Meiningen, Adelaide Louise Theresa Caroline Amelia, 1792年8月13日 - 1849年12月2日)は、イギリス国王ウィリアム4世の王妃。ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク1世の長女としてマイニンゲンで生まれた。ドイツ名はアーデルハイト・ルイーゼ・テレーザ・カロリーネ・アメリア・フォン・ザクセン=マイニンゲン(Adelheid Louise Theresa Caroline Amelia von Sachsen-Meiningen)。
生涯
1817年、摂政王太子ジョージ(ジョージ4世)の長女シャーロット(後に初代ベルギー国王となるレオポルド公子と結婚していた)が早世すると、国王ジョージ3世の次に王位継承者となる者が子孫を持たないという事態に陥った。摂政にも、次男ヨーク公フレデリックにも子がなく、三男であるクラレンス公(後のウィリアム4世)は20年近く愛人ドロシー・ジョーダンと家庭生活を営んでいたのを断ち、初めて結婚相手を探した。条件はプロテスタントの王女で、王室で引き取ることとなった10人の庶子達(全てドロシー・ジョーダンとの子)の良い養母となれる、家庭的な女性であった。
1818年、53歳の王子は26歳のアーデルハイト公女と結婚し、生活費の安いハノーファー王国で暮らし始めた。1819年、1820年と続けて女児を産むが育たず、夫妻はハノーファーを引き上げてロンドンへ転居した。それ以後は子供が生まれず、傷心の公妃はかねてより仲の良かった夫の庶子たちをより一層可愛がるようになる。特に年少の四女オーガスタと五女アメリアには自ら家庭教師を手配し教育に気を配っていた。
1830年、夫ウィリアムが即位し、王妃となった。
1837年にウィリアム4世が死去し、義理の姪(ジョージ3世の四男ケント公エドワードの一人娘)ヴィクトリアが即位した後は王太后(Queen Dowager)の称号で呼ばれた。
参考文献
- 森護 『英国王室史話』 大修館書店、1986年
関連項目
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