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「ミンダウガス」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[ファイル:Mindaugas.jpg|thumb|200px|right|ミンダウカス]]
|name =ミンダウカス
'''ミンダウカス'''('''Mindaugas''', [[ベラルーシ語]] '''Міндоўг''', [[ポーランド語]] '''Mendog''', [[1203年]]? - [[1263年]][[9月12日]]、在位[[1246年]] - 1263年)は、[[リトアニア大公国]]の[[リトアニアの統治者の一覧|大公]]。
|title =[[リトアニア王国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|国王]]
|image= Mindaugas.jpg
|caption =ミンダウカス<!--Mindaugas, as depicted in the chronicles of [[Alexander Guagnini]]-->
|coronation =1253年7月6日
|reign =1251年–1263年
|othertitles =[[リトアニア大公国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]] (1236年–1251年)
|predecessor =不明
|successor =[[トレニオタ]]
|royal house =[[ミンダウカス家]]
|spouse =モルタの姉妹(名前不明)
|spouse 1 ={{仮リンク|モルタ|en|Morta}}
|issue =娘(名前不明) <br> [[ヴァイシュヴィルガス]] <br> ルクリス <br> ルペイキス
|date of birth =[[1203年]]?
|date of death =[[1263年]][[9月12日]]
}}
'''ミンダウカス'''('''Mindaugas''', [[ベラルーシ語]] '''Міндоўг''', [[ポーランド語]] '''Mendog''', [[1203年]]? - [[1263年]][[9月12日]]、在位[[1246年]] - [[1263年]])は初代[[リトアニア大公国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]]及び唯一の[[リトアニア王国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|国王]]として知られていた。その出自、前半生ないし台頭に関しては僅かしか知られておらず、[[1219年]]の条約では年長の公として、[[1236年]]には全[[リトアニア人]]の指導者として言及されている。同時代及び現在の資料が論じるミンダウカスの台頭は対抗者の追放ないし暗殺を伴う政略結婚について言及している。[[1230年]]代から[[1240年]]にかけては[[:lt:Didžioji Lietuva|原リトアニア]]最南端に領域を拡大している。[[1250年]]ないし[[1251年]]のリトアニア内部での権力闘争時には[[カトリック教会]]の[[洗礼]]を受けており、これによりリトアニア人の長年の敵である[[リヴォニア騎士団]]との同盟を可能にした。[[1253年]]の[[夏]]には300,000人から400,000 人の臣民<ref name=oconnor15/>を統治するリトアニア国王として戴冠した。


ミンダウカスの10年にも及ぶ統治は国家建設の業績で印象付けられる一方で親類やその他の公との争いは継続され、西部リトアニアにある[[ジェマイティア]]はミンダウカス=リヴォニア騎士団同盟の支配に対して強固に抵抗した。ミンダウカスが得た原リトアニア最南端は[[ジョチ・ウルス|モンゴル]]の攻撃を受けていた。ミンダウカスは[[1261年]]にリヴォニア騎士団との和平を破棄しているが、この時に[[キリスト教]]を[[棄教]]した可能性が高い。そして[[1263年]]に甥[[トレニオタ]]と別の対抗者である[[ダウマンタス (プスコフ公) |ダウマンタス]]によって3人の息子とともに暗殺された。混乱は[[1270年]]頃にリトアニア大公の称号を得た[[トライデニス]]の時まで収束しなかった。
当時の[[リトアニア]]は[[ドイツ騎士団]]の侵攻に苦しめられていたが、ミンダウカスは諸部族をまとめてリトアニアを統一し、[[1246年]]に大公として即位した。即位後はドイツ騎士団と対抗するために[[モンゴル帝国]]の騎馬戦術を取り入れるなど、軍備増強に励んだ。戦争を避けるために寛容策も採り、[[キリスト教]]に改宗する条件で、ドイツ人のリトアニアへの植民を許した。しかしこれは、当時多神教国家であったリトアニア国民の怒りを買い、ドイツ騎士団との和解は成立しなかった。[[1260年]]、[[ドイツ騎士団]]と戦って大勝している。


ミンダウカスへの評価は幾世紀にも渡っても定まらず、加えてその子孫は明らかではないが、[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけてはリトアニアの建国者の地位を得た。ミンダウカスは唯一のリトアニア国王である<ref name=dubonis/>。[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王) |ヨガイラ]]以降の大部分のリトアニア大公は[[ポーランド王国|ポーランド]][[ポーランド国王|国王]]としても統治したが、称号は分離されたままであった。現在では次第にリトアニア国家の創始者として見做されるようになり、同時にモンゴルによる[[バルト海]]沿岸部への侵略を阻止し、リトアニアを国際的にも認めさせて西欧化への道を開いたとの評価を得ている<ref name=barana/>。 [[1990年]]代に歴史家の[[:lt:Edvardas Gudavičius|エドヴァルダス・グダヴィチウス]]はミンダウカスが戴冠した正確な日時は研究により1253年[[6月6日]]であると発表した。この日は今日では [[:en:Statehood Day (Lithuania)|リトアニアの祝日]]である。
ミンダウカスは智勇に優れた名君であったが、「何か裏があるのではないか」というさい疑心が強い一面があり、その反動から一族や重臣を[[粛清]]することも少なくなかった。その恨みにより[[1263年]]、[[暗殺]]された。

==資料、家系、名前==
{{main|ミンダウカス家}}
ミンダウカスについて書かれた同時代の資料は非常に乏しい。その統治に関する大部分は『[[:de:Livländische Reimchronik|リヴォニア押韻年代記]]』と『[[:ru:Ипатьевская летопись|イパチエフ年代記]]』に負っている。両者ともリトアニアの敵対者によって作成されたことからリトアニアへの偏見に満ちており、特に後者が顕著である<ref name=ivin-153/>。 両書とも最も重要な出来事の日付や位置ですら欠けているなど内容が不完全である。例えば、『リヴォニア押韻年代記』はミンダウカスの戴冠に関しては125行の韻文を充てているが、その日付と場所の記述は欠けている<ref name=ivin-mk/>。その他需要な資料はミンダウカスの洗礼及び戴冠に関する[[教皇勅書]]である。リトアニア人は、[[リヴォニア騎士団]]の土地を獲得するという一連の行動の他は自らの記録を残していないが、この真実性に関しては論議がある。資料が欠けていることからミンダウカスとその統治に関しては答えることの出来ない幾つかの重要な問いがある<ref name=ivin-153/>。

執筆された資料が時代を覆っていることからミンダウカスの出自及びその家系は決定的に確立されていない。これに関して[[16世紀|16]]、[[17世紀]]に執筆された『 [[:en:Bychowiec Chronicle|ブィホヴィエツ年代記]] 』は、ミンダウカスは[[ローマ帝国]]貴族に起源を持つ[[パレモナス朝]]出身ではないかと疑っている<ref name=jonynas/>。ミンダウカスの生年は時々、 [[1200年]]頃ではないかと提示されるが、疑問の余地はある<ref name=stone/><ref name=suzied/>。父親に関しては『リヴォニア押韻年代記』に活動的な公(''ein kunic grôß'')として言及されているが名は記されていない。後年の年代記は [[リムガウダス]]という名を付けている<ref name=kiaupa/><ref name=ivin-le/>。[[1219年]]の条約に言及されている [[:lt:Dausprungas|ダウスプルンガス]]はミンダウカスの兄弟であり、ダウスプルンガスの息子である[[タウトヴィラス]]と[[ゲドヴィダス]]は甥であると推定されている。ミンダウカスには2人の姉妹がいたと思われ、1人は[[:lt:Vykintas|ヴィーキンタス]]に、もう1人は[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ハールィチ・ヴォルィーニ大公]][[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ]]と結婚した。ヴィーキンタスとその息子の[[トレニオタ]]は後年の権力闘争で主要な役割を果たした。ミンダウカスには少なくとも [[:lt:Morta Mindaugienė|モルタ]]及びその姉妹で名前の知られていない最初の妻の2人の妻がいた。後者の実在に関しては、 [[ヴァイシュヴィルガス]]と[[1255年]]に[[シュヴァルナス]]と結婚した名前不明の娘の2人の子供がモルタの息子が未だ若い頃には既に独立した生活を送っていたことから推測である。ヴァイシュヴィルガスとその姉妹に加えて、2人の息子、ルクリスとルペイキスが資料で言及されている。後者の2人はミンダウカスとともに暗殺されている。ミンダウカスの子供に関する情報は限られており、歴史学者はその人数について論じ続けている。ミンダウカスには他に2人の息子がおり、その名は[[:en:scribe|筆写士]]によってルクリスとルペイキスに融合したと思われる<ref name=kiaupa/>。

