「鹿島氏」の版間の差分

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『[[鹿島治乱記]]』によると、幼少にして鹿島氏の[[家督]]を継いだ[[鹿島義幹]]は姦臣を近づけ、[[暴政]]を布いたために、[[家老]]たちが示し合わせて近隣の[[江戸]]や[[行方]]の兵を鹿島に入れ、[[謀反]]を起こした。作者は、鹿島義幹による鹿島城改築を、[[秦]]の[[始皇帝]]の[[阿房宮]]造営になぞらえ、原因のひとつとしている。
『[[鹿島治乱記]]』によると、幼少にして鹿島氏の[[家督]]を継いだ[[鹿島義幹]]は姦臣を近づけ、[[暴政]]を布いたために、[[家老]]たちが示し合わせて近隣の[[江戸]]や[[行方]]の兵を鹿島に入れ、[[謀反]]を起こした。作者は、鹿島義幹による鹿島城改築を、[[秦]]の[[始皇帝]]の[[阿房宮]]造営になぞらえ、原因のひとつとしている。


実際、[[鹿島城_(常陸国)|鹿島城]]は中世の城郭としては尋常な規模ではなかったらしい。義幹は700名の兵とともに鹿島城にたてこもったが、相手は3000名をこえていた。そこで、鹿島家の親戚である[[林氏|林]]、[[東氏|東]]の両氏が言うには、「この城はまだ改築中であり、十分な防衛ができるとは思えません。ひとまず、[[房総半島|房総]]に退き、[[下総国|下総]]の加勢をまって情勢の立て直しを図ってはどうでしょう」と提案した(林氏も東氏も将軍家直臣であって、義幹に意見できる身分であった。また義幹もこれを無下にはできなかった)義幹は最初逡巡したが、下総の東城([[須賀山城]]のことと思われる[[東氏]]の居城・現在の千葉県[[東庄町]])に退いた。家老たちは義幹の姪を大掾氏の男子にめあわせて新たな当主とした(この姪は[[江戸氏]]当主の姪にもあたるので江戸氏の外圧を受けて義幹を追放した勢力には好都合であった。)義幹は東城で、機会を伺っていたが、同族の[[島崎氏]]が流した「今こそ鹿島を奪回する好機である」と嘘の情報を真に受け、再起をはかるべく、東城から出撃し、現在の[[茨城県]][[鹿嶋市]][[高天原]]に[[上陸]]し、城方もこれを迎えうって合戦となった。これは'''[[高天原合戦]]'''として知られている。この戦いにおいては、[[松本政信|松本備前守]]や[[塚原卜伝]]のような[[剣豪]]も参加した。鹿島城は皮肉にも義幹の改築によって、非常に堅固になっていた。しかし義幹はこの合戦において討ち死にし、義幹方の兵は東城に引き上げていった。義幹は戦死したが、義幹の孫治時は鹿島家当主につくことができた。
実際、[[鹿島城_(常陸国)|鹿島城]]は中世の城郭としては尋常な規模ではなかったらしい。義幹は700名の兵とともに鹿島城にたてこもったが、相手は3000名をこえていた。そこで、鹿島家の親戚である[[林氏|林]]、[[東氏|東]]の両氏が言うには、「この城はまだ改築中であり、十分な防衛ができるとは思えません。ひとまず、[[房総半島|房総]]に退き、[[下総国|下総]]の加勢をまって情勢の立て直しを図ってはどうでしょう」と提案した(林氏も東氏も将軍家直臣であって、義幹に意見できる身分であった。義幹もこれを無下にはできなかった)
義幹は最初逡巡したが、下総の東城([[須賀山城]]のことと思われる[[東氏]]の居城・現在の千葉県[[東庄町]])に退いた。家老たちは義幹の姪を大掾氏の男子にめあわせて新たな当主とした(この姪は[[江戸氏]]当主の姪にもあたるので江戸氏の外圧を受けて義幹を追放した勢力には好都合であった。)義幹は東城で、機会を伺っていたが、同族の[[島崎氏]]が流した「今こそ鹿島を奪回する好機である」と嘘の情報を真に受け、再起をはかるべく、東城から出撃し、現在の[[茨城県]][[鹿嶋市]][[高天原]]に[[上陸]]し、城方もこれを迎えうって合戦となった。
これは'''[[高天原合戦]]'''として知られている。この戦いにおいては、[[松本政信|松本備前守]]や[[塚原卜伝]]のような[[剣豪]]も参加した。鹿島城は皮肉にも義幹の改築によって、非常に堅固になっていた。しかし義幹はこの合戦において討ち死にし、義幹方の兵は東城に引き上げていった。義幹は戦死したが、義幹の孫[[鹿島治幹|治幹]](治時は鹿島家当主につくことができた。


[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]も終わりのころになると、常陸北部の大名、[[佐竹氏]]は鹿島氏当主を他の常陸南部の地頭たちと一緒に謀殺し、軍を鹿島に差し向けた。鹿島軍も善戦したが、当主不在もあってか落城した。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]も終わりのころになると、常陸北部の大名、[[佐竹氏]]は鹿島氏当主を他の常陸南部の地頭たちと一緒に謀殺し、軍を鹿島に差し向けた。鹿島軍も善戦したが、当主不在もあってか落城した。


