マゾフシェ公国

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ボレスワフの息子たちによるポーランドの分割相続:
  マゾフシェ領、ボレスワフ4世の分領
  ウェンチツァ地方、ボレスワフ3世の未亡人サロメアの寡婦領で、その死と同時に長子領に戻される
  ポモジェ、長子領の支配者の封土

マゾフシェ公国ポーランド語: Księstwo Mazowieckie)は、1138年にポーランド国家の分裂に伴って創設された公国。1526年、ポーランド王国によって再統合された。

概要[編集]

公国の地方行政区分

1138年に、ポーランド大公ボレスワフ3世遺言状の中で、息子の一人で後に大公となるボレスワフ4世マゾフシェの統治を任せた。公国の統治者は全てピャスト家の諸公が務めた。

歴代のマゾフシェ公の中でポーランド大公を務めたのは、ボレスワフ4世(在位1146年 - 1177年)とコンラト1世(在位1229年 - 1232年)の2人である。コンラトは異教徒のバルト・プロイセン人を討伐するためにドイツ騎士団を招聘したことで知られている。1295年にポーランド王国はプシェミスウ2世の戴冠によって復活したが、マゾフシェ公国は独立を維持していた。1351年、マゾフシェ公はポーランド王の封臣となったが、プウォツク司教区グニェズノ大司教区の一部であり続けた。1385年、ポーランド・リトアニア合同が成立すると、公国はヤギェウォ朝の広大な王国の一部となった。1526年にヤヌシュ3世が子供を残さずに死ぬと、公国はポーランド王国にへ併合されてマゾフシェ県とされた。

東プロイセンに接する北部地域には、もとはマゾフシェ出身のプロイセン入植者マズールィ人が大量に移住したり宗教亡命をしたりした。18世紀までに、東プロイセン地域に組み入れられたこの地域は非公式にマズーレン(マズールィ)と呼ばれるようになり、この地域のプロイセン人(ドイツ系)はルター派の信徒となったが、ポーランド系のマゾフシェ人たちはカトリック信仰を維持した。