[[13世紀]]のリトアニアは僅かながら諸外国と接触を持っていた。リトアニア人の名前の発音は曖昧で様々な年代記作者には不慣れであったことから自分達の母語に似せて変えた<ref name=salys/>。歴史上の文書に記されたミンダウカスの名は[[ラテン語]]のMindowe; [[ドイツ語]]のMindouwe、Myndow、Myndawe及びMindaw; [[ポーランド語]]のMendog、Mondog、Mendoch及びMindovg ; [[ロシア語]]のMindovg, Mindog及びMindowh とその他<ref name=salys/>様々な言語で歪められた形で記録された:<ref name=zinkev/>。[[ロシア]]の資料はミンダウカスの生涯に関する最大級の情報を提供してくれることから、ミンダウカスの本来のリトアニアでの名前の再現に関しては言語学者によって最も信頼性があると判断されている。最も人気のあるロシア語での翻訳は''Mindovg''であり、それは全く容易且つ自然に ''Mindaugas''ないし''Mindaugis''として再現された<ref name=salys/>。[[1909年]]にリトアニアの言語学者である[[:lt:Kazimieras Būga|カジミェラス・ブーガ]] は''-as''という接尾辞を付けた研究書を出版して広く受け入れられた。''Mindaugas''は、[[:lt:Lietuvos krikštas|キリスト教化]]する以前に使われた古風の二音節化された[[:lt:Sąrašas:Lietuvoje paplitę vardai|リトアニア人の名前]]であり、''min'' と''daug''の二つの構成要素からなる<ref name=zinkev/>。その語源は"daug menąs" (最良の知恵) ないし"daugio minimas" (最良の名声)であろう<ref name=salys/>。

==台頭==
[[Image:Seimyniskeliai hillfort.jpg|thumb|ミンダウカス時代の首都と思われる [[:lt: Šeimyniškėliai]]高地の[[:lt:Voruta|ヴォルタ]]の城跡。]]

[[13世紀]]初頭のリトアニアは様々な[[レーエン|領地]]や部族を統轄する複数の諸侯によって統治された<ref name=frucht/>。彼等は宗教、伝統、商業、親族、軍事遠征の参加及び近隣地区からの捕虜の存在という属性によって緩やかに結び付いていた<ref name=suzied/><ref name=urban/>。 西欧の商人や宣教団は[[12世紀]]にこの地方を支配しようと努め始め、[[1201年]]に[[ラトビア]]の地に[[リガ]]を建てた。その努力はリトアニアでは[[1236年]]の[[:lt:Saulės mūšis|シャウレスの敗北]]により一時的に中断したが、武装したキリスト教徒の騎士団は威嚇の姿勢を取り続けた<ref name=vardys/>。リトアニアは同時に[[モンゴル帝国]]による攻撃も受けていた<ref name=bojtar/>。

[[1219年]]に調印された[[ハーリィチ=ヴォルィーニ大公国]]との条約は普通は上記の脅威によりバルト系民族が統一された最初の決定的な証拠と見做されている<ref name=gerutis/>。この条約の調印者には[[:lt:Lietuvių žemių konfederacija|20人のリトアニアの公]]と1人の公女が含まれている。詳しく述べるならば、このうちの5人は年長で残りの16人よりも上位を占めている<ref name=rowell705/>。ミンダウカスは兄弟の [[:lt:Dausprungas|ダウスプルンガス]]と同じく列記されている公の中で若年であったにも係わらず、彼等の称号を継承したことをほのめかしている<ref name=kiaupa2/>。『リヴォニア押韻年代記』は1236年の項においてミンダウカスのことを全リトアニアの支配者として記述している<ref name=speciun/><ref name=butkev/>。この称号に対するミンダウカスの方針は明らかではない。ルーシの年代記はミンダウカスは自らの近親を含み数人の公を殺害したり追放したことを言及している<ref name=barana/><ref name=gerutis />。歴史家のS.C. ローウェルは、「婚姻、殺害、軍事的征服といった馴染み深い過程」によって生み出されたミンダウカスの権力掌握を叙述している<ref name=rowell/>。

[[1230年]]代から[[1240年]]代にかけてミンダウカスは強力になり、様々なバルト人やスラヴ人の血を自身の勢力下においた<ref name=kiaupa/>。戦闘は激しさを増し、ミンダウカスは[[クールラント]]でドイツ人の軍勢と戦ったが、[[キエフ]]を破壊し、[[1241年]]に[[ポーランド王国|ポーランド]]に侵入して同国軍を破って[[クラクフ]]を焼き払っている<ref name=urban/>。 シャウレスにおけるリトアニアの勝利は一時的に北方の国境線を安定化させたが、キリスト教騎士団は[[グダニスク]] (Danzig) や[[クライペダ]] (Memel)といった都市を築くことでバルト海沿岸部への進出を継続していた。北西部から締め出されたことからミンダウカスは進出を南西部にして、[[ナヴァフルダク]]、[[フロドナ]]、[[:be:Горад Ваўкавыск|ヴァイクヴィスク]]の諸都市や[[:be:Полацкае княства|ポラツク公国]]を征服している<ref name=dvornik/>。[[黒ルーシ]]と知られるこの辺りを[[1239年]]頃に息子の[[ヴァイシュヴィルガス]]に統治を委ねている<ref name=speciun />。[[1248年]]には甥でダウスプルンガスの息子である [[タウトヴィラス]]と[[:en: Gedvydas|ゲドヴィダス]]を [[ジェマイティア公国|ジェマイティア公]][[:lt:Vykintas|ヴィーキンタス]]とともに[[スモレンスク]]遠征に差し向けているが失敗している。リトアニアの支配を強固なものにしようとするミンダウカスの試みは複合した成功という形で叶った。[[1249年]]に甥とヴィーキンタスの土地を掌握しようとしたことで内戦が起きたのである<ref name=speciun />。

==戴冠の宣誓==
[[Image:Papal bull regarding Lithuanian ruler Mindaugas 1251.jpg|thumb|リトアニアの地を[[ローマ教皇]]の支配権におき、ミンダウカスの改宗及び戴冠について論じられたことに関する[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|教皇インケノティウス4世]]によって発せられた[[教皇勅書]]。]]

タウトヴィラス、ゲドヴィダス及びヴィーキンタスはリトアニア西部のジェマイティア、リヴォニア騎士団、タウトヴィラスとゲドヴィダスの義兄弟にあたるハールィチ=ヴォルィーニ大公[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ]]及び[[ヴァスィーリコ・ロマーノヴィチ]]らとともに反ミンダウカス同盟を結成した<ref name=speciun/>。ハールィチ=ヴォルィーニ大公はヴァイシュヴィルガスの支配権を瓦解させることで黒ルーシ全土の支配を維持した。タウトヴィラスはリガに赴いて大司教から洗礼を受けることで自身の立場を強化した<ref name=suzied/>。 [[1250年]]にリヴォニア騎士団は[[:lt: Didžioji Lietuva|原リトアニア]]におけるミンダウカスの支配地である[[:lt: Nalšia|ナリシア]]及びミンダウカスを未だに支持し続けるジェマイティアの大部分の地への大規模な侵攻を組織した<ref name=butkev/>。 南北からの攻撃とその他地域の不穏の可能性への直面したことによりミンダウカスの己の立場が極端に難しいものとなったが、より関心のあったリヴォニア騎士団と[[:lv:Rīgas arhibīskapija|リガ大司教]]の争いを利用するのに腐心した。ミンダウカスは、1236年の[[:lt: Saulės mūšis|サウレスの戦い]]で敗北したヴィーキンタスに憤る[[:lv: Livonijas ordeņa mestri|リヴォニア騎士団団長]][[:lv: Andreass no Felves|アンドレアス・フォン・フェルベン]]に"多額の贈り物"を送ることで買収させることに成功した<ref name=kiaupa2 /><ref name=butkev/><ref name=meyen/>。

1250年ないし[[1251年]]にミンダウカスはローマ教皇[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インケノティウス4世]]によって国王として認められることの見返りとして洗礼の受け入れと西部リトアニアの支配地全土の譲渡に同意した。ローマ教皇はモンゴルの脅威に対する防壁としてのリトアニアのキリスト教化を歓待し、ミンダウカスの方は現在進行中のリトアニアとキリスト教騎士団の紛争の教皇による調停を目論んだ<ref name=suzied/><ref name=vauchez/>。1251年[[6月17日]]に二つの決定的な[[教皇勅書]]に署名した。 一つはミンダウカスの国王戴冠のための[[:pl: Diecezja chełmińska|ヘルム司教]]充てのもので、 リトアニアの司教座の任命と聖堂建設が書かれていた<ref name=church/>。もう一つの勅書は、新しい司教はリガ司教よりも[[聖座]]に直に服属することが書かれていた<ref name=butkev/>。この自治権は発展を歓迎するものであった <ref name=gerutis />。ミンダウカスの洗礼に関する正確なデーターは知られていない<ref name=suzied/>。その妻、2人の息子、宮廷の人物も洗礼を受けた。インノケンティウス4世は後にミンダウカスの臣民も同じく洗礼を受けたと書き残している<ref name=suzied/>。

戴冠の過程とキリスト教会の設立には2年費やした。内戦は未だに続き、1251年の春、夏にはタウトヴィラスとその生き残りの同盟者が、[[:lt:Voruta|ヴォルタ]]城のミンダウカスの戦士とリヴォニア騎士団の[[弓兵]]を攻撃した。この攻撃は失敗し、タウトヴィラスの軍勢はトヴェリメント城(ジェマイティアの[[:lt: Tverai|トヴェライ]]であると推定される)を守るために後退した<ref name=semaska/>。ヴィーキンタスは1251年ないし[[1252年]]に死去し、タウトヴィラスはダヌィーロと再同盟することを余儀なくされた<ref name=speciun/>。

