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日刊紙として発行部数100万を超えた最初の新聞で、現在の発行部数は200万部を超える。日刊紙として世界12位、英字紙としては世界最大規模の新聞のひとつとなっている。
日刊紙として発行部数100万を超えた最初の新聞で、現在の発行部数は200万部を超える。日刊紙として世界12位、英字紙としては世界最大規模の新聞のひとつとなっている。


イギリスでは社会階層によって購読する新聞がはっきり分かれており、[[タイムズ]]や[[ガーディアン]]など富裕な上流層を対象とする[[リベラル]]寄りの[[高級紙]]に対し、デイリー・メールは中下流の読者層をターゲットとしている[[大衆紙]]である。編集傾向は現編集長の意向を反映し、右派寄りで、反リベラリズムの傾向が強い。日本で言えば産経新聞のような立場にある。ライバル紙の『[[デイリー・エクスプレス]]』(''Daily Express'')とは対象とする読者層や政治的観点が似ているが、発行部数では3倍以上の差を付けている。
イギリスでは社会階層によって購読する新聞がはっきり分かれており、[[タイムズ]]や[[ガーディアン]]など富裕な上流層を対象とする[[リベラル]]寄りの[[高級紙]]に対し、デイリー・メールは中下流の読者層をターゲットとしている[[大衆紙]]である。編集傾向は現編集長の意向を反映し、右派寄りで、反リベラリズムの傾向が強い。ライバル紙の『[[デイリー・エクスプレス]]』(''Daily Express'')とは対象とする読者層や政治的観点が似ているが、発行部数では3倍以上の差を付けている。


『デイリー・メール』は、[[アルフレッド・ハームズワース (初代ノースクリフ子爵)|アルフレッド・ハームズワース]](後に授爵されてノースクリフ子爵)と[[ハロルド・ハームズワース (初代ロザミア子爵)|ハロルド・ハームズワース]](同じくロザミア子爵)の兄弟によって、[[1896年]]5月4日に当時の一般紙とは一線を画す新聞として創刊された。内容を大衆向きなものとし、記事も短く分かりやすくした。また他の日刊紙
『デイリー・メール』は、[[アルフレッド・ハームズワース (初代ノースクリフ子爵)|アルフレッド・ハームズワース]](後に授爵されてノースクリフ子爵)と[[ハロルド・ハームズワース (初代ロザミア子爵)|ハロルド・ハームズワース]](同じくロザミア子爵)の兄弟によって、[[1896年]]5月4日に当時の一般紙とは一線を画す新聞として創刊された。内容を大衆向きなものとし、記事も短く分かりやすくした。また他の日刊紙

2018年2月14日 (水) 18:41時点における版

Daily Mail
種別日刊紙
判型タブロイド
所有者Daily Mail and General Trust
編集者ポール・デイカー
設立1896年
発行数200万部以上
ウェブサイトwww.dailymail.co.uk

デイリー・メール』(The Daily Mail)は、1896年創刊のイギリスでもっとも古いタブロイド紙。発行部数は『ザ・サン』(The Sun)紙に次いで第2位。

概説

日刊紙として発行部数100万を超えた最初の新聞で、現在の発行部数は200万部を超える。日刊紙として世界12位、英字紙としては世界最大規模の新聞のひとつとなっている。

イギリスでは社会階層によって購読する新聞がはっきり分かれており、タイムズガーディアンなど富裕な上流層を対象とするリベラル寄りの高級紙に対し、デイリー・メールは中下流の読者層をターゲットとしている大衆紙である。編集傾向は現編集長の意向を反映し、右派寄りで、反リベラリズムの傾向が強い。ライバル紙の『デイリー・エクスプレス』(Daily Express)とは対象とする読者層や政治的観点が似ているが、発行部数では3倍以上の差を付けている。

『デイリー・メール』は、アルフレッド・ハームズワース(後に授爵されてノースクリフ子爵)とハロルド・ハームズワース(同じくロザミア子爵)の兄弟によって、1896年5月4日に当時の一般紙とは一線を画す新聞として創刊された。内容を大衆向きなものとし、記事も短く分かりやすくした。また他の日刊紙 が軒並み1ペニーだったなか、『デイリー・メール』は1/2ペニーとした。そのため同紙は創刊早々に大きな成功を収め、間もなく発行部数は50万部を突破した。

1906年、この新聞は世界初の英仏海峡横断飛行に対して1,000ポンドロンドンマンチェスター間の飛行に対して10,000ポンドの賞金を出す。1910年にどちらの飛行も成功し、賞金が支払われた(ロンドン―マンチェスター間についての詳細は1910年のロンドン・マンチェスター間エアレースを参照)。

この新聞はドイツ大英帝国に戦争を仕掛ける計画を進めているという記事を載せた。その結果、第一次世界大戦勃発の後、戦争を招いたとして批判される。大戦が勃発した際は、アルフレッド・ハームズワースが徴兵制導入を主張して論争を引き起こした。また、1915年5月21日には英雄と考えられていた当時の陸軍大臣キッチナー卿に関してこの新聞は辛辣な批判記事を載せたため、一晩で発行部数が138.6万部から23.8万部まで落ちた。株式市場の会員は売れ残りの新聞を燃やして抗議し、ボイコットを始める。当時の首相アスキスは「我が国を破壊する新聞である」と非難した。

キッチナー卿が死去した際、この新聞はその死を大英帝国の幸運と評した。 この新聞はその後、アスキス首相の批判運動を繰り広げ、1916年12月に首相は辞任する。後任のロイド=ジョージ首相はアルフレッド・ハームズワースの政府批判をかわすため、彼に入閣を要請するが断られている。

1922年、アルフレッド・ハームズワースが亡くなると、ハロルド・ハームズワースがすべての経営を行うようになった。

1926年、発行部数が200万部を記録した。

1971年 通常版からタブロイドサイズになった。

1982年には姉妹紙 "The Mail on Sunday" が創刊された。

2016年 イギリスのEU離脱に関し、同紙は反グローバリズムの立場で連日離脱支持の論陣を張り、業を煮やした当時のキャメロン首相が社主のロザミア卿(Viscount Rothermere)を呼んで、ポール・デイカー(Paul Dacre)編集長の解任を要求した。ロザミア卿は「編集権の独立」を理由に拒否。

2017年2月8日英語版ウィキペディアはデイリー・メールを信用できない情報源とし、原則として引用を禁止した[1][2]

脚注

外部リンク