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藤原祐家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原祐家
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長元9年(1036年
死没 寛治2年7月28日1088年8月17日
官位 正二位中納言
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
藤原歓子(皇后→皇太后)
氏族 藤原北家御子左家
父母 父:藤原長家、母:源懿子源高雅の娘)
兄弟 道家忠家祐家藤原信長室、證明
藤原憲輔の娘
経覚
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藤原 祐家(ふじわら の さちいえ)は、日本平安時代公卿。藤原北家御子左流権大納言藤原長家の三男。

経歴

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後冷泉朝初頭の永承元年(1046年)元服して従五位下叙爵。永承4年(1049年正五位下侍従、永承5年(1050年従四位下に叙任されるなど順調に昇進し、永承7年(1052年正四位下次いで従三位に昇叙され17歳で公卿に列した。

公卿昇進後も侍従を兼ねるが、のち左京大夫左近衛中将を兼帯し、天喜3年(1055年正三位、天喜5年(1057年従二位と昇進を続ける。康平7年(1064年参議に任ぜられ、後冷泉朝末の治暦3年(1067年権中納言に昇任された。

治暦4年(1068年後三条天皇大納言藤原信長の大宮第への遷幸の際に、信長から譲られて正二位に叙せられ、延久2年(1070年)以降は皇后宮大夫として信長の同母妹である皇后藤原歓子に仕えるなど、祐家は藤原教通・信長親子ラインに親しかった。

承保2年(1075年関白・藤原教通が没したのち、藤原師実との関白職争いに敗れた内大臣・藤原信長は出仕を止めていた。この状態の中、承暦4年(1080年白河天皇と関白・藤原師実によって、藤原信長が太政大臣に祭り上げられるなど一連の人事異動が行われる。ここで、首席の権中納言であった祐家は正官の中納言に留まる中、次席の権中納言であった師実嫡子の藤原師通は大納言に昇進する。祐家はこの人事を不服に思い出仕を取り止めてしまうが、翌永保元年(1081年)不出仕により職封を停められた。その後、後任中納言の源経信源師忠源雅実が次々と権大納言に昇進する一方で、祐家は中納言に留めおかれた。

寛治2年(1088年)7月28日薨去享年53。最終官位は中納言正二位。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

参考文献

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
公職
先代
藤原信長
皇后宮大夫皇太后宮大夫
1070 - 1081
次代
源師忠
先代
源隆俊
備前権守
1064 - 1067
次代
大江清定
(備前守)
先代
藤原経長
備後権守
1059 - 1063
次代
藤原経季
先代
藤原道雅
左京大夫
1054 - 1058
次代
藤原長房