==リトアニア王国==
[[ファイル:Palaimintasis Vitas 17c.jpg|thumb|left|200px|ミンダウカスの戴冠。]]
{| class=wikitable align=right width=400px
!colspan=2| ミンダウカスによりリヴォニア騎士団に譲渡された土地<ref name=ivin-178/>
|-
! width=90px | 日付 || 領域
|-
| 1253年6月 || [[ジェマイティア]]の一部 <small>([[:lt:Raseiniai|ラセイニアイ]]の半分、[[:lt:Betygala|ベティガラ]]、[[:lt:Ariogala|アリオガラ]]及び[[:lt: Laukuva|ラウクヴァ]] – その他半分が1254年3月にキリスト教会の司教領となる)</small>、[[ズーキヤ]]と[[:lt: Nadruva|ナドルヴァ]]の半分<ref name=gudavi239/>
|-
| 1255年10月 || [[:lt:Sėlija (regionas)|セリヤ]]
|-
| 1257年 || [[:lt:Karšuva|カルスヴァ]]、ナドルヴァ、ジェマイティアの一部
|-
| 1259年8月7日 || ズーキヤの一部、スカルヴァとジェマイティアの全土
|-
| 1260年6月 || リトアニア全土 (仮にミンダウカスが後継者無くして没したら)
|-
| 1261年8月7日 || セリヤ全土
|}

[[1253年]]の[[夏]]の間にミンダウカスとその妻[[:lt:Morta Mindaugienė|モルタ]]は戴冠した。司教ハインリヒ・ハイデンリヒ・フォン・クルムが教会の儀式全体を務め、アンドレアス・スティルランドが王冠を授けた<ref name=suzied/>。[[6月6日]]は今日では[[:en:Statehood Day (Lithuania)|建国記念日]] (Lithuanian: ''Valstybės diena'')として祝われている。これは今日のリトアニアでは公的な祝日である<ref name=seimas/>。戴冠の正確な日付は知られていない。この日を広めた歴史家の[[:lt: Edvardas Gudavičius|エドヴァルダス・グダヴィシウス]]が時折挑んでいる<ref name=barana2/>。戴冠された場所も知れていない。

[[File:Seal of Mindaugas.jpg|thumb|left|1255年8月に添えられた[[:en:Seal of Mindaugas|ミンダウカスの印章]]はドイツ騎士団による中世の偽造品である可能性が高い。]]
およそ8年間に渡って平和的関係及び安定した状態が続いた。ミンダウカスはこの機を利用して東方への拡大に集中させて国家機構を設立して組織した。[[黒ルーシ]]、[[ポラツク]]、[[ダウガヴァ川]]流域の商業の主要な中心地、[[ピンスク]]への自己の影響力を強化している<ref name=speciun />。同時にハールィチ=ヴォルィーニ大公国とも和平交渉を行い、ダヌィーロ大公の息子で後にリトアニア大公となる[[シュヴァルナス|シヴァン]]に娘を嫁がせている。リトアニアと西欧諸国及び聖座との関係は強化された。[[1255年]]にはローマ教皇[[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]]から息子をリトアニア国王として戴冠させる許可を得ている<ref name=butkev/>。[[:en:noble court|貴族会議]]、行政制度、外交上の接待ではミンダウカスが率先して行った<ref name=kiaupa />。建国の印として長い銀の貨幣が発行された<ref name=kiaupa/>。ミンダウカスは、恐らくは今日の[[:lt: Vilniaus Šv. Stanislovo ir Šv. Vladislovo arkikatedra bazilika|ヴィリニュス大聖堂]]の跡地に建てられたであろうヴィリニュスの大聖堂の建設を支援した<ref name=kajackas/>。

ミンダウカスは戴冠後、直ちに[[ジェマイティア]]の一部、[[:lt: Nadruva|ナドルヴァ]]、[[ズーキヤ]](ただし、これら西部の地にはミンダウカスの支配権が及んでいなかった)の地をリヴォニア騎士団に譲渡した<ref name=bojtar/><ref name=barana2/>。後年(1255年–[[1261年]])になってミンダウカスは更なる地を騎士団に譲渡したのかという論議が歴史家の間に存在する。証書は騎士団により偽造されたかもしれない<ref name=speciun />。この筋書きの事例は、幾つかの文書がミンダウカスが事実上支配していない土地について言及している事実<ref name=gerutis />や条約の証言や印章における様々な不揃い性によって高められている<ref name=ivin-178/>。

ミンダウカスとその敵対者であるダヌィーロは、黒ルーシをダヌィーロの息子である[[:yk: Роман Данилович|ロマン]]に譲渡する案で1255年に和解した。後にミンダウカスの息子であるヴァイシュヴィルガスは[[正教会]]の洗礼を受け入れて修道士となり、修道院と女子修道院を創設している<ref name=kiaupa/><ref name=rowell149/>。タウトヴィラスの反抗は、自身がミンダウカスの優位を認め、ポラツクを[[レーエン|封土]]として貰い受けることで一時的に収まった<ref name=speciun />。モンゴルとの直接の対決は[[ベルケ]]がリトアニアの支配に挑むために将軍[[:en: Boroldai|ボロルダイ]]を派遣した(ダヌィーロ以下その他諸侯が参加することを命じている)[[1258年]]ないし[[1259年]]に起きている。The [[:ru: Новгородская первая летопись|ノヴゴロド年代記]]はこの時の行動についてリトアニアの敗北と記述しているが、これは同時にミンダウカスにとっては純粋な意味での勝利と見て取ることが出来る<ref name=meyen/>。

ミンダウカス自身が[[:lt: Voruta|ヴォルタ]]を甥とヴィーキンタスから守備したという記述は『[[:ru: Ипатьевская летопись|イパチエフ年代記]]』のみ見出される(他の2つの資料は“ミンダウカスの城”と記述している)。ヴォルタの位置は明確には述べられておらず、これには宮廷の位置に係わる考古学上の探求を伴うかなりの推測がある。[[ケルナヴェ]]とヴィリニュスを含む少なくとも14の異なる場所が提起されている<ref name=zabiela/>。 ケルナヴェにおける進行中の公的な考古学的発掘は“ミンダウカスの王座の高地の砦”と名付けられた敷地の後の一部が崩壊した[[1979年]]に始まった<ref name=kernave/>。 堂都市は現在、建国記念日の主要な祝いの主役を務めている<ref name=tourism/>。

==暗殺とその後==
[[Image:Lithuanian state in 13-15th centuries.png|thumb|300px|[[13世紀]]から[[14世紀]]にかけての[[リトアニア大公国]]の拡大。]]
リヴォニア騎士団はジェマイティア全土を支配下におくためにミンダウカスとの同盟を活用した。ミンダウカスは1252年に騎士団が[[:lt: Klaipėdos pilis|クライペドス城]]を築くことを承認している<ref name=klaipeda/>。 両者の統治は、しかしながら圧政のように見えた。現地の商人はリヴォニア騎士団の仲介を介してのみ取引を行うことが出来た。相続法は変更され、パートナー及び住民間の結婚は制限された<ref name=urban/>。幾つかの戦闘が立て続けに起きた。リヴォニア騎士団は[[1259年]]の[[:lt:Skuodo mūšis|スクドの戦い]]で、[[1260年]]の[[:lt: Durbės mūšis|ドゥルベスの戦い]]でそれぞれ敗北した。前者の敗北はジェマイティア人による反乱を奮い立たせ、後者の敗北は[[プルーセン|プロイセン人]]による14年も続くことになる[[:en: Prussian uprisings|大反乱]]に拍車をかけることになった<ref name=kiaupa />。これらの進展や甥の[[トレニオタ]]に奮い立たせられた形でミンダウカスはリヴォニア騎士団との和平を破棄した。ミンダウカスのキリスト教改宗による期待しうる物はほんの僅かであることが証明された<ref name=vardys/>。

ミンダウカスは後に[[:lt: Lietuvių mitologija|異教信仰]]に戻ったと思われる。そのキリスト教改宗の動機は現代の歴史家によって単に戦略的なものであったと描写される<ref name=oconnor/><ref name=ignat/>。ミンダウカスの背教事件に関しては2つの同時代の資料が残っている。一つはミンダウカスは間違った信仰に戻ったという[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|教皇ヨハネス22世]]の断言であり、もう一つは『[[:yk: Галицько-Волинський літопис|ハールィチ=ヴォルィーニ年代記]]』である<ref name=suzied/>。後者は、ミンダウカスは異教の神々に生贄を捧げて焼き、公の場で異教の儀式を行うことで異教信仰を保持し続けたと述べる<ref name=jones/>。歴史家は、ミンダウカスはハールィチ=ヴォルィーニ大公国と争っていたから年代記の記述には偏見が含まれると指摘する<ref name=suzied/><ref name=plokhy/>。他方、[[クレメンス4世 (ローマ教皇)|教皇クレメンス4世]]は[[1268年]]にミンダウカス殺害に哀悼を示す形で "ミンダウカスの幸福な思いで" (''clare memorie Mindota'')を書いている<ref name=suzied/>。

