ヘレーネ・フリーデリケ・アウグスタ・フォン・ヴァルデック=ピルモント

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オールバニ公爵夫人ヘレナ
1880年頃

ヘレーネ・フリーデリケ・アウグスタ・フォン・ヴァルデック=ピルモントドイツ語: Prinzessin Helene Friederike Augusta von Waldeck-Pyrmont , 1861年2月17日 - 1922年9月1日)は、イギリス王族であるオールバニ公レオポルドの妃。英語名はヘレナ・オブ・ウォルデック・アンド・ピアモントPrincess Helena of Waldeck and Pyrmont)。

ヴァルデック侯ゲオルク・ヴィクトルとその最初の妻であるヘレーネ・フォン・ナッサウルクセンブルク大公アドルフの異母妹、スウェーデン王妃ゾフィアの同母姉)の五女(第5子)として、侯国の首都アロルゼン(現在のドイツヘッセン州の町)で生まれた。オランダ王妃エンマは姉、ヴァルデック侯フリードリヒは弟にあたる。

成長すると、姉パウリーネ、エンマとヘレーネたちはオランダ王ヴィレム3世の後添え候補と見なされていた。ヘレーネはイギリス王子レオポルドと見合いし、1881年11月に婚約した。1882年4月27日に結婚。ヘレーネとレオポルドは、夫が1884年3月にカンヌで不慮の事故死を遂げるまで、短いが幸せな結婚生活を送った。夫に先立たれたとき、ヘレーネは第2子チャールズ・エドワードを身ごもっていた。レオポルドの死後、ヘレーネは子供たちと以前と同じくクレアモント・ハウスに住み続けた。

1900年、夫の兄、ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートが急死した。その一人息子で公位継承者であったケント伯アルフレッドは1899年に自殺しており、ケント伯に次ぐ継承権を有していたコノート公父子が辞退したため、ヘレーネの長男で16歳のチャールズ・エドワード(ドイツ語名: カール・エドゥアルト)が公位を継承することになった。そのためヘレーネは、子供たちとコーブルクへ移り住んだ。晩年に彼女はイギリスへ戻った。

1922年9月、息子カール・エドゥアルトの元を訪問していたヘレナは、心臓発作のためチロルで没した。

子女[編集]

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