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'''風間 信昭'''(かざま のぶあき、生年不詳 - [[正平 (日本)|正平]]9年/[[文和]]3年([[1334年]])頃)は[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]初期にかけて、[[南朝 (日本)|南朝]]方として活動した[[越後国]]の武将。通称、[[信濃国#国守|信濃守]]また越後守とも。同国[[頸城郡]](現・[[新潟県]][[上越市]])の[[直峰城]]主。[[風間氏#風間氏 (越後国)|越後風間氏]]の当主。
'''風間 信昭'''(かざま のぶあき、生年不詳 - [[正平 (日本)|正平]]9年/[[文和]]3年([[1334年]])頃)は[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]初期にかけて、[[南朝 (日本)|南朝]]方として活動した[[越後国]]の武将。通称、[[信濃国#国守|信濃守]]また越後守とも。同国[[頸城郡]](現・[[新潟県]][[上越市]])の[[直峰城]]主。[[風間氏#風間氏 (越後国)|越後風間氏]]の当主。
* 並列する元号表記は(南朝元号/北朝元号)、また月日は特に断り書きのない場合は[[旧暦#日本|旧暦]]である。
* 並列する元号表記は(南朝元号/北朝元号)、また月日は特に断り書きのない場合は[[旧暦#日本|旧暦]]である。

== 概要 ==
== 概要 ==
風間信昭は[[信濃国]][[上水内郡]](現・[[長野市]])出身といい、また同郡風間の[[式内社]]である風間神社庄の[[荘官|庄司]]家を出自と伝えられる<ref>『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第5号』。</ref>。風間氏の築城とされる[[村岡城]]やその城主館の発掘調査による検証や、信昭が風間氏の菩提寺として[[徳治]]2年([[1306年]])に[[相模国]]名瀬(現・[[神奈川県]][[横浜市]][[戸塚区]]名瀬)に開基したと伝える[[日蓮宗]]法王山[[妙法寺 (長岡市)|妙法寺]]<ref>信昭が帰依していた[[六老僧|日蓮六老僧]]の[[日昭]]上人を開山に招いて創建したと伝える(元の名瀬には経王山[[妙法寺 (横浜市戸塚区)|妙法寺]]が現在も存続している)。下記参考文献1 の5頁。</ref>をさらに[[元亨]]3年([[1323年]])に至ってこの寺を同国村田(新潟県[[三島郡]][[和島村]]大字村田(現・[[長岡市]]))に移転した伝承などから、鎌倉時代末期のこの頃までに信昭とその一族は信濃国から越後国に入ったと推定される<ref>参考文献の1、14頁による。</ref>。
風間信昭は[[信濃国]][[上水内郡]](現・[[長野市]])出身といい、また同郡風間の[[式内社]]である風間神社庄の[[荘官|庄司]]家を出自と伝えられる<ref>『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第5号』。</ref>。風間氏の築城とされる[[村岡城]]やその城主館の発掘調査による検証や、信昭が風間氏の菩提寺として[[徳治]]2年([[1306年]])に[[相模国]]名瀬(現・[[神奈川県]][[横浜市]][[戸塚区]]名瀬)に開基したと伝える[[日蓮宗]]法王山[[妙法寺 (長岡市)|妙法寺]]<ref>信昭が帰依していた[[六老僧|日蓮六老僧]]の[[日昭]]上人を開山に招いて創建したと伝える(元の名瀬には経王山[[妙法寺 (横浜市戸塚区)|妙法寺]]が現在も存続している)。下記参考文献1 の5頁。</ref>をさらに[[元亨]]3年([[1323年]])に至ってこの寺を同国村田(新潟県[[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[和島村]]大字村田(現・[[長岡市]]))に移転した伝承などから、鎌倉時代末期のこの頃までに信昭とその一族は信濃国から越後国に入ったと推定される<ref>参考文献の1、14頁による。</ref>。


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[[建武 (日本)|建武]]2年(1335年)、[[足利尊氏]]が[[建武政権]]に背くと風間信昭は舎弟・村岡三郎とともに[[新田義貞]]軍に属して、同11月南朝方の越後勢に加わり各地に転戦、[[色部高長]]等の北朝勢に抗戦したが旗色は振るわず、[[延元]]2年/建武4年([[1337年]])に[[松本市|信濃府中]]、延元3年/[[暦応]]元年([[1338年]])には[[北陸道]]にも出陣したが、総大将の新田義貞が[[越前国]]藤島([[福井市]]新田塚)における戦いに討死したのを機に信昭等は越後に帰国した。