幾つかの事件により[[:lt: Lietuvos krikštas|リトアニア全土のキリスト教化]]への準備はなされることはなく、それ以上の進展にはミンダウカスの改宗は僅かな衝撃しか与えなかった<ref name=kiaupa />。住民や貴族の大部分は異教信仰に留まり続けており、ミンダウカスの臣民はキリスト教への改宗を必要としなかった<ref name=oconnor15/><ref name=ignat/>。ミンダウカスが[[ヴィリニュス]]に建てたカトリックの大聖堂は異教の神殿に取って代わられ、その戴冠後の外交上の成果の全てが失われたが、キリスト教化と通婚の試みは等しく大目に見られた<ref name=kiaupa /><ref name=vardys/><ref name=vauchez/>。

リヴォニア騎士団との地域間の紛争はエスカレートしていった。[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド公]][[アレクサンドル・ネフスキー]]、タウトヴィラスとその息子コンスタンティナスは反ミンダウカス同盟に同意したが、その計画は成功しなかった<ref name=suzied/> 。ジェマイティアにおける抵抗の指導者としてトレニオタが台頭してきた。トレニオタは抵抗軍を[[ツェーシス]] (現在のラトビア)に導いて[[エストニア]]沿岸部に達し、[[マゾフシェ公国|マゾフシェ]] (現在のポーランド)と戦った。その目標は支配下におかれている全バルト諸族をキリスト教騎士団に対する叛旗へと奮い立たせ、リトアニアの指導のもとで統一することであった<ref name=suzied/>。トレニオタの影響力は増していったが、他方、ミンダウカスはルーシの地の征服に専念し、その主力軍を[[ブリャンスク]]に派遣していた。トレニオタとミンダウカスは異なる優先事項を探求していたのだ<ref name=kiaupa2 />。 『リヴォニア押韻年代記』は、ミンダウカスは外交の方を好んだのであろうか、トレニオタがリヴォニア騎士団ないしエストニアとの同盟を構築しないことに実際に不快感を示していると言及している<ref name=suzied/>。これらの出来事の最中に妻であるモルタが死去し、ミンダウカスはその姉妹で[[ダウマンタス (プスコフ公)|ダウマンタス]]の妻であった女性を奪い取った<ref name=dubonis/><ref name=butkev/><ref name=marcin/>。このことが切っ掛けでダウマンタスとトレニオタは共同してミンダウカスをその2人の息子と共に[[1263年]]に殺害した<ref name=gerutis />。後の伝説では暗殺は[[:lv:Aglona|アグロナ]]で行われた<ref name=ivin-195/>。ミンダウカスの遺体は古くからの慣習に従って馬と共に埋葬された<ref name=lieven/>。ミンダウカス没後のリトアニアは混乱状態に陥った。 3人の後継者、即ち、トレニオタ、義理の息子シヴァン、実の息子ヴァイシュヴィルガスは次の7年間の間に殺された。[[1270年]]に[[トライデニス]]が大公位につくまで混乱は収まらなかった<ref name=rowell/>。

==評価==
[[Image:Mindaugas the King of Lithuania Reversum.png|thumb|left| [[:lt: Lietuviškos proginės monetos|リトアニアの共通貨幣]][[リタス]]に''リトアニア国王ミンダウカス''の刻印が押されたミンダウカス。]]

[[19世紀]]の[[:lt:Lietuvių tautinis sąjūdis|リトアニアにおける民族復興]]まで同国の[[歴史学]]ではミンダウカスの位置づけは不明瞭であった<ref name=dubonis/>。異教信仰への共感者はミンダウカスがその異教信仰を裏切ったことは軽率であると見做す一方でキリスト教徒はミンダウカスのキリスト教への支援は不熱心であると見做した<ref name=dubonis/>。ミンダウカスは[[ゲディミナス]]によって唯一照会された程度で、その孫である[[ヴィータウタス]]によっては一度も言及されていない<ref name=dubonis/>。ミンダウカスの知られている親類縁者は息子の代で終わった。どの歴史家もミンダウカスの子孫と[[1572年]]まで[[ポーランド・リトアニア合同|リトアニアとポーランド]]を支配した[[ゲディミナス朝]]との関係について記録していないのである<ref name=nikzen/>。[[17世紀]]の[[ヴィリニュス大学]]の学長は当時の[[ポーランド・リトアニア共和国]] における体験("リトアニア内部の不協和音の因子がまかれた")からミンダウカスは厄災に対する責任があると見做していた<ref name=dubonis/>。[[20世紀]]になると歴史家はミンダウカスのことを"リトアニア国家の破壊者"と非難した<ref name=dubonis/>。 The first academic study of his life by a Lithuanian scholarリトアニア人の学者[[:lt: Jonas Totoraitis|ヨナス・テオダラス]]によるミンダウカスの生涯に関する最初の学術的な研究書(''Die Litauer unter dem König Mindowe bis zum Jahre 1263'')は[[1905年]]まで出版されなかった<ref name=dubonis/>。[[1990年]]代に[[:lt: Edvardas Gudavičius|エドヴァルダス・グダヴィシウス]]は自身による発見<ref name=dubonis/>、即ち祝日となったミンダウカスの戴冠の日付について出版した。[[2003年]]のミンダウカス戴冠750周年記念はヴィリニュスでの[[:lt: Mindaugo tiltas|ミンダウカス橋]]が奉納、多くのフェスティバルやコンサート、その他の国々からの訪問者によって印象付けられた<ref name=american/><ref name=president/><ref name=foreign/>。

ミンダウカスは[[:pl:Wieszcz|三羽の鳥]]の一人である[[:pl:Juliusz Słowacki|ユリウス・スロワチク]]によって[[1829年]]のドラマ''Mindowe''の主題となった<ref name=polski/><ref name=sesplaukis/>。ミンダウカスは20世紀の幾つかの文学作品でも描写されている。ラトビアの作家[[:lv:Mārtiņš Zīverts|マルチンス・ズィヴェルツ]]の悲劇''Vara'' (力、[[1944年]])、[[ユスティナス・マルツィンケヴィチュース]]の叙事詩''Mindaugas'' ([[1968年]]), [[:en:Romualdas Granauskas|ロムラダス・グラナウスカス]]の''Jaučio aukojimas'' (猛牛の提供、[[1975年]])、[[:lt:Juozas Kralikauskas|ユゾサス・クラリカウスカス]]の''Mindaugas'' ([[1995年]])<ref name=dunzila/>。
{{clear}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ミンダウカス家]]
* [[ミンダウカス家]]
* [[パレモナス朝]]


