「ドナルド・ダック・ダン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎外部リンク: {{Normdaten}}
編集の要約なし
7行目: 7行目:
1970年代にスタックスを離れてからは現在まで[[フレディ・キング]]、[[エルヴィス・プレスリー]]、[[デュアン・オールマン]]、[[ロッド・スチュワート]]、[[リヴォン・ヘルム]]、[[トム・ペティ]]、[[ボブ・ディラン]]、[[エリック・クラプトン]]、[[忌野清志郎]]、[[マディ・ウォーターズ]]、[[ニール・ヤング]]等のレコーディングやバンドに参加している。
1970年代にスタックスを離れてからは現在まで[[フレディ・キング]]、[[エルヴィス・プレスリー]]、[[デュアン・オールマン]]、[[ロッド・スチュワート]]、[[リヴォン・ヘルム]]、[[トム・ペティ]]、[[ボブ・ディラン]]、[[エリック・クラプトン]]、[[忌野清志郎]]、[[マディ・ウォーターズ]]、[[ニール・ヤング]]等のレコーディングやバンドに参加している。


また、パーマネントバンドとしては[[ブッカー・T&ザ・MG's]]、[[ブルース・ブラザーズ]]で活動。
また、パーマネントバンドとしては[[ブッカー・T&ザ・MG's]]、[[ブルース・ブラザーズ]]・バンドで活動。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
16行目: 16行目:
1964年頃、スタックスのハウスバンド、[[ブッカー・T&ザ・MG's]]に[[ルイ・スタインバーグ]]の後釜として参加、1976年に同社が倒産するまで数多くの所属アーティストのレコーディングやライブをサポートした。
1964年頃、スタックスのハウスバンド、[[ブッカー・T&ザ・MG's]]に[[ルイ・スタインバーグ]]の後釜として参加、1976年に同社が倒産するまで数多くの所属アーティストのレコーディングやライブをサポートした。


1970年代からは体制の変わった同社から少しずつ離れ、[[ロッド・スチュワート]]や[[ザ・バンド]]の[[リヴォン・ヘルム]]、[[レオン・ラッセル]]等のセッションに参加するようになり、1978年にはTV番組[[サタデー・ナイト・ライブ]]の企画から生まれたバンド、[[ブルース・ブラザーズ|ザ・ブルース・ブラザーズ]]にスティーヴと共に加わり1980年、1998年に公開された映画にも出演。
1970年代からは体制の変わった同社から少しずつ離れ、[[ロッド・スチュワート]]や[[ザ・バンド]]の[[リヴォン・ヘルム]]、[[レオン・ラッセル]]等のセッションに参加するようになる。1978年にはTV番組[[サタデー・ナイト・ライブ]]の企画から生まれた[[ブルース・ブラザーズ]]・バンドにスティーヴと共に加わり1980年の映画『[[ブルース・ブラザース]]』、1998年の続編『[[ブルース・ブラザース2000]]』にも本人役で出演した


1983年からは[[エリック・クラプトン]]のバンドに参加しツアーと2枚のアルバムでプレイし、1985年の[[ライブエイド]]にも出演した
1983年からは[[エリック・クラプトン]]のバンドに参加しツアーと2枚のアルバムでプレイし、1985年の[[ライブエイド]]にも出演した


1990年、[[メンフィス]]から[[フロリダ州]][[パルメットー]]に引っ越す。
1990年、[[メンフィス]]から[[フロリダ州]][[パルメットー]]に引っ越す。

2017年4月24日 (月) 17:19時点における版

ドナルド・ダック・ダン

ドナルド・ダック・ダン(Donald "duck" Dunn,1941年11月24日 - 2012年5月13日)は、アメリカ合衆国ベーシストアイルランド系アメリカ人テネシー州メンフィス出身。左利き。1960年代から活躍し、ジェームス・ジェマーソンと並び称されるソウルミュージックの伝説的ベースプレイヤー。ミドルネームの"ダック"はあだ名。1992年にブッカー・T&ザ・MG'sのメンバーとしてロックの殿堂入り。

概要

1960年頃よりスタックス・レコードの専属プレイヤーとしてオーティス・レディングサム&デイブウィルソン・ピケットアイザック・ヘイズエディ・フロイドカーラ・トーマスアルバート・キング等のレコーディングやツアーをサポート。