その後、正平7年/文和元年([[1352年]])には南朝方・[[宗良親王]]に従って同閏2月(新暦4月)に出陣、しかし[[武蔵野合戦]]にまたも敗北して再び帰国。それ以降は越後国内で北朝勢諸氏と戦っている。正平7年/文和元年8月5日(1352年9月13日)に蔵王堂(長岡市)や[[大面荘]](新潟県[[南蒲原郡]])での戦いで出された[[軍忠状]]に信昭と思われる「風間越後守」の名が信昭の嫡子とされる「同右京亮長頼」の名と共に見えるが、これを最後に信昭の名は[[史料]]上に現れなくなる。その一方で正平10年/文和4年([[1355年]])3月に嫡子・風間長頼が[[上杉憲将]]勢を[[顕法寺城]]・[[柿崎城]]に攻めて陥落させている。しかしまた、長頼のこの戦いを示す軍忠状には北朝年号が記されていることから、長頼は北朝側に帰属していたと考えられている。このため南朝に忠節であった信昭はこの頃までには死去していたのではないかと推定されている。
その後、正平7年/文和元年([[1352年]])には南朝方・[[宗良親王]]に従って同閏2月(新暦4月)に出陣、しかし[[武蔵野合戦]]にまたも敗北して再び帰国。それ以降は越後国内で北朝勢諸氏と戦っている。正平7年/文和元年8月5日(1352年9月13日)に蔵王堂(長岡市)や[[大面荘]](新潟県[[南蒲原郡]])での戦いで出された[[軍忠状]]に信昭と思われる「風間越後守」の名が信昭の嫡子とされる「同右京亮長頼」の名と共に見えるが、これを最後に信昭の名は[[史料]]上に現れなくなる。その一方で正平10年/文和4年([[1355年]])3月に嫡子・風間長頼が[[上杉憲将]]勢を[[顕法寺城]]・[[柿崎城]]に攻めて陥落させている。しかしまた、長頼のこの戦いを示す軍忠状には北朝年号が記されていることから、長頼は北朝側に帰属していたと考えられている。このため南朝に忠節であった信昭はこの頃までには死去していたのではないかと推定されている。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
# 鳴海忠夫 「村岡城と風間氏」『長岡郷土史 第28号』 長岡郷土史研究会、1991年。
# 鳴海忠夫 「村岡城と風間氏」『長岡郷土史 第28号』 長岡郷土史研究会、1991年。



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2011年4月13日 (水) 02:28時点における版

風間 信昭(かざま のぶあき、生年不詳 - 正平9年/文和3年(1334年)頃)は鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、南朝方として活動した越後国の武将。通称、信濃守また越後守とも。同国頸城郡(現・新潟県上越市)の直峰城主。越後風間氏の当主。

  • 並列する元号表記は(南朝元号/北朝元号)、また月日は特に断り書きのない場合は旧暦である。

概要

風間信昭は信濃国上水内郡(現・長野市)出身といい、また同郡風間の式内社である風間神社庄の庄司家を出自と伝えられる[1]。風間氏の築城とされる村岡城やその城主館の発掘調査による検証や、信昭が風間氏の菩提寺として徳治2年(1306年)に相模国名瀬(現・神奈川県横浜市戸塚区名瀬)に開基したと伝える日蓮宗法王山妙法寺[2]をさらに元亨3年(1323年)に至ってこの寺を同国村田(新潟県三島郡和島村大字村田(現・長岡市))に移転した伝承などから、鎌倉時代末期のこの頃までに信昭とその一族は信濃国から越後国に入ったと推定される[3]

建武2年(1335年)、足利尊氏建武政権に背くと風間信昭は舎弟・村岡三郎とともに新田義貞軍に属して、同11月南朝方の越後勢に加わり各地に転戦、色部高長等の北朝勢に抗戦したが旗色は振るわず、延元2年/建武4年(1337年)に信濃府中、延元3年/暦応元年(1338年)には北陸道にも出陣したが、総大将の新田義貞が越前国藤島(福井市新田塚)における戦いに討死したのを機に信昭等は越後に帰国した。

その後、正平7年/文和元年(1352年)には南朝方・宗良親王に従って同閏2月(新暦4月)に出陣、しかし武蔵野合戦にまたも敗北して再び帰国。それ以降は越後国内で北朝勢諸氏と戦っている。正平7年/文和元年8月5日(1352年9月13日)に蔵王堂(長岡市)や大面荘(新潟県南蒲原郡)での戦いで出された軍忠状に信昭と思われる「風間越後守」の名が信昭の嫡子とされる「同右京亮長頼」の名と共に見えるが、これを最後に信昭の名は史料上に現れなくなる。その一方で正平10年/文和4年(1355年)3月に嫡子・風間長頼が上杉憲将勢を顕法寺城柿崎城に攻めて陥落させている。しかしまた、長頼のこの戦いを示す軍忠状には北朝年号が記されていることから、長頼は北朝側に帰属していたと考えられている。このため南朝に忠節であった信昭はこの頃までには死去していたのではないかと推定されている。

墳墓

新潟県長岡市大字村田の治暦寺に石塔(宝篋印塔)がある。

脚注

  1. ^ 『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第5号』。
  2. ^ 信昭が帰依していた日蓮六老僧日昭上人を開山に招いて創建したと伝える(元の名瀬には経王山妙法寺が現在も存続している)。下記参考文献1 の5頁。
  3. ^ 参考文献の1、14頁による。

参考文献

  1. 鳴海忠夫 「村岡城と風間氏」『長岡郷土史 第28号』 長岡郷土史研究会、1991年。