== 脚注 ==
{{reflist|2|refs=
<ref name=american>{{cite web|title=Celebrations in Honor of Mindaugas the King|url=http://javlb.org/bridges/2003/april2003/april2003_8-9.pdf|publisher=Lithuanian American Community, Inc.|accessdate=24 February 2009}}</ref>
<ref name=barana>{{cite book|authorlink=Tomas Baranauskas|first=Tomas |last=Baranauskas |title=Lietuvos valstybės ištakos |chapter=The Formation of the Lithuanian State| publisher=Vaga |year=2000 |chapterurl=http://viduramziu.istorija.net/en/state.htm |pages=245–272 |accessdate=20 February 2009 |isbn=5-415-01495-0 | quote= The Volhynian Chronicle gives the following description of Mindaugas' activity: Mindaugas "was a duke in the Lithuanian land, and he killed his brothers and his brothers' sons and banished others from the land and began to rule alone over the entire Lithuanian land. And he started to put on airs and enjoyed glory and might and would not put up with any opposition."}}</ref>
<ref name=barana2>{{lt icon}} {{cite journal |first=Tomas |last=Baranauskas |year=2003 | month=23 March, |title=Mindaugo karūnavimo ir Lietuvos karalystės problemos | url= http://www.voruta.lt/archyvas/24/1119 | journal=[[Voruta (newspaper)|Voruta]] | volume=6 | issue=504 | issn=1392-0677 | accessdate =17 September 2006}}</ref>
<ref name=bojtar>{{cite book|first=Endre |last=Bojtár| title=Foreword to the Past: A Cultural History of the Baltic People| year=1999| publisher=Central European University Press| url=http://books.google.com/?id=5aoId7nA4bsC&pg=PA179 |page=179 |isbn=963-9116-42-4}}</ref>
<ref name=butkev>{{lt icon}} {{cite journal |last=Butkevičienė |first= Birutė | coauthors= Vytautas Gricius |year=2003 |month=July |title=Mindaugas – Lietuvos karalius |journal=Mokslas ir gyvenimas |volume=7 |issue=547 |issn=0134-3084 |url=http://ausis.gf.vu.lt/mg/nr/2003/07/7mlk.html |accessdate=17 September 2006}}</ref>
<ref name=church>{{cite web|title=History of the Catholic Church in Lithuania|publisher=Catholic Church in Lithuania|url=http://www.lcn.lt/en/bl/istorija/1/blistorija1.html|accessdate=20 February 2009}}</ref>
<ref name=dubonis>{{cite book|first=Artūras |last=Dubonis |title=Mindaugo knyga: istorijos šaltiniai apie Lietuvos karalių |chapter=Belated Praise for King Mindaugas of Lithuania|publisher=[[Lithuanian Institute of History]]|year=2005| chapterurl=http://www.istorija.lt/html/body_mindaugo2005_belated.html| isbn=9986-780-68-3 |pages=17–22}}</ref>
<ref name=dunzila>{{cite journal|title=King and Power|first=Audrius Vilius |last=Dundzila|journal=[[Lituanus]] |volume=1|date= Spring 1990 |issue=36|url=http://www.lituanus.org/1990_1/90_1_03.htm|accessdate=8 February 2009|issn=0024-5089}}</ref>
<ref name=dvornik>{{cite book|title=The Slavs in European History and Civilization |first=Francis |last=Dvornik |year=1992 |publisher=[[Rutgers University]] Press|url=http://books.google.com/?id=LACpYP-g1y8C&pg=PA215 |page=215 |isbn=0813507995}}</ref>
<ref name=foreign>{{cite web|title=Lithuania's Cooperation with Estonia|url=http://www.urm.lt/index.php?-1986879202|publisher=Foreign Ministry of Lithuania|accessdate=24 February 2009}}</ref>
<ref name=frucht>{{cite book|first=Richard C. |last=Frucht| title=Eastern Europe: An Introduction to the People, Lands, and Culture| year=2005| publisher=[[ABC-CLIO]]| url=http://books.google.com/?id=lVBB1a0rC70C&pg=PA169 |page=169 |isbn=1576078000 }}</ref>
<ref name=gerutis>{{cite book |last=Jakštas |first=Juozas |editor= Albertas Gerutis (ed.) |others= translated by Algirdas Budreckis|title= Lithuania: 700 Years |year=1969 |publisher=Manyland Books|location= New York|id= {{LCC|75-80057}} |pages=43–58 |chapter= Lithuania to World War I}}</ref>
<ref name=gudavi239>{{lt icon}} {{cite book| first=Edvardas |last=Gudavičius |authorlink=Edvardas Gudavičius |title=Mindaugas | location=Vilnius |publisher=Žara |year=1998 |isbn=9986-34-020-9 |page=239–240}}</ref>
<ref name=ignat>{{cite book|title=Transnational Identity Politics and the Environment|first=Gabriel |last=Ignatow| year=2007|publisher=Lexington Books |url=http://books.google.com/?id=2Z3zQ9gPsSAC&pg=PA100 |page=100 |isbn=0739120158}}</ref>
<ref name=ivin-le>{{lt icon}} {{cite encyclopedia | encyclopedia=Lietuvių enciklopedija | title=Ringaudas |first=Zenonas |last=Ivinskis | location=Boston, Massachusetts | publisher=Lietuvių enciklopedijos leidykla |year=1953–1966 |volume=25 |pages=308–309 |id={{LCC|55020366}} }}</ref>
<ref name=ivin-153>{{lt icon}} {{cite book |first=Zenonas |last=Ivinskis |title=Lietuvos istorija iki Vytauto Didžiojo mirties |year=1978 |location=Rome |publisher=Lietuvių katalikų mokslo akademija |id={{LCC|79346776}} |pages=153–154}}</ref>
<ref name=ivin-178>{{lt icon}} {{cite book |first=Zenonas |last=Ivinskis |title=Lietuvos istorija iki Vytauto Didžiojo mirties |year=1978 |location=Rome |publisher=Lietuvių katalikų mokslo akademija |id={{LCC|79346776}} |pages=178–179, 186}}</ref>
<ref name=ivin-195>{{lt icon}} {{cite book |first=Zenonas |last=Ivinskis |title=Lietuvos istorija iki Vytauto Didžiojo mirties |year=1978 |location=Rome |publisher=Lietuvių katalikų mokslo akademija |id={{LCC|79346776}} |page=195}}</ref>
<ref name=ivin-mk>{{lt icon}} {{cite book |first=Zenonas |last=Ivinskis |chapter=Mindaugas ir jo karūna. Kritiškos pastabos septynių šimtmečių (1253–1953) perspektyvoje |editor=Vytautas Ališausklas |title=Mindaugas karalius |publisher=Aidai |year=2008 |isbn=978-9955-656-56-2 |page=66}}</ref>
<ref name=jones>{{cite book|title=A History of Pagan Europe|first=Prudence |last=Jones |coauthors=Nigel Pennick| year=1997 |publisher=[[Routledge]] |url=http://books.google.com/?id=vYtrv5qD9isC&pg=PA172 |page=172 |isbn=0415158044}}</ref>
<ref name=jonynas>{{lt icon}} {{cite encyclopedia | last = Jonynas | first =Ignas | editor = Vaclovas Biržiška |editor-link=Vaclovas Biržiška | encyclopedia = Lietuviškoji enciklopedija | title = Bychovco kronika | year = 1935 | publisher=Spaudos Fondas | volume = III | location = Kaunas | pages = 875–878}}</ref>
<ref name=kajackas>{{cite journal|journal=[[Lituanus]]| date=Spring 1990|volume=1 |issue=36|first=Algimintas |last=Kajackas|title=The History and Recent Archeological Investigations of the Vilnius Cathedral|url=http://www.lituanus.org/1990_1/90_1_04.htm |issn=0024-5089}}</ref>
<ref name=kernave>{{cite web|title=Reserve – Archaeological Site| publisher=Administration of the State Cultural Reserve of Kernavė| url=http://www.kernave.org/archeo_en.htm| accessdate=5 February 2009}}</ref>
<ref name=kiaupa>{{cite book |last=Kiaupa | first=Zigmantas |coauthors= Jūratė Kiaupienė, Albinas Kunevičius |title= The History of Lithuania Before 1795 |origdate= |origyear= 1995|edition= English|year= 2000|publisher=Lithuanian Institute of History|location= Vilnius|isbn= 9986-810-13-2|pages=43–127}}</ref>
<ref name=kiaupa2>{{lt icon}} {{cite book |last=Kiaupa |first=Zigmantas |title=Gimtoji istorija. Nuo 7 iki 12 klasės |url=http://mkp.emokykla.lt/gimtoji/index.php |accessdate=11 March 2007 |year=2002 |publisher=Elektroninės leidybos namai |location=Vilnius |isbn=9986-9216-9-4 |chapter=Baltų žemių vienijimosi priežastys |chapterurl=http://mkp.emokykla.lt/gimtoji/?id=821 }}</ref>
<ref name=klaipeda>{{cite web|title=The Gimpse on the History of Klaipeda Port|url=http://www.portofklaipeda.lt/en.php/port_of_klaipda/about_the_port/history/7737|publisher=Klaipeda State Seaport Authority|accessdate=24 February 2009}}</ref>
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<ref name=marcin>{{cite journal|journal=[[Lituanus]]|date= Winter 1971|volume=4|issue=17|title=Honor and Suffering, The Second Part of the Drama-Poem Mindaugas|first=Justinas |last=Marcinkevičius| url=http://www.lituanus.org/1971/71_4_04.htm| accessdate=20 February 2009 |issn=0024-5089}}</ref>
<ref name=meyen>{{cite book|author=John Meyendorff|title=Byzantium and the Rise of Russia|year=1981|publisher=[[Cambridge University Press]], reprinted by St Vladimir's Seminary Press, 1989|url=http://books.google.com/?id=1ndUgrTtvbkC&pg=PA56 |isbn=9780881410792|page=56}}</ref>
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<ref name=oconnor15>{{cite book|first=Kevin |last=O'Connor|title=The History of the Baltic States |year=2003 |publisher=[[Greenwood Publishing]]| url=http://books.google.com/?id=b3b5nU4bnw4C&pg=PA14 |page=15 |isbn=0313323550}}</ref>
<ref name=plokhy>{{cite book|title=The Origins of the Slavic Nations: Premodern Identities in Russia, Ukraine, and Belarus|first=Serhii |last=Plokhy|year=2006|publisher=[[Cambridge University Press]]|url=http://books.google.com/?id=pCdUmCWxwJ8C&pg=RA1-PA91 |page=91 |isbn=0521864038}}</ref>
<ref name=polski>{{pl icon}} {{cite encyclopedia|url=http://niniwa2.cba.pl/psb_juliusz_slowacki.htm |title=Juliusz Słowacki |encyclopedia=[[Polski Słownik Biograficzny]] |year=1999 |volume=XXXIX/1 |pages=58–73}}</ref>
<ref name=president>{{cite web|title=Polish President pleased with the opportunity to celebrate the anniversary of King Mindaugas’ coronation together with the people of Lithuania|url=http://paksas.president.lt/en/one.phtml?id=4120|publisher=President of the Republic of Lithuania|accessdate=24 February 2009}}</ref>
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<ref name=rowell149>{{cite book| title=Lithuania Ascending: A Pagan Empire Within East-Central Europe, 1295–1345 |first=S.C. |last=Rowell |publisher=[[Cambridge University Press]] |year=1994 |url=http://books.google.com/?id=i4hpVJ51y4oC&pg=PA149 |page=149 | series=Cambridge Studies in Medieval Life and Thought: Fourth Series| isbn=9780521450119}}</ref>
<ref name=rowell705>{{cite book | first=S.C. |last=Rowell | title=The New Cambridge Medieval History, c.1300–c.1415| volume=VI |chapter=Baltic Europe |publisher=Cambridge University Press |year=1995 |page=705|url=http://books.google.com/?id=LOS1c0w91AcC&pg=RA1-PA705 |isbn=0521362903}}</ref>
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<ref name=seimas>{{lt icon}} [http://www3.lrs.lt/pls/inter3/dokpaieska.showdoc_l?p_id=134377 Lietuvos Respublikos švenčių dienų įstatymas], Žin., 1990, Nr. 31-757, [[Seimas]]. Retrieved on 17 September 2006.</ref>
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<ref name=sesplaukis>{{cite journal|first=Alfonsas |last=Šešplaukis|title=Shakespearian Traits in Lithuanian Literature|journal=[[Lituanus]]|volume=3 |issue=16|date=Fall 1970|url=http://www.lituanus.org/1970/70_3_01.htm|accessdate=15 February 2009|issn=0024-5089}}</ref>
<ref name=speciun>{{lt icon}} {{cite book |others= Vytautas Spečiūnas (compiler)|title= Lietuvos valdovai (XIII-XVIII a.): enciklopedinis žinynas |year=2004 |publisher=Mokslo ir enciklopedijų leidybos institutas |location=Vilnius |isbn=5-420-01535-8 |pages =15–78}}</ref>
<ref name=stone>{{cite book|first=Daniel |last=Stone|title=A History of East Central Europe|year=2001|publisher=University of Washington Press|url=http://books.google.com/?id=LFgB_l4SdHAC&pg=PA3 |page=3|isbn=0295980931}}</ref>
<ref name=suzied>{{cite encyclopedia | editor=Sužiedėlis, Simas | encyclopedia=[[Encyclopedia Lituanica]] | title=Mindaugas| year=1970–1978 | publisher=Juozas Kapočius | volume=III | location=Boston, Massachusetts | id={{LCC|74-114275}} | pages=538–543}}</ref>
<ref name=tourism>{{cite web|title=Cultural life|url=http://www.lithuaniatourism.co.uk/index.php?id=421|publisher=Lithuanian National Tourism Office |accessdate=4 February 2009}}</ref>
<ref name=urban>{{cite journal|journal=[[Lituanus]]|title=The Prussian-Lithuanian Frontier of 1242 |authorlink=William Urban |first=William |last=Urban |volume=4 |issue=21 |date=Winter 1975 |url=http://www.lituanus.org/1975/75_4_01.htm |accessdate=17 February 2009 |issn=0024-5089}}</ref>
<ref name=vardys>{{cite book|first=Vytas Stanley |last=Vardys |coauthors=Judith B. Sedaitis|year=1997 |publisher=[[Westview Press]] |title=Lithuania: The Rebel Nation| url=http://books.google.com/?id=ueHRten9pX0C&pg=PA10 |page=10 |series=Westview Series on the Post-Soviet Republics |isbn=0-8133-1839-4}}</ref>
<ref name=vauchez>{{cite book|first=Andre |last=Vauchez |coauthors=Richard Barrie Dobson, Adrian Walford, Michael Lapidge| title=Encyclopedia of the Middle Ages| year=2000|publisher=[[Routledge]]| url=http://books.google.com/?id=OSTvzR8FQlYC&pg=PA855 |page=855 |isbn=1579582826}}</ref>
<ref name=zabiela>{{lt icon}} {{cite book |title=Lietuvos medinės pilys |first=Gintautas |last=Zabiela |year=1995 |publisher=Diemedis |location=Vilnius |isbn=9986-23-018-7 |page=175}}</ref>
<ref name=zinkev>{{lt icon}} {{cite book |first=Zigmas |last=Zinkevičius |authorlink=Zigmas Zinkevičius |title=Senosios Lietuvos valstybės vardynas |location=Vilnius |year=2007 |publisher=[[Science and Encyclopaedia Publishing Institute]] |isbn=5-420-01606-0 |pages=48–49}}</ref>
}}