1970年代にスタックスを離れてからは現在までフレディ・キングエルヴィス・プレスリーデュアン・オールマンロッド・スチュワートリヴォン・ヘルムトム・ペティボブ・ディランエリック・クラプトン忌野清志郎マディ・ウォーターズニール・ヤング等のレコーディングやバンドに参加している。

また、パーマネントバンドとしてはブッカー・T&ザ・MG'sブルース・ブラザーズ・バンドで活動。

生涯

1941年11月24日テネシー州メンフィスに生まれる。10歳のときにウクレレを手にし、小学6年生のときに同地に引っ越してきたスティーヴ・クロッパーと知り合いになる。

16歳のときにベースを手にしスティーヴやテリー・ジョンソンらとザ・ロイヤル・スペーズというバンドを結成し、57年頃から活動。のちにこのバンドはマーキーズと名を変えスタックス・レコードに出入りするようになる。

1964年頃、スタックスのハウスバンド、ブッカー・T&ザ・MG'sルイ・スタインバーグの後釜として参加、1976年に同社が倒産するまで数多くの所属アーティストのレコーディングやライブをサポートした。

1970年代からは体制の変わった同社から少しずつ離れ、ロッド・スチュワートザ・バンドリヴォン・ヘルムレオン・ラッセル等のセッションに参加するようになる。1978年にはTV番組「サタデー・ナイト・ライブ」の企画から生まれたブルース・ブラザーズ・バンドにスティーヴと共に加わり、1980年の映画『ブルース・ブラザース』、1998年の続編『ブルース・ブラザース2000』にも本人役で出演した。

1983年からはエリック・クラプトンのバンドに参加しツアーと2枚のアルバムでプレイし、1985年のライブエイドにも出演した。

1990年、メンフィスからフロリダ州パルメットーに引っ越す。

1992年にブッカー・T&ザ・MG'sとしてボブ・ディランの30周年特別公演のハウスバンドを務める。また同年、やはりMG'sの一員として忌野清志郎のアルバム「Memphis」に参加、日本武道館でのライブにも出演している。

1990年代後期に喉頭癌を患うも回復。

2000年代からは主にニール・ヤングのツアーやレコーディング、スタックスのレビューライブやブッカー・T&ザ・MG'sでのライブ等で活動。

この頃Dupree'sSyndromeという遺伝子病を患う。

2012年5月、コットンクラブ、ブルーノート東京での公演の為エディ・フロイドスティーヴ・クロッパーらと来日。 9日〜12日までの全公演終了翌日、2012年5月13日朝、宿泊先であった東京都内のホテルで死亡しているのが発見され[1]、同日スティーヴ・クロッパーfacebook上で公表した[2]。70歳没。

プレイスタイル

シンプルなパターンプレイヤーであり、リズムに徹したプレイと時に弦を引っぱり上げる程のハードなピッキングが特徴。

ベースラインは1~2小節で完結していることが多く、フィルインも少ないが中音域を使うことによってメロディアスに聞こえ、耳に残るフレーズを多く残した。

フレーズにはペンタトニックを多用し、8分音符主体で作られていることが多いが多少16分音符を加え、ひとつのパターンに対し1ヶ所入れられるシンコペーションがドライブ感を生み出し、前述のハードピッキングが生み出すツブ立ちの良さと相まって独特なサウンドになっている。

使用機材

活動初期より長くフェンダー社の58年製プレシジョンベースを使用した。このベースはネックをジャズベースのものと替えられている。

2000年頃よりLAKLAND社のシグネイチャーを使用いている。[3]

その他フェンダー製のキャンディアップルのプレシジョンベース、メーカー不明の黒いジャズベースヤマハBB等の使用が確認されている。

アンプはアンペグを主に使用、その他GALLIEN-KRUEGERやHartke、フェンダーベースマンも使用している。

最後の公演ではアンペグSVT-VRを使用していた。

脚注

  1. ^ ドナルド・ダック・ダン氏が死去 米国のベーシスト 都内で 日本経済新聞 2012年5月14日
  2. ^ THE OFFICIAL STEVE CROPPER FACEBOOK PAGE
  3. ^ Lakland Skyline Duck Dunn

外部リンク