[[徳川氏]]の代になると、鹿島氏の子孫は下総に落ち延びていたので、旧家臣たちが幕府に嘆願し、家の[[復興|再興]]を願った。[[徳川家康]]はこれを許し、[[鹿島惣大行事家]]として存続することになった。石高は200石。、鹿島氏の一族は、庶子等も含めると、[[旗本]]になったもの、[[水戸藩]]藩士になったもの、[[高松藩]]藩士になったもの(高松藩は水戸家の分家のため)、[[帰農]]したものと多岐に渡る。
[[徳川氏]]の代になると、鹿島氏の子孫は下総に落ち延びていたので、旧家臣たちが幕府に嘆願し、家の[[復興|再興]]を願った。[[徳川家康]]はこれを許し、'''鹿島惣大行事家'''として存続することになった。石高は200石。なお、鹿島氏の一族は、庶子等も含めると、[[旗本]]になったもの、[[水戸藩]]藩士になったもの、[[高松藩]]藩士になったもの(高松藩は水戸家の分家のため)、[[帰農]]したものと多岐に渡る。


== 系譜 ==
== 系譜 ==

2012年5月12日 (土) 02:24時点における版

鹿島氏(かしまし)は日本人の姓氏苗字。幾つかの系譜がある。

各種類似姓を示す。

平姓鹿島氏

鹿島氏
本姓 桓武平氏国香流大掾氏流
家祖 平成幹
種別 武家
社家
主な根拠地 常陸国
支流、分家 烟田氏武家
塚原氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

鹿島氏は平高望国香親子の末裔である大掾氏の一族である。平国香の六世孫である鹿島成幹常陸国鹿島郡の領主となり、鹿島氏を称したのが始まりである。成幹は河内源氏の棟梁であった源義忠を姉または妹の舅である源義光の命を受けて暗殺するが、その義光の息のかかった義光の弟、快誉に殺害された。その死後、息子である宗幹弘幹兄弟が遺領を受け継ぎ、治承・寿永の乱(源平合戦)の際には、他の板東平氏と共に家来を率いて源頼朝方につき、屋島の戦いで戦死した。その結果、鹿島氏は鎌倉御家人として認められた。鹿島氏は梶山氏立原氏など庶子を近隣に配して勢力を拡大した。 鎌倉幕府草創期、鹿島家当主だった鹿島三郎政幹は弟の六郎頼幹林氏始祖)と共に、源頼朝上洛、御所昇殿の砌に他の御家人と共に付き従うなど、鎌倉幕府の諸行事に参加するなどした(『吾妻鏡』による)。頼朝は鹿島神宮を篤く信仰していたと見られ、鹿島の地頭である鹿島氏も必然的に頼朝との接点が多かったと推測される。頼朝の後継者は頼朝ほど鹿島神宮を信仰しなかったので、鹿島一族は次第に幕府中枢からの距離ができたが、それは幕府の内紛に巻き込まれることなく、三浦氏などの御家人のように粛清されることもないという側面も生んだ。

南北朝以後

鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代になると、鹿島氏は北朝方について功績があった。そこで、足利氏は鹿島氏当主を鹿島神宮の惣大行事職に補任し、代々世襲していくことになった。また、併せて鹿島氏当主は従五位相当官(おもに受領)に任官するようになる。 『鹿島治乱記』によると、幼少にして鹿島氏の家督を継いだ鹿島義幹は姦臣を近づけ、暴政を布いたために、家老たちが示し合わせて近隣の江戸行方の兵を鹿島に入れ、謀反を起こした。作者は、鹿島義幹による鹿島城改築を、始皇帝阿房宮造営になぞらえ、原因のひとつとしている。

実際、鹿島城は中世の城郭としては尋常な規模ではなかったらしい。義幹は700名の兵とともに鹿島城にたてこもったが、相手は3000名をこえていた。そこで、鹿島家の親戚であるの両氏が言うには、「この城はまだ改築中であり、十分な防衛ができるとは思えません。ひとまず、房総に退き、下総の加勢をまって情勢の立て直しを図ってはどうでしょう」と提案した(林氏も東氏も将軍家直臣であって、義幹に意見できる身分であった。義幹もこれを無下にはできなかった)。

義幹は最初逡巡したが、下総の東城(須賀山城のことと思われる東氏の居城・現在の千葉県東庄町)に退いた。家老たちは義幹の姪を大掾氏の男子にめあわせて新たな当主とした(この姪は江戸氏当主の姪にもあたるので江戸氏の外圧を受けて義幹を追放した勢力には好都合であった。)。義幹は東城で、機会を伺っていたが、同族の島崎氏が流した「今こそ鹿島を奪回する好機である」と嘘の情報を真に受け、再起をはかるべく、東城から出撃し、現在の茨城県鹿嶋市高天原上陸し、城方もこれを迎えうって合戦となった。

これは高天原合戦として知られている。この戦いにおいては、松本備前守塚原卜伝のような剣豪も参加した。鹿島城は皮肉にも義幹の改築によって、非常に堅固になっていた。しかし義幹はこの合戦において討ち死にし、義幹方の兵は東城に引き上げていった。義幹は戦死したが、義幹の孫治幹(治時)は鹿島家当主につくことができた。

戦国時代も終わりのころになると、常陸北部の大名、佐竹氏は鹿島氏当主を他の常陸南部の地頭たちと一緒に謀殺し、軍を鹿島に差し向けた。鹿島軍も善戦したが、当主不在もあってか落城した。

徳川氏の代になると、鹿島氏の子孫は下総に落ち延びていたので、旧家臣たちが幕府に嘆願し、家の再興を願った。徳川家康はこれを許し、鹿島惣大行事家として存続することになった。石高は200石。なお、鹿島氏の一族は、庶子等も含めると、旗本になったもの、水戸藩藩士になったもの、高松藩藩士になったもの(高松藩は水戸家の分家のため)、帰農したものと多岐に渡る。

系譜

群書類従系図部による)

一門

(順不同)塚原氏 徳宿氏 中居氏 林氏 立原氏 沼尾氏 安房氏 烟田氏 石神氏など

家臣

参考文献

  • 『鹿島治乱記』

関連項目