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{{先代次代|[[リトアニア大公国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]]・[[リトアニア王国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|国王]]|1236年-1263年|-|[[トレニオタ]]}}


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2011年11月11日 (金) 04:20時点における版

ミンダウカス
リトアニア国王
ミンダウカス
在位 1251年–1263年
戴冠式 1253年7月6日
別号 リトアニア大公 (1236年–1251年)

出生 1203年?
死去 1263年9月12日
配偶者 モルタの姉妹(名前不明)
  モルタ
子女 娘(名前不明)
ヴァイシュヴィルガス
ルクリス
ルペイキス
家名 ミンダウカス家
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ミンダウカスMindaugas, ベラルーシ語 Міндоўг, ポーランド語 Mendog, 1203年? - 1263年9月12日、在位1246年 - 1263年)は初代リトアニア大公及び唯一のリトアニア国王として知られていた。その出自、前半生ないし台頭に関しては僅かしか知られておらず、1219年の条約では年長の公として、1236年には全リトアニア人の指導者として言及されている。同時代及び現在の資料が論じるミンダウカスの台頭は対抗者の追放ないし暗殺を伴う政略結婚について言及している。1230年代から1240年にかけては原リトアニア最南端に領域を拡大している。1250年ないし1251年のリトアニア内部での権力闘争時にはカトリック教会洗礼を受けており、これによりリトアニア人の長年の敵であるリヴォニア騎士団との同盟を可能にした。1253年には300,000人から400,000 人の臣民[1]を統治するリトアニア国王として戴冠した。

ミンダウカスの10年にも及ぶ統治は国家建設の業績で印象付けられる一方で親類やその他の公との争いは継続され、西部リトアニアにあるジェマイティアはミンダウカス=リヴォニア騎士団同盟の支配に対して強固に抵抗した。ミンダウカスが得た原リトアニア最南端はモンゴルの攻撃を受けていた。ミンダウカスは1261年にリヴォニア騎士団との和平を破棄しているが、この時にキリスト教棄教した可能性が高い。そして1263年に甥トレニオタと別の対抗者であるダウマンタスによって3人の息子とともに暗殺された。混乱は1270年頃にリトアニア大公の称号を得たトライデニスの時まで収束しなかった。

ミンダウカスへの評価は幾世紀にも渡っても定まらず、加えてその子孫は明らかではないが、19世紀から20世紀にかけてはリトアニアの建国者の地位を得た。ミンダウカスは唯一のリトアニア国王である[2]ヨガイラ以降の大部分のリトアニア大公はポーランド国王としても統治したが、称号は分離されたままであった。現在では次第にリトアニア国家の創始者として見做されるようになり、同時にモンゴルによるバルト海沿岸部への侵略を阻止し、リトアニアを国際的にも認めさせて西欧化への道を開いたとの評価を得ている[3]1990年代に歴史家のエドヴァルダス・グダヴィチウスはミンダウカスが戴冠した正確な日時は研究により1253年6月6日であると発表した。この日は今日では リトアニアの祝日である。

資料、家系、名前

ミンダウカスについて書かれた同時代の資料は非常に乏しい。その統治に関する大部分は『リヴォニア押韻年代記』と『イパチエフ年代記』に負っている。両者ともリトアニアの敵対者によって作成されたことからリトアニアへの偏見に満ちており、特に後者が顕著である[4]。 両書とも最も重要な出来事の日付や位置ですら欠けているなど内容が不完全である。例えば、『リヴォニア押韻年代記』はミンダウカスの戴冠に関しては125行の韻文を充てているが、その日付と場所の記述は欠けている[5]。その他需要な資料はミンダウカスの洗礼及び戴冠に関する教皇勅書である。リトアニア人は、リヴォニア騎士団の土地を獲得するという一連の行動の他は自らの記録を残していないが、この真実性に関しては論議がある。資料が欠けていることからミンダウカスとその統治に関しては答えることの出来ない幾つかの重要な問いがある[4]

執筆された資料が時代を覆っていることからミンダウカスの出自及びその家系は決定的に確立されていない。これに関して1617世紀に執筆された『 ブィホヴィエツ年代記 』は、ミンダウカスはローマ帝国貴族に起源を持つパレモナス朝出身ではないかと疑っている[6]。ミンダウカスの生年は時々、 1200年頃ではないかと提示されるが、疑問の余地はある[7][8]。父親に関しては『リヴォニア押韻年代記』に活動的な公(ein kunic grôß)として言及されているが名は記されていない。後年の年代記は リムガウダスという名を付けている[9][10]1219年の条約に言及されている ダウスプルンガスはミンダウカスの兄弟であり、ダウスプルンガスの息子であるタウトヴィラスゲドヴィダスは甥であると推定されている。ミンダウカスには2人の姉妹がいたと思われ、1人はヴィーキンタスに、もう1人はハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチと結婚した。ヴィーキンタスとその息子のトレニオタは後年の権力闘争で主要な役割を果たした。ミンダウカスには少なくとも モルタ及びその姉妹で名前の知られていない最初の妻の2人の妻がいた。後者の実在に関しては、 ヴァイシュヴィルガス1255年シュヴァルナスと結婚した名前不明の娘の2人の子供がモルタの息子が未だ若い頃には既に独立した生活を送っていたことから推測である。ヴァイシュヴィルガスとその姉妹に加えて、2人の息子、ルクリスとルペイキスが資料で言及されている。後者の2人はミンダウカスとともに暗殺されている。ミンダウカスの子供に関する情報は限られており、歴史学者はその人数について論じ続けている。ミンダウカスには他に2人の息子がおり、その名は筆写士によってルクリスとルペイキスに融合したと思われる[9]

13世紀のリトアニアは僅かながら諸外国と接触を持っていた。リトアニア人の名前の発音は曖昧で様々な年代記作者には不慣れであったことから自分達の母語に似せて変えた[11]。歴史上の文書に記されたミンダウカスの名はラテン語のMindowe; ドイツ語のMindouwe、Myndow、Myndawe及びMindaw; ポーランド語のMendog、Mondog、Mendoch及びMindovg ; ロシア語のMindovg, Mindog及びMindowh とその他[11]様々な言語で歪められた形で記録された:[12]ロシアの資料はミンダウカスの生涯に関する最大級の情報を提供してくれることから、ミンダウカスの本来のリトアニアでの名前の再現に関しては言語学者によって最も信頼性があると判断されている。最も人気のあるロシア語での翻訳はMindovgであり、それは全く容易且つ自然に MindaugasないしMindaugisとして再現された[11]1909年にリトアニアの言語学者であるカジミェラス・ブーガ-asという接尾辞を付けた研究書を出版して広く受け入れられた。Mindaugasは、キリスト教化する以前に使われた古風の二音節化されたリトアニア人の名前であり、mindaugの二つの構成要素からなる[12]。その語源は"daug menąs" (最良の知恵) ないし"daugio minimas" (最良の名声)であろう[11]

台頭

ミンダウカス時代の首都と思われる lt: Šeimyniškėliai高地のヴォルタの城跡。

13世紀初頭のリトアニアは様々な領地や部族を統轄する複数の諸侯によって統治された[13]。彼等は宗教、伝統、商業、親族、軍事遠征の参加及び近隣地区からの捕虜の存在という属性によって緩やかに結び付いていた[8][14]。 西欧の商人や宣教団は12世紀にこの地方を支配しようと努め始め、1201年ラトビアの地にリガを建てた。その努力はリトアニアでは1236年シャウレスの敗北により一時的に中断したが、武装したキリスト教徒の騎士団は威嚇の姿勢を取り続けた[15]。リトアニアは同時にモンゴル帝国による攻撃も受けていた[16]

1219年に調印されたハーリィチ=ヴォルィーニ大公国との条約は普通は上記の脅威によりバルト系民族が統一された最初の決定的な証拠と見做されている[17]。この条約の調印者には20人のリトアニアの公と1人の公女が含まれている。詳しく述べるならば、このうちの5人は年長で残りの16人よりも上位を占めている[18]。ミンダウカスは兄弟の ダウスプルンガスと同じく列記されている公の中で若年であったにも係わらず、彼等の称号を継承したことをほのめかしている[19]。『リヴォニア押韻年代記』は1236年の項においてミンダウカスのことを全リトアニアの支配者として記述している[20][21]。この称号に対するミンダウカスの方針は明らかではない。ルーシの年代記はミンダウカスは自らの近親を含み数人の公を殺害したり追放したことを言及している[3][17]。歴史家のS.C. ローウェルは、「婚姻、殺害、軍事的征服といった馴染み深い過程」によって生み出されたミンダウカスの権力掌握を叙述している[22]

1230年代から1240年代にかけてミンダウカスは強力になり、様々なバルト人やスラヴ人の血を自身の勢力下においた[9]。戦闘は激しさを増し、ミンダウカスはクールラントでドイツ人の軍勢と戦ったが、キエフを破壊し、1241年ポーランドに侵入して同国軍を破ってクラクフを焼き払っている[14]。 シャウレスにおけるリトアニアの勝利は一時的に北方の国境線を安定化させたが、キリスト教騎士団はグダニスク (Danzig) やクライペダ (Memel)といった都市を築くことでバルト海沿岸部への進出を継続していた。北西部から締め出されたことからミンダウカスは進出を南西部にして、ナヴァフルダクフロドナヴァイクヴィスクの諸都市やポラツク公国を征服している[23]黒ルーシと知られるこの辺りを1239年頃に息子のヴァイシュヴィルガスに統治を委ねている[20]1248年には甥でダウスプルンガスの息子である タウトヴィラスゲドヴィダスジェマイティア公ヴィーキンタスとともにスモレンスク遠征に差し向けているが失敗している。リトアニアの支配を強固なものにしようとするミンダウカスの試みは複合した成功という形で叶った。1249年に甥とヴィーキンタスの土地を掌握しようとしたことで内戦が起きたのである[20]

戴冠の宣誓

リトアニアの地をローマ教皇の支配権におき、ミンダウカスの改宗及び戴冠について論じられたことに関する教皇インケノティウス4世によって発せられた教皇勅書

タウトヴィラス、ゲドヴィダス及びヴィーキンタスはリトアニア西部のジェマイティア、リヴォニア騎士団、タウトヴィラスとゲドヴィダスの義兄弟にあたるハールィチ=ヴォルィーニ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチ及びヴァスィーリコ・ロマーノヴィチらとともに反ミンダウカス同盟を結成した[20]。ハールィチ=ヴォルィーニ大公はヴァイシュヴィルガスの支配権を瓦解させることで黒ルーシ全土の支配を維持した。タウトヴィラスはリガに赴いて大司教から洗礼を受けることで自身の立場を強化した[8]1250年にリヴォニア騎士団は原リトアニアにおけるミンダウカスの支配地であるナリシア及びミンダウカスを未だに支持し続けるジェマイティアの大部分の地への大規模な侵攻を組織した[21]。 南北からの攻撃とその他地域の不穏の可能性への直面したことによりミンダウカスの己の立場が極端に難しいものとなったが、より関心のあったリヴォニア騎士団とリガ大司教の争いを利用するのに腐心した。ミンダウカスは、1236年のサウレスの戦いで敗北したヴィーキンタスに憤るリヴォニア騎士団団長アンドレアス・フォン・フェルベンに"多額の贈り物"を送ることで買収させることに成功した[19][21][24]

1250年ないし1251年にミンダウカスはローマ教皇インケノティウス4世によって国王として認められることの見返りとして洗礼の受け入れと西部リトアニアの支配地全土の譲渡に同意した。ローマ教皇はモンゴルの脅威に対する防壁としてのリトアニアのキリスト教化を歓待し、ミンダウカスの方は現在進行中のリトアニアとキリスト教騎士団の紛争の教皇による調停を目論んだ[8][25]。1251年6月17日に二つの決定的な教皇勅書に署名した。 一つはミンダウカスの国王戴冠のためのヘルム司教充てのもので、 リトアニアの司教座の任命と聖堂建設が書かれていた[26]。もう一つの勅書は、新しい司教はリガ司教よりも聖座に直に服属することが書かれていた[21]。この自治権は発展を歓迎するものであった [17]。ミンダウカスの洗礼に関する正確なデーターは知られていない[8]。その妻、2人の息子、宮廷の人物も洗礼を受けた。インノケンティウス4世は後にミンダウカスの臣民も同じく洗礼を受けたと書き残している[8]

戴冠の過程とキリスト教会の設立には2年費やした。内戦は未だに続き、1251年の春、夏にはタウトヴィラスとその生き残りの同盟者が、ヴォルタ城のミンダウカスの戦士とリヴォニア騎士団の弓兵を攻撃した。この攻撃は失敗し、タウトヴィラスの軍勢はトヴェリメント城(ジェマイティアのトヴェライであると推定される)を守るために後退した[27]。ヴィーキンタスは1251年ないし1252年に死去し、タウトヴィラスはダヌィーロと再同盟することを余儀なくされた[20]

リトアニア王国

ミンダウカスの戴冠。
ミンダウカスによりリヴォニア騎士団に譲渡された土地[28]
日付 領域
1253年6月 ジェマイティアの一部 (ラセイニアイの半分、ベティガラアリオガラ及びラウクヴァ – その他半分が1254年3月にキリスト教会の司教領となる)ズーキヤナドルヴァの半分[29]
1255年10月 セリヤ
1257年 カルスヴァ、ナドルヴァ、ジェマイティアの一部
1259年8月7日 ズーキヤの一部、スカルヴァとジェマイティアの全土
1260年6月 リトアニア全土 (仮にミンダウカスが後継者無くして没したら)
1261年8月7日 セリヤ全土

1253年の間にミンダウカスとその妻モルタは戴冠した。司教ハインリヒ・ハイデンリヒ・フォン・クルムが教会の儀式全体を務め、アンドレアス・スティルランドが王冠を授けた[8]6月6日は今日では建国記念日 (Lithuanian: Valstybės diena)として祝われている。これは今日のリトアニアでは公的な祝日である[30]。戴冠の正確な日付は知られていない。この日を広めた歴史家のエドヴァルダス・グダヴィシウスが時折挑んでいる[31]。戴冠された場所も知れていない。

1255年8月に添えられたミンダウカスの印章はドイツ騎士団による中世の偽造品である可能性が高い。

およそ8年間に渡って平和的関係及び安定した状態が続いた。ミンダウカスはこの機を利用して東方への拡大に集中させて国家機構を設立して組織した。黒ルーシポラツクダウガヴァ川流域の商業の主要な中心地、ピンスクへの自己の影響力を強化している[20]。同時にハールィチ=ヴォルィーニ大公国とも和平交渉を行い、ダヌィーロ大公の息子で後にリトアニア大公となるシヴァンに娘を嫁がせている。リトアニアと西欧諸国及び聖座との関係は強化された。1255年にはローマ教皇アレクサンデル4世から息子をリトアニア国王として戴冠させる許可を得ている[21]貴族会議、行政制度、外交上の接待ではミンダウカスが率先して行った[9]。建国の印として長い銀の貨幣が発行された[9]。ミンダウカスは、恐らくは今日のヴィリニュス大聖堂の跡地に建てられたであろうヴィリニュスの大聖堂の建設を支援した[32]

ミンダウカスは戴冠後、直ちにジェマイティアの一部、ナドルヴァズーキヤ(ただし、これら西部の地にはミンダウカスの支配権が及んでいなかった)の地をリヴォニア騎士団に譲渡した[16][31]。後年(1255年–1261年)になってミンダウカスは更なる地を騎士団に譲渡したのかという論議が歴史家の間に存在する。証書は騎士団により偽造されたかもしれない[20]。この筋書きの事例は、幾つかの文書がミンダウカスが事実上支配していない土地について言及している事実[17]や条約の証言や印章における様々な不揃い性によって高められている[28]

ミンダウカスとその敵対者であるダヌィーロは、黒ルーシをダヌィーロの息子であるロマンに譲渡する案で1255年に和解した。後にミンダウカスの息子であるヴァイシュヴィルガスは正教会の洗礼を受け入れて修道士となり、修道院と女子修道院を創設している[9][33]。タウトヴィラスの反抗は、自身がミンダウカスの優位を認め、ポラツクを封土として貰い受けることで一時的に収まった[20]。モンゴルとの直接の対決はベルケがリトアニアの支配に挑むために将軍ボロルダイを派遣した(ダヌィーロ以下その他諸侯が参加することを命じている)1258年ないし1259年に起きている。The ノヴゴロド年代記はこの時の行動についてリトアニアの敗北と記述しているが、これは同時にミンダウカスにとっては純粋な意味での勝利と見て取ることが出来る[24]

ミンダウカス自身がヴォルタを甥とヴィーキンタスから守備したという記述は『イパチエフ年代記』のみ見出される(他の2つの資料は“ミンダウカスの城”と記述している)。ヴォルタの位置は明確には述べられておらず、これには宮廷の位置に係わる考古学上の探求を伴うかなりの推測がある。ケルナヴェとヴィリニュスを含む少なくとも14の異なる場所が提起されている[34]。 ケルナヴェにおける進行中の公的な考古学的発掘は“ミンダウカスの王座の高地の砦”と名付けられた敷地の後の一部が崩壊した1979年に始まった[35]。 堂都市は現在、建国記念日の主要な祝いの主役を務めている[36]

暗殺とその後

13世紀から14世紀にかけてのリトアニア大公国の拡大。

リヴォニア騎士団はジェマイティア全土を支配下におくためにミンダウカスとの同盟を活用した。ミンダウカスは1252年に騎士団がクライペドス城を築くことを承認している[37]。 両者の統治は、しかしながら圧政のように見えた。現地の商人はリヴォニア騎士団の仲介を介してのみ取引を行うことが出来た。相続法は変更され、パートナー及び住民間の結婚は制限された[14]。幾つかの戦闘が立て続けに起きた。リヴォニア騎士団は1259年スクドの戦いで、1260年ドゥルベスの戦いでそれぞれ敗北した。前者の敗北はジェマイティア人による反乱を奮い立たせ、後者の敗北はプロイセン人による14年も続くことになる大反乱に拍車をかけることになった[9]。これらの進展や甥のトレニオタに奮い立たせられた形でミンダウカスはリヴォニア騎士団との和平を破棄した。ミンダウカスのキリスト教改宗による期待しうる物はほんの僅かであることが証明された[15]

ミンダウカスは後に異教信仰に戻ったと思われる。そのキリスト教改宗の動機は現代の歴史家によって単に戦略的なものであったと描写される[38][39]。ミンダウカスの背教事件に関しては2つの同時代の資料が残っている。一つはミンダウカスは間違った信仰に戻ったという教皇ヨハネス22世の断言であり、もう一つは『ハールィチ=ヴォルィーニ年代記』である[8]。後者は、ミンダウカスは異教の神々に生贄を捧げて焼き、公の場で異教の儀式を行うことで異教信仰を保持し続けたと述べる[40]。歴史家は、ミンダウカスはハールィチ=ヴォルィーニ大公国と争っていたから年代記の記述には偏見が含まれると指摘する[8][41]。他方、教皇クレメンス4世1268年にミンダウカス殺害に哀悼を示す形で "ミンダウカスの幸福な思いで" (clare memorie Mindota)を書いている[8]

幾つかの事件によりリトアニア全土のキリスト教化への準備はなされることはなく、それ以上の進展にはミンダウカスの改宗は僅かな衝撃しか与えなかった[9]。住民や貴族の大部分は異教信仰に留まり続けており、ミンダウカスの臣民はキリスト教への改宗を必要としなかった[1][39]。ミンダウカスがヴィリニュスに建てたカトリックの大聖堂は異教の神殿に取って代わられ、その戴冠後の外交上の成果の全てが失われたが、キリスト教化と通婚の試みは等しく大目に見られた[9][15][25]

リヴォニア騎士団との地域間の紛争はエスカレートしていった。ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキー、タウトヴィラスとその息子コンスタンティナスは反ミンダウカス同盟に同意したが、その計画は成功しなかった[8] 。ジェマイティアにおける抵抗の指導者としてトレニオタが台頭してきた。トレニオタは抵抗軍をツェーシス (現在のラトビア)に導いてエストニア沿岸部に達し、マゾフシェ (現在のポーランド)と戦った。その目標は支配下におかれている全バルト諸族をキリスト教騎士団に対する叛旗へと奮い立たせ、リトアニアの指導のもとで統一することであった[8]。トレニオタの影響力は増していったが、他方、ミンダウカスはルーシの地の征服に専念し、その主力軍をブリャンスクに派遣していた。トレニオタとミンダウカスは異なる優先事項を探求していたのだ[19]。 『リヴォニア押韻年代記』は、ミンダウカスは外交の方を好んだのであろうか、トレニオタがリヴォニア騎士団ないしエストニアとの同盟を構築しないことに実際に不快感を示していると言及している[8]。これらの出来事の最中に妻であるモルタが死去し、ミンダウカスはその姉妹でダウマンタスの妻であった女性を奪い取った[2][21][42]。このことが切っ掛けでダウマンタスとトレニオタは共同してミンダウカスをその2人の息子と共に1263年に殺害した[17]。後の伝説では暗殺はアグロナで行われた[43]。ミンダウカスの遺体は古くからの慣習に従って馬と共に埋葬された[44]。ミンダウカス没後のリトアニアは混乱状態に陥った。 3人の後継者、即ち、トレニオタ、義理の息子シヴァン、実の息子ヴァイシュヴィルガスは次の7年間の間に殺された。1270年トライデニスが大公位につくまで混乱は収まらなかった[22]

評価

リトアニアの共通貨幣リタスリトアニア国王ミンダウカスの刻印が押されたミンダウカス。

19世紀リトアニアにおける民族復興まで同国の歴史学ではミンダウカスの位置づけは不明瞭であった[2]。異教信仰への共感者はミンダウカスがその異教信仰を裏切ったことは軽率であると見做す一方でキリスト教徒はミンダウカスのキリスト教への支援は不熱心であると見做した[2]。ミンダウカスはゲディミナスによって唯一照会された程度で、その孫であるヴィータウタスによっては一度も言及されていない[2]。ミンダウカスの知られている親類縁者は息子の代で終わった。どの歴史家もミンダウカスの子孫と1572年までリトアニアとポーランドを支配したゲディミナス朝との関係について記録していないのである[45]17世紀ヴィリニュス大学の学長は当時のポーランド・リトアニア共和国 における体験("リトアニア内部の不協和音の因子がまかれた")からミンダウカスは厄災に対する責任があると見做していた[2]20世紀になると歴史家はミンダウカスのことを"リトアニア国家の破壊者"と非難した[2]。 The first academic study of his life by a Lithuanian scholarリトアニア人の学者ヨナス・テオダラスによるミンダウカスの生涯に関する最初の学術的な研究書(Die Litauer unter dem König Mindowe bis zum Jahre 1263)は1905年まで出版されなかった[2]1990年代にエドヴァルダス・グダヴィシウスは自身による発見[2]、即ち祝日となったミンダウカスの戴冠の日付について出版した。2003年のミンダウカス戴冠750周年記念はヴィリニュスでのミンダウカス橋が奉納、多くのフェスティバルやコンサート、その他の国々からの訪問者によって印象付けられた[46][47][48]

ミンダウカスは三羽の鳥の一人であるユリウス・スロワチクによって1829年のドラマMindoweの主題となった[49][50]。ミンダウカスは20世紀の幾つかの文学作品でも描写されている。ラトビアの作家マルチンス・ズィヴェルツの悲劇Vara (力、1944年)、ユスティナス・マルツィンケヴィチュースの叙事詩Mindaugas (1968年), ロムラダス・グラナウスカスJaučio aukojimas (猛牛の提供、1975年)、ユゾサス・クラリカウスカスMindaugas (1995年)[51]

関連項目

脚注

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先代
-
リトアニア大公リトアニア国王
1236年-1263年
次代
トレニオタ

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